かなめのかなめ、かぎのかぎ―――私たちの信仰と希望
                                     コリント人への第一の手紙第15章12〜28節
                     
   

 今日は、不思議な題を付けました。私たちキリスト教会が信じ、信仰において希望していることは何でしょうか。今日は、その信仰と希望ということの「かな め」「中心」「かぎ」、その最も大切で基本的なことについて、「かなめのかなめ、かぎのかぎ」についてお話をいたします。
 私たち信仰者の信仰と希望において、「かなめのかなめ、かぎのかぎ」、それはいったい何でしょうか。「それは、イエス・キリストの復活である」と、パウ ロは語るのです。「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。」だから、それはまた希望 においてもむなしいということに他なりません。「イエス・キリストが復活されなかったとしたら、私たちの希望はむなしい」のです。その意味で、主イエスの 復活は、私たちの信仰と希望の「かなめのかなめ、かぎのかぎ」なのです。それはいったいどうしたわけでしょうか。

 なぜなら、まず何より、パウロの宣教が偽りの宣教となる、パウロが信じ語り伝えていること、さらには私たちもまた信じ語り伝えようとしていること、それ がすべて偽りとなってしまうからであると、パウロは語ります。「すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら―――わたしたちは神が 実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。」それは、他の人々に対して「偽 り」となると同時に、私たち自身にとっては空虚な信仰、信じるべき対象が無力になり空っぽになってしまうような虚しい信仰となるのです。
 「『イエス・キリストを信じなさい。そうすれば救われます。』と宣べ伝えても、イエス・キリストがもうすでに死んでいるのなら、その宣教のことばは全く 意味のないものになってしまいます。他の宗教では、その宗教の創始者が死んでも、問題はありません。彼らが信じているのは、宗教の教祖ではなく、教祖が説 いた教えであるからです。モハメッドを信じなさい、とイスラム教は教えません。また、『仏陀を信じなさい。』と仏教は教えません。しかし、キリスト教は、 イエス・キリストご自身を信じているのです。宗教の創始者自身が、信仰と礼拝の対象になっているのです。この方と個人的な関係を持つことが、キリスト教の 目的なのです。ですから、キリスト教からキリストの復活をなくせば、それほどむなしいことはありません。」(「ロゴス・ミニストリー」ホームページより) 「キリストにしてよみがえりたまわざりしならんか、ああ、わざわいなるかな、パウロよ、彼は虚偽のために彼の貴重なる一生を尽くしたり」。(内村鑑三)

 次にパウロが述べているのは、「キリストの復活がなかったならば、罪からの救いもまた無効になる」ということです。「もしキリストがよみがえらなかった とすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅 んでしまったのである。」主イエスを見捨て、裏切り、逃げ去った、ペテロをはじめとする弟子たちにとって、復活の主イエスとの出会いこそが、罪の赦しを確 信させ、十字架の出来事を信仰をもって振り返らせる決定的な転機・出来事となったのでした。それは、私たちにとってもまたその通りです。私たちもイエス・ キリストの十字架は、私たちの罪からの救いのためであったと信じていますが、その信仰はキリストの復活によってはじめて確かなより所と確信を得ているので す。
 また、キリストの復活は、すでに召された人々についての希望の支え、根拠ともなっています。もしそれが否定されたとすれば、まさにパウロが言う通り、私 たちは実に無駄なことをしてきたし、虚しいことに望みをかけているのです。私たちが経験してきた数々の葬儀も、召天者記念礼拝もまた無駄であり、虚しく なってしまうのです。「もし天国がなかったら(以下すべて「復活がなかったら」と読み替えていきたいと思いますが)、誰も天国には行けません(復活を受け ることはできません、神によって復活させられることはできないのです)。どんなにすばらしい生き方をもした人も、人を殺したが今は改心している人も、悪い ことばかりして悔いてもいない人と同じように天国に行けないのです(復活を受けることはできないのです。)。 もし天国(復活)がなかったら、イエス様と 一緒に十字架に付けられたあの泥棒も、またイエス様でさえ天国には行けないのです(復活を受けることはできないのです)。―――そんなのいやです。 もし 天国(復活)がなかったら、この世は本当の闇です。なぜなら、パウロのしたこと、宣べ伝えた福音も、すべてが無駄だったことになるからです。―――もし天 国(復活)がなかったら、いくら私たちが幼な子のようになって、『素直で、きれいな心を持つ神さまの子ども』になって、『この悪く、曲がった世の中』にい て、『しみも傷もない神さまの子ども』になれたとしても、すべては無駄になってしまいます。―――もし天国(復活)がないというのであれば、何のために生 まれてきたのか、何をして生きるのかという問の答えはありません。」(吉岡利夫『塀の中のキリスト』より)

 さらにパウロが言うのは、もしキリストが復活されなかったとすれば、「私たち信仰者は、実にみじめな生き方、虚しい生活をしている」のだ、ということで す。「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在 となる。」
 まさにその通り、ではないでしょうか。「私たちがこのように毎週集まって、礼拝を守ることはみな、意味のないことになります。キリストがよみがえられな れなかったとしたら、とっととみなさん、家に帰って、もっと充実した生活を営むために、楽しみを見つけてください。―――キリストがよみがえっておられな ければ、すべての教会活動、信仰の歩みは無です。ゼロです。―――そこで私たちは、自分が信仰生活をし、教会生活をし、宣教活動をしている根拠がすべて、 『キリストが生きておられるから』というものでなければいけません。日曜日にここに来なければ、生活のリズムが取れない、他のクリスチャンは礼拝に行って いるから、自分も通っておかなければいけない、聖書の話しが面白いから行こう、などなど、いかなる理由であってもいけないのです。私たちが信仰生活を営む 理由は、唯一、キリストが生きているから、でなければいけません。キリストが実に、死者の中からよみがえったから、今も生きておられるから、だからこの方 に祈り、この方のことばを聖書から聞き、この方を信じているほかの人々と交わるとなっていなければいけないのです。」(「ロゴス・ミニストリー」より)

 そのように縷々延べながらも、パウロは最後にこの事実、信仰による神の現実を確信し、宣言するのです。「しかし、そうではないのだ。決してそうではない のだ。」「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」私たちはこの信仰を、私たち自身の信念や確信の力から ではなく、向こう側からいただいたのです。「復活」ということは、とりわけイエス・キリストの復活ということは、本来人間の頭、力、考えでは到底信じ、受 け入れることのできないことではないでしょうか。それは、言うならば「向こう側のこと」なのです。全ての人間の予想も、判断も、願いすらも越えて、ただた だ向こう側から、ただただ神の御業、神の出来事として一方的に起こったからです。
 だから、復活という事柄は、イエス・キリストの復活は、「向こう側」から開かれるしかない、ただ神様の側から開かれるしかない、そして復活の主御自身に よって開かれるしかないのです。だから、それは神の選びの出来事です。神様の御心にかなって選ばれた人たちだけが、イエス様の復活を知り、信じ、受け入れ ることができたのです。そして、それは全く同時に恵みの出来事です。神様は、そして復活の主イエス御自身は、ただ恵みによって時と場と人とを選んで、御自 身を表し、御自身の復活を知り、信じ、受け入れさせてくださるのです。私たちは、どこまでも主イエスご自身が死の向こう側から復活されて来て、私たちの前 に立ち、私たちにご自身を開き示し、私たちに復活信仰を与えてくださった、そして今も日々に、時々刻々与えていてくださっていることによって生きるので す。

 最後に、一つ大切な注意があります。それは、実はコリント教会の人々は、イエス様の復活それ自体は信じていたようであるということです。では何をいった い彼らは否定していたかというと、それはこういうことなのです。「キリストは死人の中からよみがえったと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者 が、死人の復活などはない、と言っているのは、どうしたことか。」つまり彼らは、「キリストはよみがえったが、死人の復活、つまり死人一般の復活などとい うことはない」と主張していたのでした。「イエス様は確かに二千年前に復活されただろう。しかしそれはあくまでもイエス様だけのことであって、そのほかの 人々は、私たちもまた、復活するなどということはあり得ない。復活などということは、私には関係のないことだ。」それをこそ、パウロは責めているのです。 「もし死人の復活がないならば」、あなたがたが復活に関わりがなくあなたがたの復活がないならば、「キリストもよみがえらなかったであろう」、主イエスの 復活はあってもないのと同じだ。「それが虚しい」と言っているのです。
 でも、ここでパウロは、私たちにまさに福音を語り告げたいのです。「復活は私たちのことなのだ。復活はまさにあなたのことなのだ。」「イエス・キリスト が罪のゆえに十字架に死んで、しかし神の力によって復活させられたように、あなたがたもまたキリストと共に罪に死んで、キリストと共に神の力によって生き るのだ。そしてあなたがたはこの世の生涯の果てに必ず死ぬだろうが、そのあなたが来るべき日神によって死の中から起こされ、復活させられて神の前に喜びを もって立つことがゆるされのだ。」
 マルティン・ルーサー・キング牧師は、アメリカ合衆国で、アフリカ系住民の人権のために、そしてすべての人の人権ために仕え働いていたとき、彼を力づけ てくれたシスター・ポラードという一人の女性のことを語っています。「私はとても困難な週を過ごしていた。―――それでも私は決心してその夜も壇上に立っ たが、私の話には力がなかった。すると集会後シスター・ポラードが近づいてきて、言った。『何か悪いことがあるのですか。今日のお話には力がありませんで したが』と。そこで私は言った。『何にもありませんよ、シスター・ポラード。大丈夫ですよ』と。ところが彼女は言った。『ごまかしてはいけませんよ。何か 悪いことがあるのでしょう。』―――彼女は最後にこう言ってくれた。『私に近づいてください。そしてもう一度だけ言わせてください。―――すでに申し上げ たことですが、私たちは一緒にいますよ。』さらに続けた。『でも、たとえ私たちが一緒にいなくても、主はあなたと一緒にいますよ。』そして彼女は次の言葉 で締めくくった。「主があなたの面倒をみてくださいますよ。』」(キング牧師説教集『真夜中に戸をたたく』より)主がどのように「面倒をみてくださる」の でしょうか。それは、主はご自身復活され、常にあなたと共におられ、ついにはあなたをも死を越えて「復活させてくださる」ということではありませんか。 「その日以来、私は色々なことを見てきた。―――そのとき以来、シスター・ポラードは亡くなった。その時以来、私は十八回以上も投獄されてきた。―――私 の家は三回も爆弾を投げ込まれてきた。その時以来、私は毎日死の脅迫にさらされてきた。その時以来、私は多くのやりきれない困惑の夜を過ごしてきた。だ が、そのたびに繰り返し私はシスター・ポラードの言葉を思い出すことができる。『神があなたの面倒をみてくださいますよ』と。それゆえ今日、私はどんな男 性にも、どんな女性にも、しっかりと大地に足をつけ、顔を上げて立ち向かうことができる。」(同上)「神があなたの面倒を見、あらゆる困難を超えて、死を 超えてさえも、あなたを復活させてくださる!」
 私たちの信仰と希望の「かなめのかなめ、かぎのかぎ」はこれなのです。「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのであ る。」だから、私たちの信仰は、希望は虚しくないのです。そして愛の働きもまた、決して虚しくは終わらないのです。「このようにいつまでも存続するもの は、信仰と希望と愛と、この三つである。」

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを愛された神よ。
 あなたは御子イエスを私たちの罪のゆえに十字架にお渡しになり、しかしまたそれから三日目にイエスを死の中から起こされ、引き上げ、復活させられまし た。さらに主イエスのゆえに、あなたは御子のみならず、罪人であり死すべき者である私たちをも、罪と死の中から引き上げ、起こし、復活の恵みをくださいま す。この尽きることも、朽ちることも、消えることもない希望のゆえに、私たちの信仰も愛の働きも、教会のすべての業とすべての道も虚しく終わらず、必ず完 成と栄光へと導かれると信じます。どうか、この信仰と希望によって私たちを力づけ、さらに導き、お用いください。
復活にして命なる救い主イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。



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