神の思いのままに吹く
コリント人への第一の手紙第12章1〜13節
この手紙が宛てられたコリントの教会には、実に色々な問題がありました。その一つが、「聖霊」「霊の賜物」ということをめぐって、教会が混乱し、争い、分
かれてしまうような状況にあったということでした。会員の中で、「私の方が聖霊を受けた」「いや、私の方がもっと聖霊を受けた」と言って、競い合い、争い
合っていたのです。分裂や「空中分解」の危険さえありました。このような状況に向けて、パウロはこの手紙を書いたのです。私たちの時代また教会でも「聖
霊」ということはあまり語られず、「よくわからない」と言う方が多いように思います。それで、かえって「聖霊」が誤解と争いのもとになってしまうというこ
とが起こり得るのです。
パウロはまず、「聖霊」ということを理解し、受け止めるための原点・基礎・原則を述べます。1〜3節 「あなたがたが異邦人であった時」というのは、
「あなたがたがクリスチャンになり、教会に加わる前」ということです。その時にはまことの神様を知らず、異なる神々、はっきり言えば「偶像」のところに連
れて行かれて、それと知らずに拝んでおりました。ところがある時から、あることをきっかけとして、いやきっかけがなくても、急に「イエスは主である」、あ
のイエス様がまことの救い主であり、神から来られた方だということがわかるようになり、そう思い信じられるようになり、それをはっきりと人々の前で表して
生きることが始まったのです。ここにおられるクリスチャンの方は、皆そうです。幼い頃から教会に行っていたという方でも、バプテストの場合は「自然に」ク
リスチャンになるということはありません。どんなに「幼い」理解であっても、はっきりと自分の信仰と意志を表してバプテスマを受けるのです。
ところで、パウロは言うのです。「神の霊によって語る者はだれも『イエスはのろわれよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主
である』ということができない。」あなたがたが、そのような道をたどり、「イエス様こそ救い主である」と信じ、告白して、バプテスマを受け、クリスチャン
となったということ、それは他でもない聖霊の働きと力によるのだ。聖霊は、一人一人を「イエスは主なり」と告白させて信仰へと導き、教会へと集めたので
す。私たちを教会へと導き、集めたのは聖霊だったのです。
ここで私たちには「驚き」が必要です。私たち一人一人をこうして教会へと集めたのは、聖霊であった。このことに改めて気づかされる時、驚かずにはいられ
ません。もし聖霊が集めるのでなければ、とうてい、また絶対に出会うはずがない、集まるはずがない、一緒にやろうと思うはずがない、そういう私たちがなん
と一つに集められています。生まれ、育ち方、境遇、好み、考え方、生き方の何というかけ離れたほどの違いであり、落差であり、ギャップであることでしょう
か。そういう者たちがなんと、呼び集められ、一つにされている。これを「神の業」と言わずして、何と言いましょうか。
そしてまた、私たちには「感謝」が必要であると思います。私たちがこうして集まったのは、決して決して自分の思い・人間の思いではありません。それはど
こまでも聖霊の働き、と言うことは、それはどこまでも神の思い、神の力、神の導きです。よくぞこの私を、この私たちを、神は愛し、赦して、受け入れてくだ
さった。どれほどの愛であり、赦しであり、恵みであろうか、私たちは感謝せざるを得ないのです。
ただ聖霊によって「イエスを主」と信じる、この一点で私たちは呼ばれ、集められ、一つとされている。どこまでも神の思いと力と導きによって、こうして教会とされている。このことをまず、驚きと感謝をもって確認し、受け留めたいと思います。
次に、ではこの「聖霊」は、教会においてどのように働かれるのでしょうか。コリント教会で問題となっていた、聖霊の現れや働きの違いをどのように理解
し、受け止めればよいのでしょうか。それを、私は、一言で言うなら「神の思いのままに吹く」ということだと思います。「ヨハネによる福音書」で「風は思い
のままに吹く」とイエス様はおっしゃいましたが、パウロもこのような表現を使っているからです。「御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるので
ある。」「思いのままに」「風は吹く」、それはすなわち教会において「御霊は思いのままに」これこれこのように働く、ということなのです。
それは、まず「各自に働く」ということです。「各自」、これは実は聖書で大変重要な言葉であると言えます。「各自」、「おのおの」の人がいるのだという
ことです。「各自」「おのおの」、全く違う人と人、全く違う生まれと育ちと力と特性と好みと生き方を持つ人がいる。先ほども申しましたが、教会はそのよう
な全く違う「各自」「おのおの」が呼び求められ、集められて、一つになっている群れです。それは、全く驚くべき違いであり、多様性であり、差であり、
ギャップです。そういう「各自」の人の存在そのものが、もう聖霊の御業であり、聖霊が働いてくださる舞台なのだというのです。さらに言うならば、その「舞
台」において、「各自」それぞれが、端的に言えば皆さん一人一人が「主役」とされるのだということではないでしょうか。
このようなところ、場というものは、普通はありません。この世は、「差」を好まないのです。むしろ、「違い」は不快感をもたらし、不快感は線引きをもた
らし、線引きは差別をもたらし、差別は排除をもたらすのです。また、「差」や「違い」が出るならば、それは「競争の結果」であるとされ、「優劣」が語られ
ます。だれもが「主役」になれる場など、普通はありません。コリント教会でもそうでした。「この賜物、能力の方がすぐれている。だから、これを持っている
私たちは、あなたがたよりもすぐれているのだ。あなたがたのような者たちは、教会にはいらない」「いや、あなた方こそいらない」などということが、語られ
ていたのです。ところが、パウロは神の霊が働くところ、そこでは「各自」「おのおの」が、「各自」「おのおの」として、「各自」「おのおの」であるがまま
に愛され、大切なものとされ、神のために用いられるのだと考えているのだと思います。
次に聖霊は、「各自」に様々な「賜物」や「働き」を与えて働かれるのです。
一般的な違いでもそうですが、そこに、「賜物」や「働き」の違いが加わってくると、先ほど見たように、さらに「優劣の比較」やそれに基づく「線引き、差
別や排除」というものが現われてくるのが「普通」です。しかし、「普通」でないことが起こるのが、神の業であり、神の教会ですから、神様は次のように「普
通」でなく働かれるということを私たちは覚えているべきではないでしょうか。
ある方はこう言っています。「私たちが神の栄光を現すというときに、二つの方法がある。一つは、あれができる・これがすぐれているという、一般的・常識
的方法だ。これも神の業である。でも、神はもう一つの仕方でも働くことができる。」「なんとだらしがないのでしょう、なんと駄目な人間なのでしょう。よく
こんな人が存在しているね、という人も、神の栄光を表すことができます。なぜなら、神様は人間の知恵をはるかに超えて、こんな私たちを生かしていてくださ
るからです。こんな駄目な、はしにも棒にも懸からないような存在を生かしていてくださるということのゆえに、神の栄光を表すことができるのです。」(出典
不明)それはこんなふうにまとめられます。「弘法は筆を選ばすと言われていますが、神は人を選ばれます。その人の人生も失敗も成功も、タレントも痛みや悲
しみまでも神はご承知の上でお用いになります。――自分を売り込むことはやめましょう。なぜなら神があなたをもう買っておられるからです。しかしあなたの
痛み、悲しみ、失敗、絶望については大胆に語ってください。」(大江寛人『百万人の説教レッスン』より)あなたの「賜物」は、あなたの「痛み、悲しみ、失
敗、絶望」であるかもしれないのです。
どうしてそんなことが起こり、成り立つというのでしょうか。パウロは言います。「それは、一つなる御霊の、一人なるキリストと神の働きであり、業であ
り、賜物だからだ。」「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務めは種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべて
のことをなさる神は、同じである。」
私たちは「違い」があると、心配になります。「こんなに違っても、だいじょうぶか。」さらに、それが単なる「違い」でなく、「問題」であり「わずらい」
を必要とすることだとすれば、もう混乱してしまうでしょう。でも、神様は人を選び、呼び出し、集め、一つにし、「各自」をそれぞれの場におき、それぞれの
場でおのおのを重んじ、用いることの「名人」なのです。「すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け
与えられるのである。」私たちのものさしでは、「こんな人は」というような人が、神の国ではしかるべき場と働きを与えられ、不思議にもちゃんと用いられる
のです。一人なる神様が、一つなる良き御心とご計画のもとに、「各自」を愛し受けいれ、それぞれに「賜物」を与え用いて、一つなる働き、統一のとれた御
業、完成に至る御業を行ってくださるのです。「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるよ
うに、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるように
バプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。」
それは、あのイエス・キリストにおける業であり、主イエスが歩まれた道です。人を愛し、赦し、よしとする業です。それをすべての人に及ぼし、全世界とす
べてのものにまで及ぼし、新しい天と新しい地を来たらせ、完成させる道です。それはこんなふうに。「僕自身が、自分を肯定できないときに、自分を大切だと
思えなかったときに、自分を好きではなかったときに、それでも『わたしを肯定し、大切に思い、命がけで愛してくれる絶対的な存在がいる』と信じることで、
命をつなぐことができました。そこから初めて、自分を愛おしい大切な存在なのだと受け入れられるようになったのです。」(平良愛香『あなたが気づかないだ
けで神様もゲイもいつもあなたのそばにいる』より)
こうして神ご自身が、私たち「各自」を集め、導き、用いて、その良き御業を完成してくださいます。「各自が御霊の表れを賜わっているのは、全体の益になるためである。」
まずは、「教会全体の益になる」ということでしょう。「こんなにてんでんばらばらで、教会はどうなるの」と思うことがあります。でも、私たちが考え捉え
られる「全体」と、神様が真に捉え考えておられる「全体」は違います。神様は本当に「全体」を知り、「全体」を見ておられます。その「全体」を神は目指
し、「全体の益」となるように働き、「全体」を完成に導いてくださいます。
さらに、神様の「全体」は、教会だけにとどまるものではありません。神様にとっての「全体」は、まさに「全体」、この世界、神様が創られた世界、天と地
のすべてにまで及ぶでしょう。その「益」のために、神が創られた世界が新しくされ完成されるために、「新しい天と新しい地」の到来と完成のためにまで、神
様は「各自」一人一人と、その「各自」からなる教会を用いてくださるのです。なんという大きな、広い、そして深い御心であり、驚くべき不思議なご計画であ
ることでしょうか。
この神によって、今私たち「各自」が呼び求められ、集められ、教会として一つにされているのです。この神によって今私たちのただ中に「神の思いのままに
吹く」、御霊の「風」が吹き、私たちを自由と喜びに生かしてくださるのです。この恵みをしっかりと覚えつつ、各自に与えられ、ゆるされている課題と働き
に、喜びと望みと誇りをもって仕えていきたいと切に願います。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストにおいて私たちすべてのものを極みまでも愛された神よ。
あなたのもとからご聖霊が私たちのところに下り、私たち「各自」をキリストへの信仰において一つとし、教会として集めてくださいました。こんなにも違う
「各自」、しかも問題と弱さと限界を持つ「各自」です。けれども、あなたがその一人一人を、かけがえのない「ただ一人」として、しかも「キリストの体」の
不可欠な「部分」として呼び出し、集めてくださいました。さらに、その「各自」に、私たちの思いや評価を超えた「賜物」を与えて、しかも「全体の益」とな
るように用いてくださいます。このあなたのすばらしい業を、心より感謝し、御名をあがめます。どうかあなたの教会、その一人一人をますます支え、導き、用
いてください。
教会の主、全世界のすべての人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。