共にイエスの食事を受け、食べるために
                                     コリント人への第一の手紙第11章20〜34節
                     
   
  コリント教会の「共に生きられない」問題は、単に「仲が悪い」ということを超えていました。パウロは、これほどまでに言うからです。すぐ前の17節です。 「あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。」教会に共に集まることが「かえって損失になっている」、「そんな」と思 います。具体的に言えば、こういうことだったのです。「あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。」「主の晩餐」とは、今の私 たちまでも引き続いて行われている教会の伝統的儀式です。私たちは新型コロナ感染症対策のため色々と試行錯誤を行い、実際に食べ飲むことができない時期が ありましたが、本来のやり方では、イエス・キリストの「体と血」を表すパンとぶどうジュースを分かち合って共に食べ飲み、それによってイエス・キリストの 生涯と死を思い起こし、確認するのです。
 その「主の晩餐」ができないでいる、どういうことが具体的には起こっていたのでしょうか。パウロは言います。「というのは、食事の際、各自が自分の晩餐 をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。あなたがたには、飲み食いする家がないのか。それとも、神の教 会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかな い。」
 当時の教会は、私たちが今行っているような儀式としての「主の晩餐」と、実際に共に食事をする愛餐食事会としての「主の食卓」とを、一緒に行っていたの です。当時は、今のように「日曜日が休み」ということは一般的には認められていませんでしたから、「主の晩餐」も含めて礼拝は、今でいうと「平日の夕方か ら夜にかけて、信者の家に集まってやる」というような感覚だったのです。
 おまけに、社会には、今と同じような「格差」がありました。その「貧富の差」は、今以上であったかもしれません。以前ある方から教えていただいたのです が、当時の社会は一握りの、本当の「一握り」の人だけが裕福で、まともな生活をすることができ、他の圧倒的大多数の人々は恐るべき貧しさの中に沈んでいた というのです。その人口構成は、「ピラミッド型でさえなかった」そうです。そして、実は今、私たちのこの社会、この世界は、その大昔の状況に逆戻りつつあ るかもしれないということでした。
 そういうわけですから、食事会を兼ねた「主の晩餐」を今晩「家の教会」でするというときに、教会の中でも比較的豊かでお金持ちの人たちは、仕事をする必 要がないので、もう昼間から教会にやって来て、先に食事を食べ始めるということが起こっていたのです。パウロによれば、ぶどう酒も飲んで「酔う人がいる始 末だ」というのです。これに反して貧しい人たちは、先に言いましたように、礼拝の日も「平日」ですから、一日中仕事をして、疲れて切ってようやくのことで 教会に来てみると、もう食べ物は何も残っていない、がっかりしてみじめな思いにさせられていた、ということであったようです。それがもとで、いさかいや争 いがたびたびあり、「主の晩餐」のたびに、そのような混乱が教会で引き起こされていたのです。

 このような知らせを聞いて、今パウロは言うのです。「あなたがたが集まることが、かえって損失になっている。あなたがたは『主の晩餐』を守ることができ ないでいる。」さらにパウロの気持ちを代弁して、もっとストレートに言うならば、「あなたがたがやっているそれは、『主の晩餐』ですらない」。
 なぜなら、「主の晩餐」とは、まさに「主イエスの晩餐」、「イエスの食事」だからです。「イエスの食事」、あのイエスが生涯の働きの初めから終わりま で、いつも、そして繰り返しなさった、多くの人々との共なる食事です。「多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその(食事の)席についてい た。」(マルコ2・15)「イエスは五つのパンと二匹の魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンを裂き、弟子たちにわたして配らせ、また、二匹の魚 もみんなにお分けになった。みんなの者は食べて満腹した。」(マルコ6・41〜42)これらのすべての食事を通して主イエスは、とりわけ貧しい人たち、病 気で苦しむ人たち、「罪人」とされて社会から差別され排除されている人々をかえりみ、彼らと何の隔てもなく関わり、共なる食卓の交わりを持たれました。こ のような振る舞い、行動によって、イエスは、神の愛が無条件に彼らの上に臨み、注がれている、そのようにして神の愛はすべての人に注がれているということ を示し、実践し、教えられたのでした。そのような生き方と業のゆえにこそ、イエスは責められ、陥れられ、苦しめられてあの十字架につけられ、そして殺され 死なれたのでした。そのようなすべての「イエスの食事」の最後の食事、またそのようなイエスの全生涯、その言葉、教え、行動そして生き方の「総決算」とし ての「最後の晩餐」であったのです。パウロは問いかけるのです。「あなたがたが今しているその食事、その行動、その生き方は、はたして『主の晩餐』と言え るものだろうか、はたして『イエスの食事』という名をもって呼ばれるにふさわしいものだろうか。」

 だからこそ今パウロは、もう一度、あのイエスが弟子たちと共にされた「最後の晩餐」の場に立ち戻り、そこでなされたこと、そこで伝えられたことを振り返 るのです。「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたにも伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、 そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして 言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』。」「これはあなたがたのためのわた しのからだ」、それは、「わたしのからだ」、「わたしのすべてをもって、わたしのこの体、この血、この命を与えるほどに、それほどまでに、わたしはあなた がたを愛し、最後まで愛する」、そう語られたのだと思います。
 そのように愛し、語られるイエスの食事、主の食卓に座り、連なる時、いったいだれが「ふさわしい」と思い、語ることができるでしょうか。この圧倒的な 愛、無条件の愛、尽きることのない愛の交わりの中に座るとき、私たちのすべては、誰一人例外なく、自分の罪を示され、見せられ、悟るのです。「だれもふさ わしくない、わたしもまた、いやわたしこそふさわしくない」。あの人を愛することができない自分、あの人たちを受け入れ、共に生きることができない自分、 そしてお互いを裁き合い、責め合い、争い合っている自分たち。しかし、イエスは自分と出会い、自分と関わる全ての人、はっきり言えば全ての罪人たちを受け 入れ、赦し、愛されました。罪人を受け入れ、愛し、共に生きることは、その罪を引き受け、負い、共に担うことでもあります。イエスはこの業をとことんまで 成し遂げ、この働きを最後まで担い、その道を歩み通されました。それは、死に至るまでも、十字架の死に至るまでも、そうされたのです。だからこの食事は、 「罪のあがない」のしるしともなるのです。「この式において私たちは、イエスの十字架が私たちの罪の贖いのためであったと告白します。主イエスの十字架 は、私たちが負うべき罪の十字架です。イエスは、罪人である私たちをあわれんでくださり、信仰告白の有無にかかわらず、先んじて私たちを愛してくださいま した。いかなることがあろうとも、一人として私を愛してくれない時にも、主イエスが伴われ、赦し、愛してくださることを信じます。」(東八幡キリストキリ スト教会 主の晩餐式文より)

 イエス・キリストは、「最後の晩餐」において語られました「これはわたしのからだである」、それは「取って食べよ」ということです。「取って食べよ」、 何を、「わたしのからだ」を、わたし自身を、わたしの愛を、わたしの赦しを、わたしのいのちを、わたしの生き方・生きる力を、わたしのすべてを「取って食 べよ」、そしてあなたがたは生きよ、そうおっしゃったのです。
 「食べる」こと、それが私たちを生かし、支えます。「食べる」こと、それが私たちの体を形作り、私たちが生きる力を生み出します。「イエスの食事を受け る」、さらには「イエス自身をいただき、食べる」、それが、それこそが「主の晩餐」であり、「主の晩餐」において、いつも私たちがいただき、受け、行って いることなのです。だから、「主の晩餐」において、「想起」思い出すことは大切です。あのイエスの生涯、イエスの道、イエスの十字架、イエスの死を想起す ることなしに、私たちはイエスの愛、そしてイエスを通して表され、溢れるばかりに注がれた神の愛を知り、わかることはできないからです。
 しかしまた、決して「想起」だけでもありません。「イエスの食事」を想起すると共に、それだけでなく本当に「イエスを食べ」、イエスの命、イエスの愛、 イエスの生きる力を、私たちは信仰において受け、いただき、実際に私たちもイエスと共に、またお互い同士共に生きるのです。これが「主の晩餐」であり、ま さに「イエスの食事を共に食べ、受ける」ことなのです。
 だからそれはまた、「新しい契約」のしるしともなるのです。「新しい契約」、新しい約束、それはイエスと共にし、神の前で神と共に結ぶ約束です。「主 よ、私はあなたと共に生きます、あなたと共に歩みます、あなたと考えを共にし、生き方を共にし、歩む道を共にします。また、あなたが出会わせてくださるす べての人と共に、互いに助け仕え合いながら、共に生きることを目指し、努力し、励みます。」「私たちの死ぬべきからだは、イエス・キリストの十字架と共に 滅び、イエス・キリストの復活と共に新たにされました。―――復活のいのちは、人を愛し、赦す者へと私たちをよみがえらせます。イエスは、貧しく、虐げら れている人々と食事をされました。それは、神の愛の広さと深さを示します。そこには別け隔てや差別はありません。主イエスに赦され、生かされた私たちは、 パンを取り、杯を飲むにあたって『自らを吟味』しなければなりません。その愛に応えて生きているかを吟味するのです。社会には未だ抑圧、不公平、貧困があ ります。私たちは、晩餐において、悔い改めキリストに従う者としての生を決意します。」(同上)

 このような「主の晩餐」を、私たち教会は忘れることなく、止めることなく、ずっと続けて行きます。パウロは、コリント教会に言います。「だから、あなた がたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」それは、「主の死を告げ知らせ る」食事であると共に、「主がこられる時」を目指し、待ち望む食事でもあります。「主がこられる時」、イエス・キリストが再びこの世に来られる時、「新し い天と新しい地」は到来し、神の国は実現し、完成します。「主の晩餐」によって、私たちはその「時」を待ち望む。そして、その「時」訪れ、完成するであろ う、新しい天と新しい地、その中で与えられ、起こり、私たちも持つであろう新しい交わり、神の国の交わりを、心から信じ、期待し、それを先取りして生きる のです。
 ただ、それは決して大げさなこと、大仰なことではありません。パウロは、コリントの人たちに、一つのささやかな提案をします。「それだから、兄弟たち よ、食事のために集まる時には、互に待ち合せなさい。もし空腹であったら、裁きを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。」「なーんだ」と思 わなくても良いのです。あの人のことを思い、あの人たちを思いながら、ちょっと我慢する、いやむしろ、別のもっといいやり方、もっといい生き方、もっとい い道を考える、模索する、模索しながらやってみる、やってみてうまく行かなかったら、また別のことを考える、あきらめずに、投げ出さずに、まして見捨てた りしないで、考え続ける。そんなふうにして、共に生きることを続け、目指し続ける。これが、「イエスの食事を共に食べ、受ける」ことであり、まさに「主の 晩餐」を守ることであり、そこから始まる道にはいつも主イエス・キリストご自身が共にあり、共に歩んでいてくださるのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 イエスはあなたの愛と真実を、罪のこの世にもたらし、罪人である私たちに与えてくださいました。そのこの上ないしるしは、「イエスの食事」でした。その ようにして主は歩まれ、「最後の晩餐」にまで至り、十字架の死にまで至られました。それを覚える「主の晩餐」を共に受ける時、私たちは自分たちの罪を知 り、そしてあなたの愛を知らされます。また、復活の主のからだと命を食べ、受け、いただきます。またそれによって、主と共に、すべての人と共に生きる力を もいただきます。どうか、この「食事」から始まる道を、私たち一人一人とその教会もまた、ここから歩み出し、共に生きる試みと努力を、喜びと希望をもって 続けて行けますように助け、お導きください。
まことの道、真理また命なる世の救い主、また教会の主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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