キリストが現れてくださるために
コリント人への第一の手紙第9章19〜23節
最初にここを読んだとき、「パウロってすごいな」と思いました。「すべての人の奴隷になった」、「何々の人には、何々の人のようになった」、「すべての人
に対しては、すべての人のようになった」、「わたしは、福音のためにどんなことでもする」、そこまでできるパウロ、そこまで語り、生きるパウロは本当にす
ごいな、そう思ったのです。
でもそのうち、疑問を抱くようになりました。「何々の人には、何々のようになる」なんて、本当にできるのか。いろいろな課題や問題を持ち、様々な悩みや
苦しみを抱えた人々に出会ううちに、こう思うようになったのです。「わかります。よくわかりました。あなたの悩み、苦しみがよくわかります」なんて、軽々
しく言えない。むしろ私たちは皆、他の人のことやその苦しみは、本当には決して理解できない、共感できない、わからない。決して、「その人のように」はな
れない、それが真実であり、自分であり、またそもそも人間なのではないか。そう思うようになったのです。
そういう視点に立って、もう一度このパウロの言葉を読み直してみると、ずいぶん印象が違って聞こえてくるようになりました。「何々の人には、何々の人の
ようになった」、それを直接「あなたには、あなたのようになったのですよ」なんて言われるとしたら、ずいぶん押しつけがましく聞こえるのでないか。またそ
もそも、人間にはできないようなことを、「私は、すべての人には、すべての人のようになった」なんて、ひどい大言壮語なのではないか。
それでは、今日私は、このパウロの言葉をどう読み、どう聞くのでしょうか。私は思います。「もし、ただ一つのことがないのならば、これらのパウロの言葉
は、まさに滑稽な大言壮語となってしまうだろう。」しかし、その「ただ一つのこと」が、パウロにはあったのだと思うのです。だから、これらのパウロの言葉
も、単なる大言壮語ではなく、むしろ彼の真実の証しの言葉、宣教の言葉となっているのではないか。
その「ただ一つのこと」とは何でしょうか。それは、パウロが「ただ一人の方」を、信仰において仰ぎ見ていたということです。その「ただ一人の方」とは、
「なる方」であり、「なった方」です。それは、聖書の「主なる神」ご自身であり、イエス・キリストご自身にほかなりません。「出エジプト記」でモーセにご
自身を紹介された神様は、ご自分のことを、「わたしは、あってある者」と語られました。その神様のお名前は、一つには、「わたしは、自分がなろうとするも
のになるであろう」と解釈することができます。神様は、まさに「なろうとする」。エジプトで奴隷とされ抑圧され苦しみられている古代イスラエルの民の「よ
うになろうとする」。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを
知っている。」(出エジプト3・7)そしてこの神様が、罪と悪の世に送られた救い主イエス・キリストは、まさに「なった方」でした。「キリストは、神のか
たちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と
異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(ピリピ2・6〜8)
このお方を知らされ知り、このお方を仰ぎ見るとき、パウロは、そして私たちも、一つの生き方、一つの生き方の方向性、一つの生きる内容、一つの生きる道
を願い、求め、目指さずにはいられないのです。それはやはり、私たちも「なる」「なろうとする」道です。「わたしは、すべての人に対して自由であるが、で
きるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。―――律法のない人には―――律法のない人
のようになった。―――弱い人には弱い人のようになった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。」それは、本当の意
味では決してできないかもしれない。また、それは「滑稽な大言壮語」と言われてしまうかもしれない。しかし、そのように願い、そのような生き方をこそ求
め、それを目指して生きるほかはない、生きようとして歩むよりほかはないのです。なぜなら、私を愛してくださった方、私に呼びかけ、私をご自身に従い、ご
自身と共に働くようにと召してくださったあのお方、イエス・キリストがそのように生きられたからです。「おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿
になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」
だから私たちも、まさにそのように生きるのだと、宗教改革者ルターは言いました。「『キリスト者は、万物を支配する自由な主であって、何人の下にもいな
い』ものであるとともに、『キリスト者は、万物の奉仕的な僕であって、あらゆる人の下にいる』と。―――「―――彼は隣人の弱さを担い、隣人が間違ったこ
とを欲する場合でも、それが神と良心に反対する服従でない限り、隣人の意志に従うべきである。彼はもはや自分自身に生きないで、キリストと隣人のために生
きる。これが溢れるばかり豊かな神のめぐみに対する信仰者の喜ばしい感謝であり、応答であり、隣人に対する喜ばしい自発的な奉仕であり、愛である』
―――。」(小畑進『コリント人へのの手紙第一提唱』より)
イエス・キリスト、このお方によって、パウロは福音を知ったのです。だから、「キリストを伝える」ということは「一方通行」のことではないのだと、パウ
ロは語るのです。「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」キリストを伝えることは、「わたしも共に福音にあ
ずかる」ことなのだ。「わたしも共に福音にあずかる」、これはいったいどんな意味なのでしょう。「この『福音の恵みを共に受ける』(注 「共に福音にあず
かる」の別訳)という言葉の意味を、福音の与える恵みや祝福に私も与りたいからだ、というような意味にとるべきではないでしょう。むしろここでは、『福音
の本質を私も共に体験するためだ』、というように理解すべきでしょう。福音の本質とは、神である主イエスが自らの権利や自由を捨てて貧しい者となり、他の
人たちを豊かにした、その利他的な生き方そのものにあります。」(中原キリスト教会ホームページより)「もし神が地上に降りたったなら、イエスのように愛
を語り・愛を行うであろうからです。イエスはサマリア人もギリシア人も差別なく交わりました。病人をいやし、飢えている者に食べ物を与え、酒宴には酒をふ
るまいました。さまざまな愛の教えを説き、愛の無いユダヤ人権力者たちを批判しました。」(泉バプテスト教会ホームページより)
パウロが願うことは、ただ一つです。「このキリストが現れてくださるように」。パウロ自身の、ある意味で「滑稽」で、「大言壮語」と言われてしまうよう
な生き方の中でも、どうにかして、なんとかしてでも「その人のようになろう」、そのようにして「その人と共に生きよう」とする、自分の生き方と道を通し
て、それが神の憐れみと力によって「証し」となって、自分の生き方と道から、少しでも、ただ少しの、ただ一つのことであっても、そこから、「このキリスト
が証しされ、このキリストが現れてくださるように」ということだったのです。
だから、この生き方、「その人には、その人のようになる」とは、私たちが安易に考えるような「八方美人」的な、誰に対していい顔をすることとは違いま
す。また、周りや社会の多数派の意見や行動に、ただやみくもに合わせて妥協していくような「付和雷同」的な生き方でもありません。なぜなら、この生き方と
道の源は、あのイエス・キリストご自身だからです。イエス・キリスト、そんなふうには決して歩まず、生きられなかったからです。それだからこそ、イエスは
あの十字架につけられて殺され、死んだのです。
だから、この道と生き方には、一つの具体的な方向性、さらに言うならば「偏り」があるとさえ言えると思います。ここでパウロは、「誰に対しても」と言っ
ているように思えますが、実はそうは言っていないからです。「強い人には強い人のようになり、弱い人には弱い人のようになった」とは言っていないのです。
ただ「弱い人には、弱い人のようになった」とだけ言っているのです。考えてみれば、「強い人」は、別に「自分のように」なってもらう必要はあまりないとい
うことかもしれません。パウロは、あえて「弱い人」とだけ言って、「弱い人」へと特に傾き、特に「偏り」、特に向かって行こうとするのです。なぜなら、イ
エス・キリストご自身が、まさにそのような「人」びとをこそ、真っ先に目指し、出会い、共に生きられたからです。
「日本社会において今、『軽蔑され、見過ごされやすい小さい(注 弱い)人たち』と共に生きることを決断する時、教会は語るべき御言を与えられ、立ち上
がる足場を回復するのではなかろうか。この主イエスの御言に従うとき、次のようなことが示されるであろう。まず第一にこの『小さい人たち』のひとりとの出
会いの中で、牧会者自身の自己変革が遂げられるということである。筆者自身、ひとりの在日韓国人婦人の差別の悲しみに伴ったという小さな経験の中で聞いた
御言が、どんなに確かさを与え、視野を広げ、自由にしてくれたことか。第二に、周辺化された、具体的個人の中に日本社会の現実と真実が顕現しているという
ことである。人々の注目を浴びる社会の中央部は、今は人間的には空洞化してしまっている。『見過ごされやすい』この一人との出会いの中で、豊かな生活の中
心部にいてはわからない事実がはっきり分かってくる。―――第三に、神の愛はまさにかたより見たもうことなき、『遍愛』であるからこそ、構造的には『小さ
い人たち』への『偏愛』となって現われるということである。―――第四に、このように見るならば、これら『小さい人たち』こそが、日本の文化の質を明らか
にし、かつその革新に向けての課題を果す人たちであるということである。―――この『小さい人たち』のひとりこそ、歴史形成の主体である。彼らと共に歩む
中で、多数の側、『大きい人たち』の側の体質が新しく変えられていく。」(関田寛雄『目はかすまず、気力は失せず』より)
「キリストが現れてくださるために」、それだけがパウロの願いであり、目標であり、生きる道です。だからこそ、あえてパウロは語り、生きるのです。「わ
たしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。」「弱い人には弱い者になった。弱い人
を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。何とかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わた
しも共に福音にあずかるためである。」私たちも、私たちの証しも伝道も奉仕も、弱く小さなものですが、ただこのお一人を仰ぎ見、ただこの一つを願い、目指
し、共に働き、共に歩んでまいりましょう。「キリストが現れてくださるために」。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
あなたこそは「あってある」神、「なろうとするものになろうとする」神、虐げられ苦しめられる民の苦しみを知り、叫びを聞き、彼らを解放し導く神です。
またあなたが遣わされた救い主イエス・キリストこそは、「おのれをむなしうして、人間となり、奴隷となり、しかも十字架の死に至るまでも」歩み通された方
でした。
私たちは、このお方によって福音を聞かされ、知らされ、信じる恵みに至らされました。その私たちは、今やこのお方イエスの道、「なる道、なろうとして生
きる道、なっていく道」に生きるほかはありません。また、そのように生き、この道を行きたいと、切に願い、求め、目指します。どうか私たち一人一人とその
教会を、あなたの愛と真実によって支え、導き、用いてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。