この弱い人のために、キリストは
         
                                  
コリント人への第一の手紙第8章1〜13節
                     
   
  「小さなことについて、大きなことを」。これが、パウロのよく用いる論法、話の進め方なのだと申し上げました。パウロの手紙、特にこれらの「コリント人へ の手紙」、特に第一の手紙では、コリント教会で起こっていた様々な具体的・現実的な問題が取り上げられていました。それらの問題について、相談や訴えを受 けたパウロが、手紙の中で答えているわけです。ですから、ある意味で、実にこまごまとした問題、一見「些細な問題」、どちらかと言うと「小さな事柄」が取 り上げられていると言えるでしょう。例えば、これはローマ教会でも問題となりましたが、「肉を食べるか、食べないか」。ところが、これらの「小さな問題」 に答えるに当たって、パウロはほとんどいつも「大きなこと」を持ち出すのです。神だとか、キリストだとか。ローマ教会の場合でもそうでした。「肉を食べる か、食べないか」。そこでパウロは、なんと「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ」なんて言い出すのです。
 なぜでしょうか。なぜパウロは、いつもそんな「大きなこと」を持ち出すのでしょうか。なぜならそれらの問題は、単なる教会内だけの問題、単なる人間的な 配慮と技術・ハウトゥーの問題ではないからです。「教会はキリストにあって、お互いの間で共に、どう生きるのか」、それは福音の問題であり、この世界に対 する宣教と証しの問題だと思っていたからです。「教会がどう生きるか」、それが伝道であり、宣教であり、証しなのです。だからパウロは、いつもこれらの教 会内の問題解決の道を福音宣教の業の一つとして、いわばこの世に対してあからさまに、そしてはっきりと宣言し、宣べ伝えているのだと思います。

 さて、そういう文脈の中でここで問題になっているのは、「二つの道」です。「知識か、愛か」。また別の言い方をすれば、「何でもできる自由か、キリスト にあるもう一つの自由か」。コリント教会の主流派・多数派の人たちのスローガンは、「わたしたちは知識を持っている、私たちには何をする自由もある」だっ たのです。先ほど申し上げたように、パウロはこの事柄を広くこの世に向けても語っているのですから、私たちも私たちが今生きている時代・世界・社会がどの ようなものであるかを踏まえつつ、この言葉を聞いて行きたいと思います。この「知識と自由」に関して、現代はどんな時代なのか。ある方がこんなふうに語っ ています。「『AI崩壊』という映画を観ました。『2030年。高齢化と格差社会が進展し、人口の4割が高齢者と生活保護者となり、医療AIが全国民の個 人情報などを管理していた。ある日、AIが突如として暴走を開始、“人間の生きる価値”を勝手に選別し始め、生きる価値がないと判定された人間の殺戮を開 始した。』というものですが、現実にそうなりつつあります。知恵と力のない弱者は虐げられる社会になっていきます。そういう時に、知識など全く役に立ちま せん。」(千葉福音キリスト教会ホームページより)今は「新自由主義」が世界を覆っていると言われますが、そのスローガンはこうだというのです。「今だ け、金だけ、自分だけ」。この言葉は、批判的にも引用されますが、でもこれを推進している人たちにとっては肯定的な意味合いを持っていると思います。「今 だけ、金だけ、自分だけ、そういうふうに生きて良いのだ。それが自由なのだ。」こういう時代の中で、私たちはパウロの言葉をどう聞くのでしょうか。

 さて、コリント教会の問題に戻りましょう。そこでは、何が起こっていたのでしょうか。そこでは、「偶像にささげられた肉」が問題になっていました。『聖 書教育』には、次のように説明されています。「コリントの町には、『ギリシアやローマの神々』を祭る宗教的慣習が日常生活の隅々まで浸み込んでいまし た。」(『聖書教育』2024年4月号より)こんな説明もあります。「当時のコリントでは死んだ皇帝たちや、現職の皇帝やその家族が神々として礼拝されて いたのです。ちょうどパウロが活躍していた時代、コリントのあるアカイア州は、州全体の宗教として皇帝礼拝を定めました。州全体の宗教になるということ は、皇帝礼拝を維持するために市民には税金が課されるということです。アカイア州に住んでいる人はどの神様を礼拝していようと、公式宗教としての皇帝礼拝 を支えるために税金を払わなければなりませんでした。そのような皇帝たちを礼拝するための神殿がありました。―――そして、皇帝にささげられた家畜のお肉 も市場で売られていました。また、宗教だけでなくスポーツ観戦にも皇帝礼拝がかかわっていました。―――このスポーツ大会はローマ皇帝とその家族を讃える ために開催されたので、そこでも皇帝を礼拝するためにたくさんの動物が屠られ、その肉を食べるための大きな宴会が開催されていました。」(中原キリスト教 会ホームページより)そんなコリントで、クリスチャン・教会は極めて少数派でした。ですから、教会の人たちは、日常的にしょっちゅう親戚・友人との付き合 い、仕事・商売上の付き合いなどで、他の宗教を信じている人たちと会食をする機会が多かったでしょう。そこで食事を出す人たちは、その食べ物をまず異教の 神々にうやうやしくささげてから、その「おさがり」として改めて受け取り、それを客に出すということも行われていたようです。そんな「偶像にささげられた (であろう)肉(食べ物)を食べてもよいのか」、これが問題でした。

 「自分たちには知識がある」と自認していた人たちは、こう言いました。「私たちには知識がある。その知識によれば、この世に偶像とか、異なる神々とかな んて存在しないのだ。この世には、この世界を創造された、唯一の真の神、イエス・キリストの父なる神のみがおられるのだ。だから『偶像にささげた』と言っ ても、それはだれにささげたのでもない。だって、ささげる対象の『神々』がいないのだから。それは『ただの肉』だ。だから、あらゆる肉を、いくらでも食べ て、全く問題ない。私たちは自由なのだ。そういう慣習や宗教に一切とらわれずに、食べたいものを、食べたいだけ食べる自由を持っているのだ。」
 しかしパウロは、それに正面から「待った」をかけるのです。「『わたしたちはみな知識を持っている』ことは、わかっている。しかし知識は人を誇らせ、愛 は人の徳を高める。」「いや、そうではない。私たちキリストにある者たち、その教会は、知識によってではなく、愛で行くのだ。」どういうことでしょうか。 パウロは言うのです。「あなたがたは、知識を持っている、いわば『強い人』たちだが、そんな人ばかりではない。中には、『弱い人』もいる。」その「弱い 人」たちとは、「偶像なんてない、異なる神々なんていない」とは、きっぱり割り切れない人たちです。「しかし、この知識をすべての人が持っているのではな い。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。」どういうこと かと言うと、その「弱い人」は、「異なる神々がある」と思っていて、その神々にささげた肉を堂々と食べる先輩のクリスチャンたちを見て、「ああ、別に他の 神様を拝んだり、ものをささげたりしてもいいんだ。そんなに、聖書の神様、神様ってこだわらなくてもいいんだ」、そう言っているうちにキリストへの信仰か ら離れて行き、ついには信仰を捨ててしまうことだってあるかもしれません。「するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。」だから、「あ なたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。」もっとはっきり言えば、「やめなさい」。
 なぜでしょうか。ここでパウロが持ち出す根拠が、すごいのです、「大きい」のです。「この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。このように あなたがたが、(弱い)兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。」「そんな大げさな」と思います か、思いませんか。「教会では、信者同士、配慮も遠慮も必要です」とかではなくて、「キリストは、この弱い兄弟のためにも、この一人の人のためにも死なれ た」だなんて。しかしパウロは、コリント教会の人たちに対して宣言するのです。またパウロは、教会の外、全世界の人たちにも向かって宣べ伝え、宣言するの です。「私たち教会が、クリスチャンが、すべての人について、その人と出会い、その人を認識し、その人に対していく、源と基準と土台はこれだ。『この人の ためにも、キリストは死なれたのだ』。」「この人のためにもキリストは死なれたのだ、それほどにキリストは、そして神はこの人を極みまで愛しておられるの だ」、私たちはこの事実から出発し、この土台に基づいて、いつも、すべての人と出会い、その人を認識し、そしてその人と共に生きて行こうとするのです。そ れが福音であり、それが教会なのです。

 だからパウロは、あの「自由」についても、こう言います。「だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは 永久に、断じて肉を食べることはしない。」これも、ある意味、とても「大げさ」です。「永久に、断じて肉を食べない」なんて。でもパウロは言うのです。 「私は、あなたがたのように、『なんでもできる自由』、『自分の好きなことを、好きなように何でもできる自由』によっては生きない。むしろ私は、キリスト がその人のために死なれた、一人の弱い友のために、永久に、断じて食べない、しないという、もう一つの全く別の自由、キリストにある自由によって生き る。」そしてパウロは、それはただ教会内だけの事柄、教会内だけの生き方とは思っていないと、私は思います。この世界にあって、私たちキリスト者とその教 会は、「あの自由」でなく、「この自由」において生きる。たとえ、自分に、自分たちに不利益や損が降りかかろうとも、一人の弱い友のために、自分のしたい こと、自分たちにとって都合のいいこと、自分にとって得になることをあえて断念しても、それでもキリストにあってその人と共に生きる、生きようとする。そ してパウロは、それを単に「損」とだけ思ってはいなかったと思います。彼は、そのようにキリストにあって共に生きるとは、幸であり祝福であり命であると 思っていたに違いないのです。
 まだ出たばかりですが、『聖書教育』6月号の最終ページに、こんな記事が載っています。「現代の日本においては、優秀なものが残り、生産性がないとみな される存在は淘汰される世の中となっているのではないでしょうか。新型出生前診断により、お腹にいるときに、障害や病気がわかるようになってきました。そ のことで、特に影響を受けているのは、『ダウン症候群』21番染色体トリソミーです。お腹の中にいる間に、命の選別が行われ、見た目や成長の早さ、知能の 低さなどにより、生れて来ることさえ許されない子どもたちがいるのです。―――養子縁組をした我が家の次男は、ダウン症と重度の心臓れ疾患を神より授かっ てお腹の中に生を受けました。しかし、そのことをエコー検査で知った実母は、受け入れることができませんでした。―――その絶望感は大変深く、胎の子や自 分の死を考えるほど重度の神経症になりました。そして、この子の最初の心臓手術の時に、手術に必要な親の同意書にサインすることを拒みました。―――私は 『その子は私がもらいます。安心して同意書にサインしてください』とお願いしました。それから裁判所に養子縁組の手続きをして、2回目の本格的な手術は、 私が同意書にサインをしました。―――思ったより状態が悪く、最悪手術中に心臓が止まるかもしれないことを指摘されました。涙をこらえながら、同意書にサ インをしました。この子には生きて欲しかった。一緒にお子様ランチを食べに行きたかったのです。幸い手術は成功し、自宅に戻ることができました。優れてい ること、生産性があることに価値を見出していく考え方に抗って、キリストは(注 この子のために)十字架にかかり、そのような考え方のもとに切り捨てられ てしまう人々に『生きよ』と言われているように思います。」(松原宏樹「多様なわたしたちが共に―――キリストを証しするために――― 〜異なる存在〜」 より、『聖書教育』2024年6月号所収)
 「この弱い人のために、キリストは生き、死なれた」、そして復活し今も共におられる。ここから私たち教会は出発するのです。この土台の上に立って、私た ちは教会の同信の友と出会い、共に生き、またすべての人と出会い、互に思い、助け、そして共に生きようとして行くのです。それがイエス・キリストの福音で あり、私たちの宣教、証しまた奉仕なのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを愛された神よ。
 私たちは、「キリストのからだなる教会」です。「キリストはこの人のために死なれた」、それが私たちの出発点であり、生きる土台であり、歩む道です。私 たちはこのまぎれもない事実に基づいて、私たちは教会とお互いと出会い、お互いを認識し、共に生きて行きます。またこの事実に基づいて、すべての人と出会 い、すべての人を認識し、そしてその人と共に生きて行きます。
 どうかこの私たちの道と業に、いつもあなたが共にいてください。そして、弱く小さな私たちの業と働きを力づけ、強め、お用いください。そしてあなたの栄光を表し、共に崇め、喜ぶことができますように。
まことの道・真理・命、すべてのあらゆる人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



戻る