共に、取るに足りない、神の同労者として
         
                                  
コリント人への第一の手紙第3章1〜9節
                     
   
  コリント教会の問題は、一言で言って「共に生きる」ことができないことでした。パウロは、コリント人たちの問題性を次のように指摘します。「あなたがたの 間に、ねたみや争いあるのは、あなたがたは肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。すなわち、ある人は『わたしはパウロに』と言 い、ほかの人は『わたしはアポロに』と言っているようでば、あなたがたは普通の人間ではないか。」コリント教会には、実に様々な問題が起こっていました。 ここに書かれている「ねたみや争い」、それが具体的には指導者をめぐっての勢力争いとなって起こっていました。ほかにも、「自分たちこそは」という高ぶり に基づく裁き合い、また自分の意見ややり方、信仰や礼拝のスタイルのみを主張しあうことによる集会の混乱と無秩序などということがありました。
 この事態を、パウロはある意味衝撃的な表現でもって言い表すのです。「あなたがたは普通の人、普通の人間ではないか」。えっ? 私たちは「普通がいい」 と思っているのではないでしょうか。特に日本人には、そういう人が多い。逆に、「普通」でないと不安になる。「フツーがいい」、そう思っているのです。し かし、パウロは「あなたがたは普通ではないか」と言うのです。と言うことは、「普通ではだめだ」ということでしょう。なぜなら、パウロによれば、「普通」 とは「ねたみ」「争い」「ランク付け」「分派(グループ作り)」などを絶えずしながら生きることだからです。これを言い換えて、パウロは、「あなたがたは 肉の人だ」と言います。「肉」とは、聖書独特の言い方で、「神に敵対するこの世の姿、この世の考え方、言葉遣い、そして生き方」を意味します。逆に言え ば、「あなたがたは『普通』ではだめだ、あなたがたは神に敵対するこの世の姿をそのままに反映し、映し出してはだめなのだ、なぜならあなたがたは『神のも の』、神に属する者たちだから」ということでしょう。

 またパウロは、こうも言います。「兄弟たちよ、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリ ストにある幼な子に話すように話した。あなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になって もその力がない。」つまり、コリントの人たちは、「固い食物を食べられず、乳ばかりを飲んでいる幼子」だと言うのです。ということは、「大人の信仰者」と いうのもまたあるということになるでしょう。ここからわかることは、信仰には、また信仰者には「初歩的な信仰の段階」もあれば「進歩し発展した段階」もあ り、「未熟な信仰者」もいれば「成熟した者」もいるということでしょう。
 これは、ある意味では、「耳の痛い話」であり、つまずきでさえあるかもしれません。「なぜなのか、信じてさえいればそれでよいのであって、みんな同じで みんなよい、のではないか。」確かに、神の前に神の子として新しく生まれ、生かされるためには、「イエス・キリストを主、救い主と信じる」まさにそれだけ で十分なのです。しかし、「だから後はもう何もせずただそのままでいい」ということなのでしょうか。パウロは「あなたがたは幼な子として肉の人として、こ のまま生きていけばいいよ。イエス様は許してくださるのだから」とは、決して言っていないでしょう。むしろ、こう言いたいのです。「あなたがたは、肉の人 から霊の人へと、幼な子から大人へと主にあって前進し、成長していってほしいし、いかなければならないのだ。」
 このことは、パウロが用いているたとえでよくわかると思います。彼はコリントの信徒たちに、また私たちに向けてもこう言っています。「あなたがたは神の 畑であり、神の建物である。」このたとえでいくと、私たちがキリストを信じたというのは、「神のものとされた」ということです。それは決定的なこと、究極 的なことです。しかし、それは、このたとえで言うなら、まだ畑になったり建物が建ったりする予定の更地が「神のもの」とされた、というようなものです。確 かにこれは決定的です。今まではその土地はよその人のものだったからです。その土地の名義ががらっと変わったのです。今やそれはキリストによって神のもの とされた。これはすごいことです。でも、どうでしょう。それが更地のままであり続けたら。「わたしはキリストによって神のものとされた。だから更地のまま で、何もなくても、ハレルヤ!」それで本当にいいのでしょうか。やはり、そこには神様のさらに善きご計画があるはずなのです。そこに豊かな作物が実り、麗 しく役に立つ建物が建てられるべきなのです。だから、キリストによって新しく神のものとされた人は、そこから始めて、学び続け、前進し続け、成長していく ことが、主にあって期待され、招かれ、導かれているのです。
 「キリスト者」とは、読んで字のごとく「キリストの者」です。だから、キリストに従い、キリストに基づいて、キリストのように導かれ、造り上げられて行 かなければならない。さもなくば、パウロの言葉のように、「普通の人」「肉の人」、信仰における未熟な「幼子」にとどまってしまう恐れがあるのではないで しようか。まさに「キリストの者」「神のもの」として生きることそのものが、私たちの信仰の課題であり、共に教会を建て、教会として共に歩み、共に成長し ていくということなのです。

 では、どうすればこの道を歩み出すことができるのか。何によって、共に学び、共に礼拝し、共に教会として歩んでいくことができるのでしょうか。ここで用いられている三つのたとえは、ほぼ同じ中心点を指し示していると思います。
 まず「畑」、畑はそのままでは何にもなりません。そこに「種」をまかなければ始まらないのです。「種」と言えばすぐに思い出すイエス様のたとえがありま す。「種は、神の御言葉をまくのである。」教会とその一人一人を建て上げ、成長させるもの、それは「神の言葉」です。私たちは「神の御言葉」である聖書を 学ぶのです。そして、この「種」にこそは、作物の芽を出させ、成長させ、ついには実らせる、不思議な、また絶大な力が宿っているのです。「ほかの種は良い 地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった。」聖書の御言葉には私たちの人生、お互いの信仰生活、共に教会を 建てる業を、神のものとして正しく方向づけ、豊かに充実させ、ついには完成させる力があるのです。
 次に「食べ物」。これもわかりやすいです。私たちは毎日の経験から知っています。「食べ物」によって、私たちの体は維持され、造り上げられるのです。 「食べ物」、これもよく知られた聖書のイメージです。エジプトから解放されたイスラエルの民は、荒れ野で神がくださった「マナ」という食べ物によって養わ れました。そして言われたのです。「人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。」わたしはどんな言葉を聞いて、どんな言葉によって養われているで しょうか。食べ物にも、その場は手早くおいしく感じるが、ほとんど栄養にならない「ジャンク・フード」というようなものがあります。また一方で、作るにも 食べるにも手間も時間も労力もかかるけれど、真に栄養となり、わたしたちを本当に支え成長させる料理もあります。そのような言葉を、私たちは聞き、受け取 り、学んでいるでしょうか。また、「食べ物」ということで言うと、「食べ物」それ自体と共に、「食べる場と交わりもまた私たちを成長させる」ということで す。「食べる交わり」の中で、私たちは礼儀やマナー、さらには他の人との生き方を学ぶのです。聖書も同じです。ただ一人で読んでいるだけでなく、教会とい う交わりの中で共に読み共に学び、そして共にそれに基づき、それについて互いに語り合う時、私たちは本当に神のことを学ぶことができると思います。
 そして「建物」、建物を建てるにはなんといっても「土台」です。それなしに何も建ちませんし、どんな「土台」かが建物を決めます。イエス様は言われまし た。「これらのわたしの言葉の上に建てる者は、岩の上に建てるのだ。」「わたしは道であり、真理であり、命である。」主イエスご自身とその御言葉がこそ が、私たちの「土台」であり、私たちの成長のための「命と真理の道」なのです。

 では、そのような「御言葉」の学びと語らいの中で、私たちはどういうことを学ぶのでしょうか。パウロはコリントの人たちに、ぜひとも持ってほしい認識と して、このように語ります。「アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えら れた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させてくださるのは、神である。―――わたしたちは神の同労者であ る」。
 私たちは聖書の学び、教会の共なる学びを通して、「神」というお方を知るのです。もちろん、何々時代の状況やあれこれの言葉の意味も習うかもしれません が、それよりはるかにまさって大切なこととして「神様」というお方をよく深く、具体的に聞き、学び、知るのです。「聖書の言葉の中で自分がどれほど大切に されているか、そしてどれほど安心して生きていけるかを感じ取ることができる。神さまの体温を、そのぬくもりを感じ取る。そうしてはじめて、周りの人にも 『大丈夫だよ』と言ってあげることができる。『大丈夫だ、神さまがついてる。この世界は神さまの世界なんだ。―――』私たちは回りの人にそう言ってあげる ことができると思います。どうして聖書を読むのか。それは精神の修養になるからでも、先祖が浮かばれるというわけでもない。全然違う。聖書を読むと神さま が分かって来るんです。あなたがどれほど神さまに愛されているかが分かってくる。皆さんもこれから豊かになるときもあるでしょう。貧しくなるときもあるで しょう。でも心配ない。この世界は神さまが支配しておられる世界だから。これからどんどん時代が変わっていくでしょう。環境も変わっていくでしょう。でも 大丈夫なんです。落ち着いて、神さまと周りの人を大切にしてください。」(大頭眞一『いのち果てるとも』より)「神を知る」、「肉の人」の反対「霊の 人」、その特徴は「神を知っている、神という方を現実的・具体的に知っている」ということです。
 次に「神を知る」、それは同時に「アポロとは何者か、パウロとは何者か」ということ、つまり人間の弱さ、貧しさ、無力さ、限界、罪を学ぶことでもあるの です。パウロは言います。「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知ってはいない。」(Tコリン ト8・2)「知らなければならい事」、それは「私たちは共に、取るに足りない」ということです。聖書の言葉に照らされて、私たちは神の前で、自分の弱さ・ 足らなさ・罪を思い知らされます。それは、教会において私たちは、「共にとるに足りない神のしもべだ」ということを学ぶということなのです。ここにおいて 初めて、私たちは、本当の意味で「共に生きる」ことができる出発点に立つことができるのだと思います。
 しかし、ここに留まりません。聖書の言葉を通して、私たちは「しかし、成長させてくださるのは神である」ということをいただき、学ぶのです。御言葉は、 確かに私たちに困難な課題を与えます。しかしそのままに放っては置きません。この神とその約束を、私たちに福音として示し与えてくれるのです。「成長させ てくださるのは神だ」、この困難においても道を開き、道を進ませ、ついに完成に至らせてくださるのは神だ、この神がおられる。
 ここから与えられる、私たちの自己認識、また私たちにお互いに対する認識は大変すばらしいもの、すごいものです。「共にとるに足りない」ということを常 に思いながらも、同時にこう語られ、こう信じることがゆるされるのです。「わたしたちは神の同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物である。」「私た ちは神の同労者」なんて、よく言えるなと思います。本来なら比べものにもならない私たちと神様のはずなのに、この私たちが「神と共に働く者、同僚、パート ナー」だなんて。でも、驚くべきことに、イエス・キリストにおいて、神は本当にそう思い、そう扱い、そう用いてくださるのだというのです。私たちは自分自 身についてそう信じると共に、私たちお互いに対してもそう信じ、そう語り合うのです。「私たちは神の同労者、あなたも、そして私も共に神の同労者」。この 神と共に、また教会の一人一人と共に働き、神が用意される豊かな、喜ばしい実り・収穫を経験させていただく。このことは、なんと光栄な、また心躍るような 道であり、経験でしょうか。「あなたがたは神の畑であり、神の建物なのである。」「共に、取るに足りない、神の同労者として」、この道を共に歩んでまりい ましょう。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
 私たちは、キリストのもの・神のものとされながら、なおも「普通の人」「肉の人」「幼子」に留まり続けようとする者たちであります。にもかかわらず、あ なたは私たちを、「キリストの体」なる教会として呼び集め、絶えず御言葉を与えながら、共に生き共に歩みようにと、赦し、励まし、導き続けてくださいま す。
 このあなたの愛と真実とにより、私たちは共なる礼拝と学びと語らい、それに基づく共なる歩みを、いつも試行錯誤しながら、でも感謝と喜びと希望とをもっ て続けて行くことがゆるされます。さらには、この私たちをも「神の同労者」として共に立て、互いに歩ませ、豊かに用いてくださいます。どうか、この恵みに よる道を、ますます共に進んで行けますよう、どうかお導きください。
世の救い主、すべてのあらゆる人の救い主、また教会の主なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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