イエスの十字架の前で共に生きる
         
                                  
コリント人への第一の手紙第1章10〜12、18〜28節
                     
   
           
 新年度となりました。『聖書教育』に基づいて、これから三か月にわたって、「コリント人への第一の手紙」を共に読み、共に御言葉を聞いて行きたいと思います。
 ここには、生々しい教会の現実があります。「聖書教育」では、こんなふうに言われています。「教会生活の長い方であれば、ここでコリントの共同体に起 こっていることがらが単なる『他人ごと』『昔話』には思えないのではないでしょうか。」(同誌2024年4月号より)聖書の時代、聖書の教会に、まさにそ のようなことがあったのです。でも、そんなに「生々しい」分、それだけ私たちへも真剣な問いかけがあり、真実な語りかけがあり、そして力強い慰めと励まし があるのだと信じます。
 いったい、コリントの教会では何が起こっていたのでしょうか。パウロは率直に告げます。「わたしの兄弟たちよ。実は―――あなたがたの間に争いがあると 聞かされている。あなたがたがそれぞれ、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケパに』『わたしはキリストに』と言い合っていることで ある。」手短に言えば、「仲間割れがあり、派閥争いがあり、分裂の危機すらあった」ということでしょう。それはまさに、私たちの時代、私たちの教会でも起 こりうることだと思います。
 この事態に、いったいどう対処し、どう解決するのでしょうか。「お互いの対話と話し合い、また譲歩」でしょうか。それも、まあ結構です。でも、パウロは こうした身近な課題が起こった時に、たいていいつもやる方法があるのです。「小さいこと」と思えるようなことにも、彼はいつも「大きなこと」を持ち出すの です。キリストとか神とか。そしてその「大きなこと」に基づいて、今目の前にある問題の解決の方向を共に見出そうとするのです。ここでもそうです。「仲間 争い」、この問題に対して、「まあまあまあ、仲良くしましょう」とか常識的・技術的なことではなく、パウロは「イエスの十字架の言」に再び目を留め、耳を 傾け、そこからまた始めようではないかと呼びかけるのです。

 彼は言います。「十字架の言は、滅び行く者には愚かである」。「わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものである」。
 「ユダヤ人にはつまずき」とあります。ユダヤ人は聖書の信仰に生きる民として、神様のことを良くわかっているという自負があったでしょう。ところが、そ の「神の子が、罪人として十字架につけられ、弱さのうちに絶望して死ぬ」などということがあり得るはずがない、そんな生涯をたどりそんな死に方をした者が 「神の子」などであるはずがないということだったのです。また「異邦人には愚かなもの」と言います。「一人の死刑囚が、何の助けも与えられず敗北者として みじめにも死んだ」、けれどもその方は「全世界の主」であり、それは「世の救いの業」などと信じ語る、それは愚か以外の何ものでもありません。
 しかし、パウロが伝える「十字架の言」は、あえてその愚かさを前にして宣言するのです。「神はここにおられる」。神は、この人が弱さと絶望のうちに死ん でいく、まさにここにおられる。神は、この人が力もなく助けもなくみじめにも殺されていく、まさにここにおられて神御自身の業を行っておられる。

 そうだとするならば、そこに大いなる価値の転換、驚くべき逆転が起こるのではありませんか。私たちは、いつかどこかで、「神様は、私たちが喜び『よし』 とする、そういう事柄、そういう場所、そういう状態、そういう人のところにおられて、そこで業を行っておられる、またそういうものやことこそが神様の業な のだ」と思い定め、思い込んで生きているのではないでしょうか。いわく、健康であること、経済的に豊かであること、仕事や学業が順調に行くこと、人間関係 が良好であること、それらこそが正常な本来の状態であって、そこから外れ落ちることは悪いことであり、いやなことであり、困ったことである。そして、そう いった「良いこと」こそが「神の業」であり、「神の恵み」なのだ、と。
 でも、どうでしょうか。私たちの現実は、その通りに運んでいくでしょうか。また、この原理でもって、私たちはこの世界でうまくやっていけているのでしょ うか。むしろ、私たちの現実は、それら私たちが尊しとしているものがいつも私たちの手からずり落ち、離れ去っていってしまうというものではないでしょう か。それでも私たちがなんとしてでもそれらのものを手放すまい、失うまいと力めば力むほど、私たちは他の人々を傷つけ苦しめ、この世界を生きにくくしてし まっているのではないでしょうか。。また、この社会においては、そういう「良きもの」をなくし、奪い去られた方々が本当に多くおられると感じます。こうい う詩があるそうです。「たとえ短いいのちでも 生きる意味があるとすればそれはなんだろう。働けぬ体で一生過ごす人生にも 生きる価値があるとすればそれ はなんだろう もし人間の生きる価値が社会に役立つことで決まるなら ぼくたちには生きる価値も権利もない しかしどんな人間にも差別なく生きる資格があ るのなら それは何によるのだろうか」。もし私たちがそういう人に出会うときに、私たちがあのような価値観に立っているなら、その人をどこか「哀れみの 目」で見るほかなく、その人たちは自分たちはここで受け入れられていないと感じてしまうのではないでしょうか。また、私たち自身がそういう立場に立ち至ら ないという保証はありません。もしそうなったとき、私たちがそのように考えていたなら、私たちはみじめになるほかはないでしょう。
 しかし「十字架の言」は、そこでこそ語るのです。「弱さ、愚かさ、無力さのところにこそ、神はこのイエスというお方を通して来られ、そこにこそ共におら れる。それらがそのままで、神の業が行われる場とされる。」振り返るならば、主イエスの生涯はまさにそのようなものでした。イエスがお生まれになったの は、ベツレヘムの馬小屋の飼葉桶でした。ローマ皇帝アウグストやその子どもたちとは比べ物にならないほどの貧しさ、無力さ!また、主は神の国の働きに乗り 出されて以後、多くのものを失なわれました。家族との良好な関係、人々の人気や評判を失い、なくしていく道でした。そして最後は、弟子たちにさえ裏切られ 逃げられ、社会的・宗教的には「罪人」「呪われた者」との評価を受け、ついに人間としての誇りも、そして一片の着物さえも剥ぎ取られて十字架にはりつけに され、死んでいかれたのです。でも、ここに「十字架の言」とその信仰の言葉が響いているのです。「まことにこの人は神の子であった。」

 ならば、私たちはここから今までとは全く違った生き方ができるようにされるのではありませんか。それは、私たちの弱さ・愚かさ・欠乏・無力さをそのままに受け留め受け入れて、なおそこで神を信じ、隣人と共に愛において生きようとする道です。
 北海道の日高地方に「べてるの家」という精神障害者の人たちが共に生きる場があります。そこに住む一人の人が「爆発」してしまい、仲間に暴力を振るっ て、「もう絶望的だよ」と電話してきたときに、当時そこの理事長でありケースワーカーであった向谷地生良(むかいやち いくよし)さんは、こう答えたそう です。「きょうの絶望をいい絶望にしようよ。実は僕はね、あなたがいい絶望に向き合えるように願って応援してきたんだよ。」「えー、ますますわからない な。僕が絶望するように応援してきたの?」「そうだよ。希望と絶望は隣り合わせなんだよ。だから、安心して自分に絶望していいんだよ。」
 「そのことは、あなたがた自身を見てもわかるだろう」と、パウロは言います。「兄弟たちよ、あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。」これは 元の聖書では「あなたがたの召しを考えよ」です。だから、「神様から呼ばれた時はこんなに問題だったけど、いまではすっかりよくなりました、めでたし」と 言っているのではないのです。「神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者 を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」あなたがたは今も変わらず 「愚かな者、弱い者、無きに等しい者」である、でもそこにこそあなたがたの生きるべき道がある、そこに留まりそこに徹して、そこでなお神によって生かされ 生きていくところに、あなたがたの使命があり証しがあるのだ。

 これまで話を聞いてくださって、長く教会に集っておられる方の中にこういう疑問を持たれた方があるかもしれません。「十字架とは、罪のあがないではない のか。」そう、確かにまた十字架は罪にも関わるのです。この世界における私たちの弱さ・愚かさ・欠乏・無力は、深く私たちの罪と関わっているからです。そ れは「その人個人の罪」と言うよりは、「この世そのもの、この世全体の罪」です。私たちの罪が積み重なり膨れ上がって途方もなく大きな「この世の罪」とな り、それが多くの人々の弱さや苦しみ・無力・愚かさをもたらしている。しかし、主イエスの十字架は、神がその「罪」と真正面から向かい合い、それをことご とく担われた出来事です。罪は、それを受け留め担うことによってしか克服されません。でも、神がそれに向かい合いそれを担おうとされたのですから、罪は克 服されるのです。既にそれは克服され、今それは克服への途上にあり、ついに来る克服の日・勝利の日・栄光の日にまで至るでしょう。これがパウロが語ろうと する「十字架の福音」、神による「福音」の言葉です。今パウロはその「愚かさ」を十分に踏まえつつ語り告げます。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであ るが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」これほど「愚か」であるはずの言葉を私たちは「救いの言葉」として受け取り、信じることが許されてい る、それはまさしく神の恵みであり、力なのです。

 初めの問題に戻りましょう。「教会内の仲間争いをどう解決するのか」。私たち、とりわけキリストの教会に集う私たちは、いったいどこで、何によってお互 い結びつこうとするのでしょうか。私たちが自然に「良い」と思える部分でしょうか。「コリントのメンバーたちには、例えば『強さ』『大きさ』『上昇志向』 というような、普段慣れ親しんできた価値観があったのかもしれません。」(『聖書教育』、前掲号より)もしそうだとすれば、それはきっとこのコリント教会 のように、結局は「競い合い」「争い」に終わるよりほかはないでしょう。
 しかし、「神の業はそうではないのだ」とパウロは語るのです。私たちに対する神の愛と真実の業、それはまさにあのイエスの十字架のところで、「つまず き」であり「愚かさ」でしかないそのイエスの死の様において、完全に、余すところなく現わされたのだ。私たちがそれぞれにイエス・キリストを信じ、キリス トの教会において出会い、共に生きようとするのは、そのイエスの十字架を出発点とし、土台とする出会いであり、交わりなのだ。私たちは皆、このイエスの十 字架の前で共に生きるのだ。
 ここから始められていく私たちの証し・宣教もまた「愚かさ」の中に立てられ、立つのだと思います。私たちは日々に出会う私たち自身の、とりわけ隣人の 「否定的」「消極的」な事柄の中に留まり、それを真正面から受け留めつつ、その中でなお神を信じ神に生かされつつ共に生きるのです。またこの言葉を、この 世において傷つき苦しめられている様々な方々と分かち合おうと努めるのです。それこそが証しであり、伝道ではないでしょうか。星野富広さんの詩を引用いた します。「よろこびが集ったよりも 悲しみが集った方が しあわせに近いような気がする 強いものが集ったよりも 弱いものが集った方が 真実に近いよう な気がする しあわせが集ったよりも ふしあわせが集った方が 愛に近いような気がする」。そのような私たちの歩みは、この約束の下にあるのです。「この キリストは、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人 よりも強いからである。」

(祈り)
イエス・キリストの十字架を通して、愚かさと弱さの中でこそ真の知恵と力とを示された神よ。
 私たちはあなたを離れ、自分自身の力と知恵を蓄え増やそう、互いに争い奪い合ってもそうしようとし、そのために多くの人が傷つき、苦しみ、死に向かっています。それこそが、私たちの罪なのです。
 しかし、あなたはその罪と真正面から向き合いそれをことごとく担うべく、御子を弱さと愚かさの中に遣わされ、主は無力と絶望のうちに十字架につけられ、 殺されて死なれました。この世はそこに何の救いも希望も見出すことができませんでしたが、あなたはその中に不思議にも信仰を与えてくださり、その中に私た ちをも招き加えてくださいました。私たちは、このイエスの十字架の前で共に生かされており、これからも生きて行きます。
 どうか、この測り知れない恵みを覚えつつ、この「十字架の言」を福音として信じ、それによって生き、これを多くの傷つき悩める方々と分かち合っていくことができますよう、さらにお導きください。教会の歩みが、十字架を掲げる群れとしてふさわしいものとされますように。
 十字架の主・福音の主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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