すってんころりん―――イースターの笑い
         
                                  
ヨハネによる福音書第20章1〜18節
                     
   
 イースター、おめでとうございます!
 ヨーロッパでも東の方の教会には伝統的に「イースターの笑い」という習慣がありました。復活祭、イースターの礼拝で司祭が説教の最初に冗談を言って会衆 を笑わせてから始めるということです。「それでは、わたしも」と思いましたが、なにぶんユーモアの才能がないものですから、ちょっと変わった題名をつけ て、無理にでも皆様の笑いを取ろうと思った次第でした。
 それでは皆さん、改めまして、イエス様のご復活おめでとうございます!

 ところで、「笑い」と言えば、イースターを祝った初代の教会は、自分たちが笑った前に、周りの世の中の人々から笑われたことだろうと思います。それも、 「にこやかで朗らかな笑い」というよりは、意地の悪い、ばかにした「あざ笑い」でした。もちろん、それは、「一度死んだ人間が再び生き返る」というメッ セージの内容についてであったことでしょう。けれども、それ以前に嘲笑が向けられる対象となったのは、この復活の知らせを担った人々に対してでした。
 イースターですから、特別にクイズをしてみたいと思いますが、「さて、どの福音書でも、十字架と復活両方に顔を出すのはだれでしょう」。なんのひっかけ も、ひねりもありません。答えは、今日出て来る「マグダラのマリヤ」です。特に、このヨハネ福音書は、復活の最初の知らせを伝えたのは、このマリヤであっ たことを特別に強調して語っています。このことそのものが、当時の社会から見ると、「あざ笑い」の対象だったのです。「女が言っているようなばかなこと を、まともに信じているばかな集団だ」と言われたのでした。当時の社会において、女性というのは、「無能力者」「無資格者」の一つでした。そのほかにも、 そういうふうに軽蔑され、差別されていた、いろいろなグループの人々があったわけですが、その中に「女性」も含まれていました。ずいぶんとひどい話です が、でも事実そうだったのです。ですから、女性が言ったこと、その証言というものは、一切信頼されませんでした。それなのに、教会は「最初に復活のイエス に出会ったのは、女、しかも噂によるとずいぶんとひどい人生(注 それはもちろん偏見であり差別です)を歩んで来た、あのマグダラのマリヤだった」なんて いうことを、まともに、恥ずかしげもなく語っているということで、大いに嘲笑を受けたのでした。
 しかし、その笑われている教会は知っているのです。そんなふうに笑っている世とその人々こそが、かえって大いに笑われているのだ、と。だれに? 神様 に。「天に座するものは笑い、主は彼らをあざけられるであろう。」と詩編が歌う通りです。「笑い」というものは、どういうときに生まれるか。いろいろあり ますが、その一つに「世の中の枠組みや秩序が、崩され、ひっくり返された時」というのがあります。その意味で言うなら、「復活」とはまさにこの世の根本的 枠組みが崩され、ひっくり返されたことであり、神の究極的な裁きです。世の人々、とりわけイエス様を十字架につけて殺したような人たちは、「死」こそ絶対 だと思い、その「死」に至らせる力を持つ者こそが最も強い者だと信じていました。「あの憎い、目障りなイエスを死に至らせてやった。もう何も恐いものはな い」と思い込んでいたのです。ところが、神はそのがんじがらめの枠組みを崩し、ひっくり返し、打ち破って、あの十字架で死んだイエス様を勝利させ復活させ られたのです。いわば、神によってこの世はすってんころりんと投げ飛ばされ、ひっくり返らされているのです。それは、神の裁きであると同時に、実は救いで あり、そして光に満ちた笑いなのです。「キリストは十字架で権力者によって殺されました。そのイエスが復活されたということは、『人が倒した者を神が起こ された』ことを意味します。神は悪をそのままには放置されない、神は『悪を変えて善と為す』力をお持ちであることを、私たちは復活を通して知ります。現実 にどのような悪があろうとも、その悪は終わることを信じますから、私たちは悪に屈服しません。どのような困難があっても、『悪を変えて善と為す』神がおら れるから、私たちは絶望しません。私たちが復活を信じるということは、この世界が究極的には、『神の支配される良き世界』であることを信じることです。そ の信仰が希望をもたらします。」(川口通治、篠崎バプテスト教会ホームページより)だからこそ、このイースターの知らせは、何より先ず、この世で軽んじら れ、あざ笑われている者マリヤのところへと届けられたのでした。

 ここで、神に第一の証人として選ばれたマリヤとはどういう人なのでしょうか。彼女は、どうしてここで選ばれているのでしょうか。ここでも、神の裁きと笑 いは徹底しています。それは、マリヤが選ばれているのとは対照的に、そこで退けられている二人の男弟子の姿に明らかです。
 週の初めの日の早朝、マリヤはイエス様が葬られた墓に出掛けて行きました。すると、一大事が起こっています。墓の入口の岩が取り除けられ、中を見るとイ エス様の遺体がどこにもないのです。「誰かが墓を荒らし、お体を持ち去ったのだ」、彼女はそう思ってこのことをペトロともう一人の弟子に告げます。二人の 男弟子は、一目散に墓に走って行き、空の墓を確認します。ここで、その「もう一人の弟子」あるいはこの福音書を書いたヨハネではと言われますが、彼は「信 じた」というのです。8「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」「けっこうなことじゃないか、立派なことではないか」と 思いますか。私たちは、どこかで「信じる」という枠組みを絶対だと思っています。しかし、復活の出来事は、それさえもひっくり返し、投げ飛ばして笑うので す。
 次にこう書いてあるのです。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」ある 方は、「これは、記者ヨハネが語りつつ、自らの信仰の無力を嘆いている言葉ではないか」と言っています。なぜ彼らの信仰は無力なのか。何より彼は記しま す。「聖書の言葉がわかっていなかった。」つまり、聖書に記されている神の御心と何の関わりもないところで、ただ自分たちの願望と思い込みで「信じた」と 思っただけだった。そして、彼らはそのまま「家に帰って」しまいます。復活に接しても「ああ、そうか」と思うだけで、ただ「家に帰り」、それを誰にも告げ ようとはしないような信仰、それどころか「こんな危ない話はまずい」ということで人々を恐れて閉じこもってしまうような「信仰」、それは無力です。そし て、最大の無力は、彼らが墓の前で一人泣いているマリヤを放置して帰ったことです。泣く人一人をも慰めることができない、慰められなくてもよいからただそ の傍らに共にいることさえしようとしない「信仰」、そのように「信じる」ことしかできなかった二人は、神によりひっくり返され、裁かれ、退けられていま す。
 それに対して、マリヤは、ただわけがわからなくて、信じられず、悲しくて泣いていただけでした。これは、最も弱さと不信仰を剥き出しにしてしまっている 姿であるかもしれません。でも、聖書は告げるのです。復活の主イエスは、この彼女にこそ、最初に現れ、声をかけ、彼女の名を呼んでくださった。なんとい う、慰め、力づける知らせでしょうか。

 しかしまた、早合点をしないでいただきたいのです。ここで、マリヤもまた、ただ受け入れられているわけではないのです。聖書は、決して一筋縄では行きま せん。復活の主は、彼女をもひっくり返し、崩される。復活の第一の証人として選ばれたマリヤ、彼女にもまた崩されねばならない、人間的な弱さと限界、また 罪はあるのです。
 マリヤが泣いていると、後ろから声が聞こえます。そこで、「『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』こう 言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」なんということでしょう。「わたしの主」 と語るほどに愛している方を、それが「イエス」だとは分からなかった。彼女は、イエス様のいない「前」ばかりを向いていたのです。神の業ではなく墓ばかり を、復活された方ではなく「死の絶対性」ばかりを見ていたのです。「ここには、神の声を認識できない人間のあり方が描かれています。墓の穴の方向に体を向 けている限り、正面に神の使いがいても分かりません。正面から『泣く必要は無い』と言われても涙は止まりません。後ろからイエスが声をかけても分かりませ ん。―――墓の穴の方角とは、絶望の方角です。体の向きが180度変わらない限り、どんなに慰めに満ちた言葉かけであっても意味がないのです。」(城倉 啓、いずみバプテスト教会ホームページより)
 それで、主は再び彼女を振り返らせなさいました。それでも、彼女は分からずこう言うのです。「マリヤは(イエス様のことを)園丁だと思って言った。『あ なたがあの人を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。―――』」いまだにそんなことを言っているので、イエス様はとうとう彼女の名前を 直接呼ばれます。「マリヤよ。」すると、彼女はようやく気づく。しかしここでも「彼女は振り向いて、―――『ラボニ』と言った。」のでした。二度も振り向 かなければならなかった。それほどに、イエス様とそのご復活を見てはいなかった、信じることができなかったのでした。

 そして、これだけでも終わらない。マリヤは、イエス様からこう言われねばなりませんでした。「わたしにさわってはいけない。」新共同訳では「わたしにす がりつくのはよしなさい」。マリヤは、イエス様が今や生きておられることがわかったのでしょう。しかし、彼女はそれをどこまでもただ自分のための出来事と してしか見ることができず、「ならば、この再びお会いできたイエス様を離すまい」と主にすがりつくようにしたのでした。しかし、復活の主は、三たび彼女の あり方と生き方を問い、崩し、ひっくり返されます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。」
 その上で復活の主は、この第一の証人に、ご自分がなさろうとする御業、歩もうとされる道を示されます。「まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの 兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわ たしは上る』と。」主は世にもまれなる交わりを創ろうとされるのです。あそこで神にひっくり返され、笑われた男弟子たちを、復活された方は「わたしの兄 弟」と呼んでくださる。そして、「天の父なる神」を「あなたがたの父、あなたがたの神」としてくださる。それは、決して「信じなかった弟子たち」にとどま らないと思います。この復活によって、神にこそ笑われ裁かれている世とその人々もまた、このマリヤから始まる不思議な交わりには招かれ、呼ばれているので はないでしょうか。こう言っている人さえいます。「神のさばきにおいて、すべての罪人・悪人・暴力者・殺人者・サタンの子ら・悪魔・堕落天使は、解放さ れ、その死の滅びの姿から彼らの真の造られた存在へと変えられることを通して救われる。」神の裁きは、また救いであり、本当の笑いなのです。
 そして、復活の主イエスは、このマリヤをも、御自身のご計画と道に引き入れ、お遣わしになります。「こう言いなさい。」「あなたも、このわたしと共に彼 らのところに行こう。そして、呼びかけ、招き入れてはくれないか。」彼女は、出かけます。そして、教会も出かけて行くのです。「マグダラのマリヤは弟子た ちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」
 「すってんころりん」。こうして起こり、与えられたイースターの笑いを、私たちも今聞きました。そして、それを耳と脳裏に残しつつ、ここから送り出され て行きましょう。この「笑い」、喜び、そしてここから始まる希望を、出会う一人一人と分かち合って行く伝道、証しまた奉仕へと歩み出してまいりましょう。

(祈り)
復活の神よ。御子イエス・キリストを死と滅びの中から救い出し、起こし、引き上げ、復活させられた神。死と罪に捕らわれている世と私たちを、ひっくり返し、笑い、そして救われる主よ。
 あなたの恵みと選び、呼びかけと招きを心より感謝いたします。どうか、私たちも「主イエスは復活された」との知らせを携え行き、あなたが創り始められた、この、世にも不思議な交わりへと、あなたが愛したもう全ての人、その一人一人を招くことができますように。
復活といのちの主イエス・キリストの力ある御名によって祈ります。アーメン。



戻る