成し遂げられた!―――ここに生まれる
         
                                  
ヨハネによる福音書第19章28〜42節
                     
   
 教会暦によれば、およそ二千年前の今週の金曜日にイエス・キリストは十字架につけられ、殺され、死なれたのです。それで、今日は受難週の礼拝として、イエス・キリストの十字架そして死を共に覚え、心に刻むのです。
 今日の所は、主イエス・キリストが十字架において死なれるに当たっての、最後の言葉を記しています。「最後の言葉」とは、実に大切なものであるに違いあ りません。それはまさに、その人の人生そのもの、そのすべて、その究極的な意味を明らかにするものでしょう。イエス様はこう言って、亡くなられたというの です。「すべてが終わった」。
 「すべてが終わった。」どんな響き、どんな意味をここから受け取られるでしょうか。「万事休す、もうだめだ」ということでしょうか。そうではありませ ん。実は、全く違うのです。他の日本語訳聖書を読み比べると、よくわかります。新改訳「完了した」、新共同訳と岩波訳は「成し遂げられた」です。「成し遂 げる、実行する、実現させる」という意味の言葉の、完了形受動態が用いられています。だから、「何事が成し遂げられた、実現された、完成された」という意 味になるのです。このイエス様の死の場面は、この言葉を中心として、それをめぐって組み立てられ、語られていると言うことができます。すぐ前の28節には こうあります。「そののち、イエスは今や万事が終わったことを知って」、これも新共同訳では「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」です。そのすぐ 後に、「それは、聖書が全うされるためであった」、「こうして、聖書の言葉が実現した」とあります。また、後の36節には、「聖書の言葉が、成就するため である」と言われています。これらの言葉が意味するのは、こうです。「聖書の言葉が実現した。神の意志、御心が実行され、神の業が成し遂げられ、完成し た。」

 何か「当たり前」のことのようですけれども、実はこれは大変に思い切った、大胆不敵と言ってよいほどの言葉なのです。なぜならば、これまでヨハネ福音書がずっと語ってきましたように、この同じ場面を、人間たちの恐るべき罪が厚く覆い、それが猛威を振るっているからです。
 主イエスは今、「わたしは、かわく」と言われます。極限的な肉体の苦しみと衰えを示す言葉です。ここまでイエス様は弱っている、というより弱らされてい るのです。ここまでイエス様を苦しめ、その肉体の自由を奪い、活力を奪い、名誉を奪い、最後の一つまでも奪って、もう死が目前というまでに弱らせている、 それが人間の罪です。彼らがこの世の支配権を握り、思うがままに振舞っている、そうとしえ見えず、思えません。こうしてイエス様は、これほどまでに無一物 となり、無力となってしまい、罪人と呼ばれ呪われて、そのままに殺されていくのです。
 それだけでも十分ひどいのですが、人間たちの罪はそれにとどまらない。イエス様が死なれた後、ユダヤの指導者たちが総督ピラトに、イエスの足を折ってく れと頼むことが書いてあります。これは、直後の過越の祭という重要な行事が控えている中で、「呪われ、汚れた者」の死体を放置しておきたくなかった、とい う動機からです。ある方は言っています、「彼らは、死んだ後までも、イエスを呪いぬきたかったのだ」。世の中の枠組みに挑戦して敗れた者は、その死後に至 るまでも呪われ、辱められる、これは歴史上繰り返されてきたことです。

 これほどまでにひどい目に遭わされているイエス様が、その最期に当たりこう語っておられるのです。「成し遂げられた」。「いいや、ここに起こっているの は、ただ人間たちの罪ばかりではない。それに、遥かに優ることが起こっているのだ。それは、神のみ心であり、神の業だ。それは、今や完全に成し遂げられ た。」これは、勝利と確信の言葉なのです。しかし、状況を考えていただきたいと思います。いったい誰が、ここで、この場面、この状況で、そんなことをまと もに受け取り、考えて、語ろうとするでしょうか。でもイエス・キリストはそう語られ、そして事実はまさにそうなのだ、と聖書は語るのです。
 それだけではない、ここには教会も立ち会い、教会の証と宣教もまたあるのだと、言うのです。この中に、教会の宣教の言葉、証の言葉がひょっこり顔を出し ているのです。35節以下です。「それを見た者があかしをした。そのあかしは真実である。その人は、自分が真実であることを知っている。それは、あなたが たも信ずるようになるためである。」これは、教会で、イエス様の十字架を振り返りながら、宣教者・説教者が語っている言葉なのです。教会も、この十字架の 下に立ち、そして語る。「成し遂げられており、成し遂げられた。」この人間たちの罪が力を振るい、思うがままに振舞っていると見える、ここに神の意志は行 われ、神の救いの業は起こっている。そのように語り、証しすることは、主イエスと同じようにあざ笑われ、苦しめられることでもあるでしょう。しかし教会は ここに立ち、このように証をするのです。「成し遂げられた!」

 では、いったい、何が「成し遂げられた」のでしょうか。
 第一に、主イエスが「わたしは、かわく」と言うほどに、徹底的に苦しまれたことです。これは、いったいどうしたことでしょうか。「わたしを信じる者は、 決して渇くことがない」と約束される方が、今どうしようもないほどに渇きに渇いて、弱り苦しんでおられる。これでも神の業が行われている、などと言えるの だろうか。言えるのです。それどころか、この福音書は、この言葉を高く掲げるのです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。」ど れほどに愛されたのか。それは、徹底的に、最後まで、これほど苦しみ、渇き、弱り、そしてついに死ぬまでに、神は今ご自分を、私たち人間の救いのために引 き渡して、愛して、愛し抜いておられる。こうして、神の完全で、徹底的な愛は「成し遂げられた」。
 第二に、かつてバプテスマのヨハネが証しした通り、イエス・キリストが「世の罪を取り除く神の子羊」として死んでおられることです。申しましたように、 指導者たちはイエスの足を折ってくれとピラトに頼みました。そこでピラトが兵士たちを送りましたところ、イエス様はすでに亡くなっておられました。それ で、イエス様の足は砕かれず、残ったというのです。聖書は、ここに旧約聖書の言葉の実現を見ています。「出エジプト記」12章に、このような言葉がありま す。「ひとつの家でこれ(贖いの子羊)を食べなければならない。その肉を少しも家の外に持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。」旧約の 時代、人々の罪を贖い清める犠牲の子羊は、このように骨を折られずに捧げられて、その犠牲を全うしたのです。今、主イエスはそれに遥かに優って、ご自身の 骨を折られることなくご自身を丸ごと捧げられ、すべての人間の罪を担い引き受け、全世界の罪を贖って、克服なさるのだ。こうして、罪を打ち破り、克服する 神の意志と道は「成し遂げられた」。
 そして第三に、この主イエスのこの死を通して、人間の新しい命とその道が開かれ、与えられたことです。イエス様の足を折りに来た兵士たちは、それが果た せないので、その代わりに脇腹を槍で刺し貫いて、確かに死んだことの証明を得ようとしました。すると、このようなことが起こったといいます。「ひとりの兵 卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。」この現象については、医学的にいろいろと分析がなされているようです。でも、教会はこの出来 事の中に、神の救いの完全な実現を見ました。この福音書とほぼ同じ教会の流れに属する「ヨハネの手紙」は、このように書いています。「世に勝つ者はだれ か。イエスを神の子と信じる者ではないか。このイエス・キリストは、水と血とを通ってこられたかたである。水によるだけでなく、水と血とによってこられた のである。―――あかしをするものが、三つある。御霊と水と血とである。―――そのあかしとは、神が永遠の命をわたしたちに賜り、かつ、そのいのちが御子 のうちにあるということである。」(Tヨハネ5・5〜11)神が私たち人間にくださる「永遠の命」、それはあのような罪に生きてしまう古い人間とその滅び 行く命ではありません。神に従って、その御心に従って生きる、全く新しい人間と、その全く新しい命が、この御子イエス・キリストの死を通して開かれた。だ から教会は、「水」をバプテスマに、「血」を主の晩餐になぞらえてきたのです。「成し遂げられた、新しい人が生まれた!」

 そうして、本当にここに新しい人間が生まれています。イエス様は十字架で殺されて死んだままなのに、復活はまだ人間の予想も期待もできないこれからなのに、もうすでにここに神の救いの業が起こり、新しい人間が生まれているのです。「ここに生まれる!」
 イエス様の埋葬に当たり、二人の人が立ち上がりました。一人は、アリマタヤのヨセフであり、もう一人はニコデモです。ヨセフは、「イエスの弟子でありな がら、ユダヤ人を恐れて、そのことを隠していた」と言われています。ニコデモも、かつて人の目を恐れて「夜」イエスのもとを訪れました。しかしその彼ら が、今この真っ昼間、イエスが「最悪の犯罪人」として呪われ処刑された、この最も「危険」な時に、公然と立ち上がり、この人を葬ったのです。彼らに全く新 しく起こったことは、まず「恐れの克服」でした。本当に新しい人がここにいるのです。
 明治時代に天皇暗殺計画という容疑で、大勢の社会主義者たちが逮捕され、幸徳秋水をはじめ12名が死刑になりました。これは大逆事件と呼ばれています が、今は社会主義者を弾圧するためのでっち上げ事件だったと分かっています。この時に処刑された人の中に大石誠之助というクリスチャンがいました。貧乏人 からは診察料を取らず代わりに金持ちからは余分にふんだくるという立派な医者様でありました。そのような愛の人が、身に覚えのない大逆罪の汚名を着せら れ、死刑にされてしまったのです。―――天皇に逆らうということは神に逆らうことでありました。このような者に同情したり、味方をしたりしたら、自分も同 罪と見なされてしまう。ですから、大石誠之助の友人で、同じく大逆罪で獄死した高木顕明というお坊さんがいますが、その方などは仏門から破門されてしまっ た。仏教界から見捨てられてしまったのです。そういう世の中なのでした。それにも関わらず、富士見町教会の植村正久牧師は、敢えて富士見町教会の教会堂に おいて、官憲の監視のもと、出席者はこれだけに限るという制限、圧力を受けながらも、堂々と信仰に従い、キリストの名において、大石誠之助の葬儀を営んだ と言います。どんなに勇気のいることであったでしょうか。アリマタヤのヨセフが、イエス様のご遺体を引き取ると申し出るということは、こういう大変なこと であったのです。(日本キリスト教団荒川教会ホームページより)
 そして、彼らに新しく起こったのは、イエスによる「新しい命」ということを、少しずつ信じ、知り始めたことだと思います。なぜ、人や死の力を恐れず立ち 上がることができるのか。それは、どんなに強い他のもの、他の力によっても、決して打ち倒されず、滅ぼされることのない、新しい命があることを知ったから ではないでしょうか。かつてニコデモは、「人は新しく生まれなければならなければ、神の国を見ることはできない」というイエス様の言葉が全くわかりません でした。しかし、今彼らは知ったのではありませんか。「この新しい命はあるのだ。神は、その命を、私たちにも与えてくださるのだ。」
 さらに彼らは、このイエスとその証のために、自分自身を捧げ、自ら犠牲を払うことを知りました。ヨセフがイエス様のお体を葬ったのは、「新しい墓」で あったと言われます。人は推測します。「この墓は、ヨセフが自分のために作っておいたものではなかったか。」また、ニコデモが持ってきた、遺体に塗る香料 は、今で言うなら33キロぐらいもある大変な量で、とても高価なものです。これもまた、ニコデモは自分の死の時のために持っていたのではないでしょうか。 しかし彼らは、今やその大切なものを主イエスのために捧げ、用い尽くします。そこには、この全く新しい命に生きることの、尽きない喜びと希望があるので す。「ここに生まれる」、ここに、このイエスのもとに新しい人間が生まれている。私たちもこのようにして救われ、新しい命をいただいているのです。
 「成し遂げられた」「完了した」、この言葉は私たちに対する、新しい命と生き方、また道への招きの言葉なのだというのです。「十字架は確かに終わりまし たが、新しいドラマが今度はあなたを主人公として始められようとしているのです。多くの聖徒たちがすばらしいドラマを演じてくれました。そのどれもがあの 十字架から出発しました。あなたの場合も同じように、構成、演出、監督を父なる神が担当します。ちょっと手を上げて出演の希望をお知らせください。新しい 人生への準備はイエスが十字架の上で済ませてくれました。聞いてください。彼がこう言っています。『完了したよ―――』と。」(大江寛人『父よ』より)
 だから、教会もここに立ち上がり、イエスと共に、聖書と共に、公然と証をするのです。「ここに、こんなに人間とこの世の罪が吹き荒れ、暴れまわるここに、神の救いは起こり、神の勝利は先取りされているのだ。「成し遂げられた!」

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストにおいてこの世を愛し、私たちすべての者を極みまで愛された神よ。
 「成し遂げられた!」主イエスはその生涯と死とを通して、あなたの愛と救いの業を実現し、完成し、成し遂げられました。また、その新しい命と道を私たち にも与えてくださいますから、心より感謝し御名をあがめます。私たちも信仰をもってそれを受け、「新しい人間」として生きていくことができますよう、一人 一人と教会を導いてください。私たちの証、教会の証を力づけ、豊かに用いてください。来るイースターが、多くの人々にとって大いなる喜びの時となりますよ うに。真の道、真理、命なるイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



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