あなたを裏切らない言葉―――神の真理が今ここに
ヨハネによる福音書18章28〜38節
私たちの人生を決定づける問いが、ここに語られています。「真理とは何か。」「そんな大げさな」と思われるでしょうか。でも、これをこう言い換えてみれ
ば、納得されるでしょう。「正しいこととは何か。」「正しいことは何だろうか。今、どうすればいいのだろうか。どちらを選べばよいのだろうか。また、これ
から生きるのに、正しい道は何だろうか。」私たちの人生の歩みというのは、きっとその繰り返しに違いありません。国や地域、時代、価値観や考え方、いろい
ろな違いはあっても、どこのどんな人も共通に、この問いをいつも考えながら生きているはずです。
ピラトは、自分の前に引き出されてきたイエス様を前にして、この問いを発します。「真理とは何か。」これは、真剣に真理を求める言葉ではないと言われま
す。むしろこれは、からかいや嘲笑を込めて語られているのです。「真理なんていうものがあるのか。それはどこにあるかもしれないが、そんなものが何の役に
立つのか。そんな真理とは何だろうね。」ある説教者は言いました、「真理よりも便利」。ピラトをはじめとする人々は「真理を追求する」などということは無
駄だと思っているのです。ピラトの関心事はすべてこうであったと言われます。「それは、暴動や犯罪などを取り締まる、治安維持のためでありまして、過ぎ越
し祭が無事に終わる事が総督の最終的な目的であったからです。―――エルサレムで暴動や混乱が起こった場合、彼は出世できなくなります。―――彼の心に
は、目の前に連れてこられたこのナザレのイエスという罪人を『適切に、正しく裁く』ということは念頭には無かったのです。むしろ彼が求めたのは、自分に対
する皇帝の心象を良くすることと、ローマに帰ってからより高いポストに就くこと。それだけであっただろうと思うのです。」彼がやろうとしたことは、政治
的・現実的・人間的配慮のもとに、いざこざや問題を起こすことなく、「うまく」処理することだけです。なるほどそれは一般的には「賢い処世術」かもしれま
せん。しかしそれは、この十字架の主を前にするとき、決して正しい道ではないということが明らかになってしまうのです。ピラトは言いました。「わたしは、
この人になんの罪も見いだせない。」ならば、直ちに釈放すればよいのです。ピラトには、それをする力、権力があります。それが彼の権限であり、責任です。
しかし彼はそうすることができません。いろいろな妥協や譲歩の末に、ますます追い込まれて、ついにこの「罪なき方」を十字架に引き渡していく破目になるの
です。
「真理を、正しいことを求めないで、自分たちの願望や利益だけを求めて行く」、それが「罪」の姿です。この姿は、今現代の私たちの中にもあります。中村
晋という福島県の高校の先生が、こんな投書を新聞にしたそうです。あの東日本大震災と福島第一原発事故の数年後のことです。「ある授業で少し原発のことに
触れた。―――男子生徒が怒ったようにこう言った。『いっそのこと原発なんて全部爆発しちまえばいいんだ!』―――『だってさあ、先生、福島市ってこんな
に放射能が高いのに避難地域にならないっていうの、おかしいべした(でしょう)。これって、福島とか郡山を避難地域にしたら、新幹線を止めなくちゃなんね
え、高速を止めなくちゃなんねえって、要するに経済が回らなくなるから避難させねえってことだべ。つまり、俺たちは経済活動の犠牲になって見殺しにされて
るってことだべした。俺はこんな中途半端な状態は我慢できねえ。だったらもう一回ドカンとなっちまった方がすっきりする』とのことだった。 彼の怒りは
原発事故、放射能汚染への怒りという形を取りながら、社会のあり方、教育のあり方、価値観のあり方を問う言葉ではなかったかと、私は考える。大人は一体ど
う考えるのかと。」(中村晋/大島直樹『福島から問う教育と命』より)それは、今日の言葉で言い換えれば、「何を求めているのか、真理を求めているのか、
それとも別のものを求めているのか」となるでしょう。
「私たちは決して真理を知らない。たとえ、それを『知っている』と思ったとしても、私たちは決して真理の中を生きてはいない。真理を求めないで、自分た
ちの願望と利益だけを求めて行く。」これが、イエス・キリストの十字架が告げる私たちの真の姿であり、神の審きなのです。
ならば、本当に「真理」とは何でしょうか。それはいったいどこに、どのようにしてあるのでしょうか。聖書は、そうした私たちの問いとは全く違ったことを
語ります。「神の真理そのものである方が、今ここにおられる。今、ここに入って来ておられる。」それは、このお方、イエス・キリストにほかなりません。
私たちバプテスト教会ではあまり用いませんが、キリスト教信仰を要約した文章の一つとして「使徒信条」というものがあります。その中で、神の真理である
イエス様が本当にこの世の中に、現実に入って来られたことを、二箇所で強調しています。一つは、有名な「おとめマリヤより生まれ」という言葉です。イエス
様は、マリヤさんのおなかからまさに一人の人間として生まれたのだ、というわけです。そしてもう一箇所が、今日の所と密接に関係があります。「ポンテオ・
ピラトのもとに苦しみを受け」。イエス様は、このピラトのような人がいる世界に入って来られたのです。真の神を知らず、その神の真理をも疑い、人々への恐
れと自らの保身から、政治的・法的・社会的な正義と責任を投げ捨てて、罪なき人を見殺しにしていくような人が支配し、力をもって活躍しているような、この
世界のただ中へと、人間の罪と不真理が渦巻くただ中へと入って来られたのです。
しかもこの世界へ、イエス様は「真理の王」として入って来られました。ピラトは何とかイエス様を理解しようとして、たびたび「あなたはユダヤ人の王なの
か」と問います。これは、「あなたは、ローマに武力で反抗して、ユダヤを独立に導こうとするような運動のリーダー、王なのか」という意味です。それに対し
て、主イエスは否定と肯定で答えられます。
まず否定。「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないよう
に戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない。」イエス様によって、神の真理は、この世が「正しい」と考えているものとは「全く違う
もの」として、この世に来ました。「愛する者、愛する先生イエスが危機に瀕しているならば、そのためには全力をもって、犠牲を払って、時には物理的な力に
訴えてでも、武器を取ってでも守るのが正しいことではないか。」しかし主イエスが今示しておられる神の真理、神の道は、そうではありません。神の真理は、
この危機にあっても、ここに、このピラトの前に丸腰で座り、ここでも神の愛と真理をどこまでも信じ、語りつつ、十字架に至るまで従い仕えて行くのです。さ
らにまた、この神の真理は、この世と全く何の関わりもなく、どこか別のところで併存しているのでもありません。「この世のものではない」とは、そういう意
味ではないと思います。それは、今イエス様が振る舞っておられるその通りに、神のところから来て、この世に入り込んで来て、この世とその人々に語りかけ、
そのこの世の有様に、厳しく、しかしあきらめない愛をもって深く、どこまでも向かい合うのです。
そして、イエス様の肯定の答え。「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきた
のである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける。」真理はどこにあるのか。このお方イエス・キリストのところにあるのです。このお方の中にこ
そ、真理があるのです。イエスは今ピラトに、そして私たちにも語り、招かれます。「真理はこのわたしにある。あなたが本当に真理を求め、それによって生き
たいと願うなら、わたしのところに来なさい、わたしを信じなさい。」ある方は、その「真理」とは「人が幸せに生きる正しい道、また知恵」であると言いまし
た。主イエスは、それを知り、それを教えると言われるのです。またある方は、真理とは「裏切らない言葉」だと言いました。「ヨハネ福音書も、何か客観的な
中立的な「真理」というものが存在するという風に考えているわけではありません。ただひとつ、『真理とは、偽りのないもの、私たちを裏切らないもの』とい
う風に言えるのではないでしょうか。それは、まさにイエス・キリストという存在の中にある。そこにこそ、私たちを裏切らないもの、神様のよき意志が表され
ているということです。」(松本敏之氏)イエス様が開き、示し、与えてくださった真理、それはあの御言葉に要約できるのではないでしょうか。「神はそのひ
とり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここに、「決してあなたを裏切
らない言葉」があるのです。「神はこの世とあなたを愛しておられる」、この言葉こそは、決して誤りのない神の真理、「決して裏切らない言葉」なのです。
この主イエスに従い行く中に、私たちにとっての真理があるのです。このお方を信じて、このお方の心に従って生きようと歩み始めるとき、私たちはそれぞれの正しい道、そして真の幸いに至る道に向けて、一歩を踏み出すことができるのではありませんか。
それは、ユダヤの指導者たちにとっては、もう一度神の御言葉を聞き直し、正しい道を求めようとすることです。かつて夜イエス様のもとに来たニコデモは、
それを求めようとしました。「この人が本当に、神から約束され神から来られたかどうか、よく聞いて調べるべきではないか」、彼は自分が責められ、嘲られて
も、この道を行こうとしました。
またピラトのように責任ある部署にいる人なら、「正しいことを本当に求め、ひたすら行う」ようにすることです。それがどんなに自分の地位や立場を危なく
することでも、人の人気と支持をなくすことであっても、そうしようと模索しながら生きることです。そのように主イエスを信じ、イエスに従おうとして生きて
行くときに、私たちの前にも、私たちにそれぞれふさわしい仕方で、正しい幸いな道が神の前に開かれ、導かれて行くのです。
「出エジプトの時代も、神さまはすでに救いを始めておられました。ファラオは助産婦たちに男の赤ちゃんを殺さなければならないと命じました。しかし助産
婦たちはそれに従わず、男の子たちを生かしておいた。この生かされた赤ちゃんの中に、実はモーセがいました。―――助産婦たちは『私たちは女性ですから無
力です。』とか『政治家ではないから、軍人ではないから、助産婦にすぎないから何もできない。』とは言いませんでした。彼女たちは神さまが望んでおられる
こと(注 真理)に従いました。―――置かれた場所で神さまを愛し、周りの人々を愛した。助産婦の役割はお産を手伝うことであって、赤ん坊の命を奪うこと
ではない。彼女たちはきちんと自分に与えられた役割を果たしました。神さまは何か英雄的な人、他の人より飛び抜けて優れた人、そういう人々を用いるのでは
なくて、こうした人々を用いてご自分の計画を進められます。私たち一人一人の置かれた場所できちんと慎ましやかに、でも愛をもって(注 真理に基づいて)
生きていくという小さな役割が神さまの大きな計画を支えているのです。」(大頭眞一『栄光への脱出』より)
イエス・キリスト、このお方は私たちと共に行ってくださる、私たちと共に歩み、共に生きてくださいます。「わたしは道であり、真理であり、命である。」このお方のところに真理と幸いがあります。このお方の言葉は、あなたを決して裏切らないのです。
(祈り)
神の真理そのものである方、良き真の羊飼いである方、私たちを導いて真理に至らせてくださる主イエスよ。
あなたの前に、私たち全ての者は問われ、神の真理でなく世の不真理に従う者として裁かれております。しかしあなたは、そんなこの世に真に来たり、そんな
私たちの前にまで進み出て、「わたしは道であり、真理であり、命である」と語り、私たちを信仰と救いにまで導いてくださいます。
どうか、今ここから、あなたを信じ、あなたに従い行く者とならせてください。私たちにそれぞれに真理の道を示し、開き、弱々しくもその道を歩み出し、歩
み行き、歩み通す力をお与えください。あなたの正しい御心、真理の業に従ってそれぞれの場で生き、働いていく私たち一人一人また教会としてください。恵み
深い御名によって祈ります。アーメン。