ひたすらにつながってくださる方と
ヨハネによる福音書第15章1〜8、16〜17節
キリスト教信仰の中心は、「キリスト教」と言うくらいですから、イエス・キリスト、イエス様です。ですから、イエス様をどのようなお方として知り、信じる
かということが決定的に大切なのです。そしてこのことは、私たちが「ああだ、こうだ」と言う前に、主イエスの方から「ご自分は何者か」ということを開き示
し、ご自分を与えてくださっています。「わたしは何々である」、ヨハネによる福音書にたびたび出て来るこの言い方は、まさにそういう言葉なのです。復活の
主は、今もこの語りかけによって、私たちにご自身を開き示し、与え続けてくださっているのです。
さて、ヨハネによる福音書には、この「わたしは何々である」と言う言葉が、いくつも出て来ます。「わたしは、命のパン、世の光、良い羊飼い、羊の門、復
活・命、道・真理・命」と次々に語られてきまして、今日の言葉はその最後となるものです。「わたしはまことのぶどうの木」。最後だけありまして、今日の言
葉は際立った特徴を示しています。それは、ただ「わたしはぶどうの木だ」と言っておられるだけでなく、「わたしは」と「ぶどうの木」との間に、「まこと
の」という価値判断を示す言葉が入っているということです。この「まことに」という言葉を入れると、それは二重の強調となります。そもそも、「わたしは」
という言い方が強調だからです。新約聖書が書かれているギリシャ語は、動詞の活用の形によってわざわざ主語を言わなくてもわかるようになっています。それ
なのに、わざわざ「わたしは」と言うのですから、それは「わたしこそは」という意味になるのです。その上に「わたしはまことのぶどうの木である」と、さら
に強調しています。
この言い方は、一つの状況を示しています。それは、ほかにも「ぶどう」であるとか「ぶどうの木」だと言われるものがあるということです。そういうたくさ
んのいろいろな「ぶどう」や「ぶどうの木」がある中で、「わたしこそは、本当のぶどうの木なのだ」と言っているのです。裏を返してさらに言えば、「他のも
のは、わたしから言えば、偽物だ」という意味合いさえも含んでいます。
どうして、ここまで強く言わねばならなかったのでしょうか。
一つには、イエス様と弟子たちとの状況が切迫し、特に弟子たちは追い詰められたような気持ちになっていたからです。今日の所には、この「まことのぶどう
の木」に「つながり、とどまれ」という呼びかけが繰り返し出て来ますが、それだけイエス様の所にとどまり、イエス様を信じ続けることが危機に瀕していたの
です。十字架が迫っていました。弟子たちにとって、自分たちの先生の立場が大変危なくなってきている、力ある人々からにらまれ、命を付けねらわれている、
そのうち捕らえられてひどい目に遭わされる、悪ければ殺される、それに伴い世の人々の支持や共感も目に見えて少なくなっている、そんな立場は自らにとって
も大変不安と恐れの多いものだったろうと思います。状況が悪くなってきますと、必ず弱気が誘惑してきます。「このまま、このイエス様のところにとどまって
いてもいいのだろうか。そろそろここを見限って、もっと安心・安全なところに移る方がいいのではないか。」
もう一つには、イエス様を取り巻く「見える現実」、また「『これが現実』と見えること」と、イエス様の語り行い生きられる道との間の落差・ギャップか非
常に大きく、またさらに大きくなっていったということです。弟子たちは「イエス様は救い主、世を救い、多くの人々を助ける方」と信じて、今まで従ってきま
した。ところが、イエス様は「わたしは人々の手に渡され、殺され、死んで行く」と言われるのです。いわば「落ち目」なのです。「そんな人が本当に救い主な
のか」、彼らの中には疑いとためらいが起き始めていたのです。そして、それは直接の弟子たちだけでなく、この福音書が書かれた頃の「ヨハネの教会」におい
ても、共通した状況があったのではないでしょうか。厳しい迫害が続く中で、信仰を続けて行くことに疲れ破れて、教会の信仰の交わりから離れて行ってしま
う、そういう人が多かったのではないでしょうか。そしてそれはまた私たち日本の教会の状況でもあります。日本の教会の「歩留まり率」、つまりバプテスマを
受けた後継続的・長期的に教会に残って信仰生活を続ける人の率は、その調査当時せいぜい3割ぐらいだったということです。それは、「とどまらない人、つな
がらない人が多い」といういことです。それは私たち自身、そして私自身にとっても大きな課題なのです。
そんな中で、イエス・キリストは大胆にも語り始められます。「わたしはまことのぶどうの木」。「ぶどう」というのは、聖書の歴史の中で大変親しまれてき
た植物・果物でした。実際にもよく飲み食いされたのですが、それはまた極めて豊かなイメージをもたらすシンボルとして用いられてきたのです。例えば、旧約
聖書の「士師記」の中にこんな言葉があります。「ぶどうの木は彼らに言った、『わたしはどうして神と人とを喜ばせるわたしのぶどう酒を捨てて行って、もろ
もろの木を治めることができましょうか』。」「自分本来の務めは、神の人との喜びだ」というわけです。ここから、ぶどうは、神の祝福をもたらすものの象
徴、さらには祝福そのものを表わすものとしてイメージされてきました。ですから、当時それに当てはめて、「ぶどうの木は預言者モーセである」とか「イスラ
エルの民である」とか語られていました。今は今で、「ここに祝福と命がある」「ここに、あなたを豊かにし、幸せにするものがある」と言われるものが多々あ
るでしょう。
しかし、イエス様はおっしゃるのです。「それらそういうものではなく、わたしが、わたしこそがまことのぶどうの木、神の祝福をあなたがたにもたらすもの
なのだ。この厳しい時代と状況の中であなたがたに『命』や『祝福』を約束するものは多く、それらは強くまた魅力的に見えるだろう。しかし、それらではない
のだ。弱く、落ちぶれて、ただ十字架で無力にも殺されて行くだけのように見えるこのわたしこそが、本当にあなたがたに神の祝福と命をもたらす者なのだ。」
だからこそ、こう言わずにはいられないのです。「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしもあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につ
ながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。」「人がわたしにつ
ながっていないならば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。」
実は、わたしはこれらの言葉を読むと、疑問や反発、さらにはつまずきをも覚えることがありました。「何もここまで言わなくてもいいのでは。これはもう脅
しではないか。しかし今教えられているのは、これはどうもそういう「上に立って裁き、脅す」言葉ではないのではないかということです。さきほどから見てい
るような状況の中で、イエス様はむしろ弟子たちの、また私たちの袖を必死に引っ張り、泣かんばかりに懇願しておられるのではないでしょうか。「わたしを見
捨てないで、わたしを離れないで。十字架に向かうわたしの小ささ、弱さ、愚かさにつまずき、わたしを切り離し、切り捨て、離れ去らないで。」「わたしを離
れては、あなたがたは何もできないからである。」「本当にそうなんだよ。本当はわたしのところにこそ、神の祝福と命がある。あなたがたには、ずっとそれを
受け続けていてほしいのだ。」
そうだとしますと、ここでしきりに言われている「つながり、とどまれ」という呼びかけについても、その理解において逆転が起こらなければならないと思い
ます。「イエス様につながり、とどまる」というとき、それは私たちが必死になってイエス様にすがりつき、しがみついているというのではありません。そうで
したら、私もいつかどこかでイエス様から離れ去ってしまうでしょう。でも、そうではありません。決してそうではありません。復活の主は今こう言われます。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」イエス様が、イエス様の方が、必死で私たちにつながろうと、ひたすらに
私たちをつかまえていてくださるのです。ちょっと考えてもわかります。私たちがイエス様につながろうとする力・熱意と、逆にイエス様が私たちにつながろう
とする力・熱意と、一体どちらが強いと思いますか。答えは明らかではありませんか。そして、この4節の言葉も実は、「つながっていなさい、それすれば、さ
もなくば」という「条件」のように読む必要はないのです。それは、このように読むことができるのです。「わたしにつながっていなさい。わたしも、いやわた
しこそがあなたがたにつながっている。」それは、復活の主の力強い言葉、何にも、死の力にさえも打ち勝つ御言葉です。
ひたすらに私たちにつながり、しっかりと私たちをつかまえていてくださる、この主イエス様の愛を受け入れ、それによって支えられて生きる。それがほかで
もなく、私たちが「イエス様につながり、イエス様の愛にとどまる」ということなのです。私が以前にいました教会で、40年ぶりに、あるいは50年の歳月を
越えて教会に戻ってきたという方々にお会いしました。「40年」「50年」、それは人間の熱意や願いが及ぶ時間ではないと思います。そこにはつながり、と
どまり、そして追い求め続けてくださった主イエス様の愛と真実があったのです。
そのように信じ、生きようとする私たち教会に向かって、復活の主はこの上なく豊かな、希望あふれる約束を与えてくださいます。「わたしはぶどうの木、あ
なたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」その結ぶ「実」
とは、「愛する」ことだと主は言われます。私たちの「愛する」こと、それは何でしょう。
イエス様が私たちに必死に願い懇願してくださるので、私たちも互いに懇願し合い、励まし合うのです。私たちは毎週礼拝に集い、礼拝が終わって別れる時、
「また来週もここに集いましょうね」と呼びかけ合います。心と体が疲れ、気持が折れてしまいそうになる時には、「それでも、また教会に集いましょうね」と
励まし合います。そして、今教会の交わりから離れておられる方々には、「ぜひまた、そして新しく教会においでください」と呼びかけたいと思います。その力
は、どこまでも、そしてただこの主イエス様の思いと呼びかけ、それだけです。それだけが、私たちを促して、そのように導きます。私たちは、主イエス様の愛
と真実を信頼し、ただそれに頼って、祈り合い、仕え合います。それ以外に頼れるものはありませんし、これこそが頼りになり、盤石の信頼をもってお委ねする
ことのできるものです。
だからこそ、私たちは希望を捨てずに、希望に支えられ、導かれて、信仰と愛に生きることができます。私たちの思い、人間の考え・熱意・善意でしたら、そ
れは弱り・衰え・なくなってしまうことでしょう。しかし、主の愛と熱心と真実があるからには、私たちは決して希望を失わないで生きることができる。たとえ
もし失ったとしても、それをもう一度拾って共に生きることがゆるされる。
「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」この輝きと喜びを目指して、呼びかけ招いてくださる主にお従いし、主と共に歩んでまいりましょう。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
日々繰り返し、そしていつも新しく、私たちにつながり、とどまり、そして導き続けてくださる復活の主の御愛と真実を覚えて、心から感謝し御名をあがめます。
どうか、私たちお互いも、主の愛と真実に促され押し出されて、互いに祈り合い、慰め合い、励まし合って、共に教会に連なり、礼拝を共にすることできます
ように。また、ここに今加わっていない、これから加わろうとする方々を、どうかあなたが祝福し、お導きください。私たち教会とその一人一人をもあなたの働
きのためにお用いください。
復活の主、教会の主イエス・キリストの御名によって切に祈ります。アーメン。