地に落ちて死んでこそ、実を結ぶ命
         
                                  
ヨハネによる福音書第12章20〜33節
                     

  「ヨハネによる福音書」には、いつくかのキーワードがあります。その中でも代表的で重要なものは、「永遠の命」です。有名な3章16節でもこう言われてい ます。「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛して下さった。れそは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」「永遠の命」 とは、いったい何なのでしょうか。どういう「命」なのでしょう。「不老長寿」のように、いつまでも平穏に生きられる、そういう「命」なのでしょうか。
 イエス・キリスト御自身が、復活の命、永遠の命を語っておられます。24〜25「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、 それは一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命を愛する人はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保っ て永遠の命に至るであろう。」しかも、それをイエス様は、私たちにとって実に衝撃的な仕方で語っておられます。「地に落ちて死ななければ」、それは間もな く迫り来るあの十字架を指しているのではないでしょうか。主は、あの十字架を通してしか、復活の命を語ろうとはされないのです。「この十字架の道を通って だけ、永遠の命に至る。」
 それは、まず「自然現象」や「一般的法則」として捉えることはできません。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、もし 死んだなら」という言葉は、当時すでに「ことわざ」や「格言」ではなく、主イエスの十字架と結び付けられて専ら教会で用いられていた言葉のようです。一般 的・常識的に見、捉えるなら、種が地に蒔かれることを「死ぬ」とは表現しないでしょう。「あの種、地に落ちて死んだよね」とは、おそらく言わないと思うの です。「投資」という言葉はどうでしょう。「何ごとも、蒔かなければ生えないよ。」また、「犠牲」という言葉もあります。「何の犠牲も払わないで、いい思 いはできないよ。」しかし、そうではない。ただ「死ぬ」としか言えない、具体的な道があったのです。それは、まさしくイエス・キリストの十字架です。ただ 主の十字架を通してこそ、復活の命は始まるのです。
 また、それは「地に落ちて、死ぬ」としか言えないような「死」なのです。そこには、何の「飾り」も「栄光」も「大義名分」もなかったのです。人間は、 「死」に様々な「飾り」を付けたがります。「犬死はいやだ」と思っているからです。「家族のため」「仕事のため」「お国のため」「愛と正義のため」、そう いう「ために死ぬ」のなら、まだ納得もできるし、時には「誇らしく」さえあるかもしれません。しかし、主イエスの「十字架の死」には何の誇りもありません でした。「十字架」とは、当時のローマ帝国で、最も重い犯罪者、国家反逆罪というような罪に問われた者への、最も残酷で、最もむごたらしい、そして最もみ じめな処刑の方法だったのです。それは、恥と呪いにまみれた死、だれもが「あんなふうには死にたくない」と思うような死、ただ絶望しか伴わないような死で あったのです。
 さらにそれは、「自分の命を憎む」としか言えないような「死」です。私はずっと疑問でした。なぜ、こんな「憎む」なんて激しい言葉が使ってあるのだろう と。少しわかりました。そうとしか言えないような、「何も、そこまでしなくても、そこまでして死ななくてもいいのに」と言わずにおられないような生き方、 死に方があるのではないか。イエス様の生涯は、まさにそれではなかったか。ちなみに、この「自分の命を愛する・憎む」の「命」は、私たちが知っているこの 地上的・常識的「命」です。そういう観点で言えば、イエス様はこの時「自分の命の絶頂」におられたと思います。都エルサレムの住民から圧倒的な支持と熱狂 をもって迎えられたのです。その波に乗っかって、人々の気持ちにつかず離れずでうまいことやれば、どんどんこの世の階段を昇っていけたのです。おまけに、 今日の所では、その名声は外国にまで届いて、ギリシア人が慕って訪ねて来たというのですから。しかし、そこで、イエス様はどこまでも、ただ神の御心と道に 従い、なんと世の罪を自ら引き受けて死のうとなさる。そして、「あんな人たちのために、そこまでしなくてもいいのに」という人たちと共に生きる。歴史的に 見ますと、イエス様がそのような人たちを特に顧みて生きられたことは明らかです。この福音書でも、その反映が見られます。そうして、「そんなにまでして」 「命を憎む」と言わずにおられないようにして主は生き、死なれました。ある人は、それをこのように表現しています。「主イエスよ ご受難の日 あなたはそ のみ業に失敗されたのです あなたはなんの抵抗もなさらず 冤罪の汚名を着せられて 歴史の闇に飲み込まれてしまいました」。「そこまで言わなくても」と 思いますが、そう言わざるを得ない死、この道を通ってこそ、主は復活の命に至られたのでした。「だが、死ねば、豊かな実を結ぶ。」「自分の命を憎む人は、 それを保って永遠の命に至る。」

 このように語りつつ主はこの御自身の道、この「十字架の道」その死を、大きな「時」の中に位置づけられます。
 第一に、それは、それが「栄光の時」なのです。23「人の子が栄光を受ける時が来た。」、32「わたしがこの地上から上げられる時」と言っておられま す。なぜ、そんな「時」、そんなふうにして死ぬ「時」が、「栄光のうちに上げられる時」なのだろうか。どうして、そんなふうに言えるのだろうか。先に見ま したように、それはどんなにしても人間的・常識的には、見ることも、理解することも、言うこともできません。ただ、それは神によって、神がそう語られ、そ うなさるからこそ、「栄光」となるのです。それでも「なぜ」と問うならば、「神はこのイエスの道、その生涯を通して、人知れずご自身の栄光・良さ・愛を現 してこられ、今ここからこの十字架によって、より一層その栄光を表されるからだ」と答えることができるでしょう。「もし神が地上に降りたったなら、イエス のように愛を語り・愛を行うであろうからです。イエスはサマリア人もギリシア人も差別なく交わりました。病人をいやし、飢えている者に食べ物を与え、酒宴 には酒をふるまいました。さまざまな愛の教えを説き、愛の無いユダヤ人権力者たちを批判しました。これが『既に栄光を現した』ということです。このイエス が十字架で殺される時、再び愛の神はその性質を明らかにします。十字架は人間の罪を教えるものですが、さらに十字架はその罪ある人間をすべて無条件に赦す 神の愛を教えるものでもあるからです。」(城倉啓氏、泉バプテスト教会ホームページより)そして事実、神はそうなさったし、そうなさる、この点に立って主 イエスは、「これがわたしの栄光の時」と語られるのです。
 第二に、それは「裁きの時」です。31「今はこの世が裁かれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう」と語っておられます。これも、不思議 な言葉です。そんなふうにイエス様が、ただ無力と絶望のうちに死んでいく、それがなぜ主を十字架につけて殺すような「世」とその「君・支配者」たちの「裁 き」と「追放」と敗北の時となるのか。彼らは、そんな十字架を見ても、痛くも痒くもないのではないか。考えているうちに、少しわかりました。これは第一の 「神の栄光」と裏腹なのです。神があの主イエスの十字架をこそ「栄光」と見、扱い、そうなさるからには、それとは裏腹な「この世の栄光」、「自分の命が守 られ、高められ、ほめられる」ことだけを求めている「世」とその「支配者」には、知らずして「裁き」と「追放」と敗北が告げられているのです。もちろん、 今これを受け入れられるのは、ただこのイエスとその十字架とを信じる信仰だけです。しかし、すでに神の前ではそれらの者たちは裁かれ、敗北しており、やが てそれは明らかに表れるのです。
 第三に、それは「救いと招きの時」です。32「わたしがこの地上から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」と言われま す。「イエス様のもとへ引き寄せられる」、それは「命」「幸い」「救い」にほかなりません。これも理屈をこねたくなる言葉です。「イエス様は、『すべての 人を』と言われるけど、本当に『全ての人』か。あの十字架の時、ほとんどの人はイエス様を見捨て、あざ笑っていたのに。今でも、多くの人はイエス様を信ぜ ず、頑なさの中に留まっているのに。」でも、こう考えることにしました。「そこには、イエス様の限りない愛と力と招きがあるのだ。」イエス様の十字架こ そ、神が定められた「まことの救い、光、命」なのです。そして、主はそれを本当に「全ての人」、御自身を憎み殺した人にまで届けたいと、愛によって切に 願っておられるのです。そして、イエス様には、そのための力が満ち満ちてあられるのです。そして今、主はこの救いへと力強く、粘り強く招いておらるので す。このことは信仰なしには受け取れないとは言え、しかし、本当に「全ての人が主イエスに、今強く引き寄せられている」のです。

 だからこそ、この主イエスの十字架と道は、ただイエス様だけのものに留まらず、主はこの道へと私たちをも招かれます。26「もしわたしに仕えようとする 人があれば、その人はわたしに従ってくるがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人が あれば、その人を父は重んじて下さるであろう。」あなたがたも、このわたしを信じ、このわたしの道に従いなさい。神に従い、人々に仕えなさい。こんな詩が あるそうです。「わたしの祝福をおくりつづけるために、きみの手が要る。わたしが語りつづけるために、きみの口が要る。わたしが苦しみつづけるために、き みの体が要る。わたしが愛しつづけるために、きみの心が要る。わたしの救いを広めるために、きみ自身が要る。」
 日野原重明さんという医師がおられます。105歳まで生きられ、その最後まで現役の働きをされたという方です。「聖路加病院の院長である日野原重明氏 は、かの『よど号ハイジャック事件』の時の乗客(人質)でありました。これから何十時間になるかわからないというので、犯人側から、本や雑誌を乗客に貸し 出すという提案がなされました。それらの本の中に『カラマーゾフの兄弟』があり、日野原先生は『それを貸してくれ』と言って、借りられました。『ああ、こ れでもうよかった。これを読んでいれば、何日かこの不安から逃れられる』と思われたそうです。本の扉を開いたとたんに、この『一粒の麦』の聖句が目に飛び 込んできました。『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』日野原先生は、学生時代から、よくドストエ フスキーを読んでおられ、『カラマーゾフの兄弟』もすでに読んでおられたそうですが、『こういうことがテーマであったのか』と、改めて思われたそうです。 死を意識した時間であったので、一層そのことを深く感じられたのでしょう。そして、もしも生かされてここから帰ることができたならば、この命を人のために 用いようと決心なさったそうです。この出来事が、その後の日野原先生の活動の原点となりました。」(松本敏之氏、経堂緑丘教会ホームページより)
 それは、私たち自身にとっても「十字架」の道、試練と困難と、そして「死」を意味するような道であるかもしれません。私たち自身はそれに耐えることはで きないでしょう。イエス様だって、この「時」を前にしてその「命」が騒ぎ、揺り動かずにいられなかったのですから。「今わたしは心が騒いでいる。わたしは なんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救いください。」その求めに「天の父」はお応えになりました。「すると天から声があった、『わたしはすでに栄 光をあらわした。そして、さらにそれをあらわすであろう』。――イエスは答えて言われた。『この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのため である』。」そう、私共のために、今も、今日もこの慰めと励ましの御声が聞こえています。この御声に促されて、押し出されて、私たちも主イエスを信じ、主 の道に従ってまいりましょう。「主よ、わたしは今ここにいます わたしの体も、わたしの心も わたしの魂も、みんなここにあります」。それは、「わたし」 のちっぽけな「命」にとどまらず、多くの、「全ての人」の救いと命に仕えるものとされるのです。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のま まである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 主イエスのあの死、あの十字架の死こそが、私たちに命をもたらし、すべての人に幸いをもたらし、全世界に救いをもたらしました。その死、そしてそこへと 至った、主の生き方とその十字架の道は、私たちには理解できず、受け入れられず、到底信じ従うことなどできないほどのものですが、あなたは「わたしの栄 光」、そして「永遠の命」と語られます。
 今私たちに聖霊の教えと導きをもって、イエス・キリストの道に「アーメン」と信仰をもって答え、私たちの小さな弱い一歩ですが、確信と感謝と喜びをもっ てこの主イエスの道に踏み出すことをさせてください。どうか、それをもあなたの「全ての人を愛し、救い、生かす」御業の中で、私たち一人一人と教会をお用 いください。
まことの道、真理、命、世の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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