今ここから、主と共に復活の命を生きる
         
                                  
ヨハネによる福音書第11章17〜27、38〜44節
                     

 今日のお話は、主イエスのもとに一つの知らせが届くところから始まります。「さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタ ニヤの人であった。―――姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、『主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています』と言わせた。」病人ラ ザロの姉妹、マルタとマリアは、主イエスのもとにその切なる願いと求めを持って行きました。でも、そもそもなぜ、そのようなことができるのでしょうか。私 たちもまた、イエス様のところにいろいろな求めと願い、祈りを持って行くことがあります。あるいはすでに、今ここに、切なる求めを持って来ておられる方も あるかもしれません。でも今日は、あえてそのこと、求めを持ってイエス様のところに来ることができるその理由・根拠を問いたいのです。なぜ、それができる のですか、なぜそうすることが許されるのですか。
 ラザロの姉妹たちは、その根拠は「愛だ」、「イエス様の愛だ」と考えました。だから、言ったのです。「主よ、あなたが愛しておられる者が病気をしていま す」「あなたは、この者を愛しておられます。このあなたの愛しておられる者が病んでいます。だから、主よ、この者をお救いください。」そして、これは確か な根拠です。こう記されているからです。5「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」主もまた言われました、「わたしたちの友ラザロ」 (11)。確かに、主はこのラザロを愛しておられました。だからこそ、彼のための救いを主に求めることが許されるのです。
 こう言ってまいりますと、疑問が起こって来ます。それなら、そのイエス様の愛はどこまで、だれのところまで及んでいるのか。なぜなら、もし万が一「イエ ス様が愛しておられない人」というのがいるとしたら、その人、その人に関わることのために願い、祈ることは無益なことになってしまうからです。どうなので しょうか。このように語られているのです。「神は、その独り子を賜ったほどに、世を愛された。」「独り子」とは、神の御子イエス様のことです。神は、この イエス・キリストによって、「世」を愛されたのだ、というのです。「世」とは、この世界ととりわけそこに住む人々を指す言葉です。この「世」には、何の限 定も条件も付いてはいません。ならば、「神は、イエス様によって、世のすべての人々、本当に全ての人を愛され、愛しておられる」と言うことができます。な らば、主イエスもまた、本当に「すべての人々」を愛しておられるのです。
 「主イエスの愛しておられる者」、それは全ての人、本当に全ての人であります。ここにこそ、私たちが、私たちに全てに関わる、全ての願いと求めを、主イ エスのもとに行って、訴え、申し上げることのできる、磐石の根拠があります。私たちもまた、病に苦しむとき、罪にもだえ悩むとき、死に恐れたじろぐとき、 イエス様に「あなたの愛する者が危機にあります」と確信をもって呼び求めることができるのです。そして、これは約束である共に、私たちへのチャレンジでも あると思います。主イエスが愛しておられる全ての人のために、主に呼びかけ、祈り、訴えることができる。この約束と祈りは、私たちの個人的な関わりの中だ けに留めておいては、いけないのではないでしょうか。「主よ、あなたの愛しておられる者が、飢餓に苦しんでいます。宿無しで寒さに震えています。いわれの ない差別の辱めを受けています。人権が脅かされ、尊厳が奪われています。打ち続く戦乱の中で死の恐怖にされされています。」

 この知らせを聞いたとき、主イエスは開口一番、即座におっしゃいました。新共同訳で4節をお読みします。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光 のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」これは、イエス様がラザロの病について、そこへ行く前に前もって語られた判断の言葉、「先取 りの言葉」です。そして、私は信じるのです、これはラザロだけではない、あらゆる人のあらゆる事柄について、主イエスが前もって、そして神の力をもって約 束し、宣言していてくださる究極の「先取りの言葉」なのです。
 病気に限らず、私たち人間に属する物事で「死に終わらない」などというものがあるでしょうか。いいえ、私たちの見るところでは、全てが、どんな物事も、 誰でも、結局のところ「死に終わる」ことになるのです。しかし、先に見たように神の愛がすべてに人に及ぶのであれば、このラザロについての言葉もまた全て の人と、全ての物事に及ぶのです。主は、「死に終わる」ほかはない私たち全てと、私たちに関わるすべての事柄について、こう語っていてくださいます。「こ れは、死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」なぜならば、こう語り、約束し、宣言してくださる方 がおられるからです。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつま でも死なない。」

 最初主イエスは、ラザロの姉マルタにこう言われました。「あなたの兄弟はよみがえるであろう。」それに対して、彼女はこう答えました。「終りの日のよみ がえりの時よみがえることは、存じています。」これは、当時ユダヤにありました一つの考え方・信仰でありました。「この世界は、いつか終わりの時を迎え る。その時になると、死んだ人々は皆死から甦って来る。そして、神の前に立ち、裁きを受ける。」マルタは、このような歴史観・世界観に立って、「終わりの 日に、私の弟も甦るであろうことは信じてします」と言ったのでした。このようなあり方の「希望」、つまり一定の世界や歴史についての見方に支えられた「希 望」は、マルタだけのもの、またユダヤだけのものではありません。似たような意味での考え・信仰は、いつの時代の、どこの国でも、多くの人が持っていたも のです。今、この日本でも、そしてたとえクリスチャンでなくても、それを言い表している人をよく見かけます。「死んでも、天国に行ける。死の向こう側に は、すばらしいところがあって、死んでしまったことは残念だけど、その天国へ行けるのだから、まあそれで慰められましょう。」
 しかし、このイエス・キリストの言葉は、それとは違ったこと、全く違ったことを語っています。イエス様は、このマルタの「固く、敬虔な、模範的信仰」に 満足されませんでした。私は、ここをこのように読むことが大切であると思います。マルタの言葉と、次のイエス様の言葉の間には、断絶があるのです。マルタ 「終わりの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています。」イエス「いや、そうではないのだ。わたしは、よみがえり(復活)であり、命である。」こ の「わたし」は、大変強調されています。「わたしが」、「わたしこそが」と言うべきでしょう。「わたしが、わたしこそが、よみがえり・復活であり、命なの だ。」
 つまり、あえて言い換えるならば、「よみがえり・復活」とは、またその「命」とは、「終わりの時」になって、あるいは「天国」に行って、そこで初めて起 こることではなくて、私たちにとっては、今ここに、私たちすべての前にイエス・キリストが立っておられる、語っておられる、そして招いておられる、今ここ に起こり、始まるものなのだ、ということだと思います。イエス様は私たちの前に今も立ち、私たちをご自身への信仰へと招きつつ、こう言われているのです。 「わたしこそ、復活そのものであり、命そのものである。あなたが今、わたしと出会い、わたしを信じるなら、今、ここから神の復活の命があなたに起こり、始 まるのだ。あなたは、これを信じるか。」

 この「命」は、イエス・キリストと出会い、信じる今ここから起こり、始まり、そして生きられて行くのです。だから、イエス様は「生きていて」と言われる のです。イエス様に招かれ、イエス様を信じて、この方と共に生きることが始まり、進んで行くのです。その命とは、(イエス様は神の御子であられますから) 神と共に生きる、生かされる命です。神に愛され、神の真実に守られ、導かれて生きて行く道であり、また神に愛されたがゆえに出会うすべての人々を、自分が 愛されたように愛して行く道です。
 それは、このような道です。「イエスはむしろこう言われるのであります。『わたしのあとに従って来なさい。わたしといっしょに来て、わたしといっしょに 生きることを学びなさい』と。そこで彼らはイエスと共に生きたのでありました。―――そして彼らは次第にさまざまのことを学びました。例えば、とても我慢 できないような人々を愛することとか、あるいは彼ら自身が―――不信仰な異邦人たちよりも勝れているということがあたかも当然であるかのごとくみなしてい た彼らの偏見を放棄することとか、あるいは苦しんでいる人の脇を、もはや重く鈍い心をもって通り過ぎたりはしないということ、などを学んだのでありまし た。その際彼らは、神を信頼することをも徐々に学んでまいりました。また絶えず不必要な配慮をなしたり思い悩んだりはしないことをも、学んだのでありまし た。彼らはまた、祈り、感謝し、そして歌うことを学びました。そして最後に彼らは、イエスご自身の復活を通して、神はすべてのことを、そう、死の克服すら もなされ得るのだと信じることを、学んだのでありました。」(E.シュバイツァー『神は言葉の中へ』より)

 こうして始まる「神と共なる命」は、いつもそして既に、死を越え、死に打ち勝っておられる神様が与え、導いてくださるものです。だからこそそれは、私た ちにとって最大の脅威である死に際しても、決して妨げられず、脅かされず、滅びない。だから、イエス様はこう約束されるのです。「わたしを信じる者は、た とえ死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない。あなたはこれを信じるか。」
 「1961年4月、アラバマ州モンゴメリー市のバプテスト教会で公民権運動をやっているさなかに、爆弾が投げ込まれ四人の女生徒が爆死するという小さな 記事が新聞に載りました。私(注 関田寛雄氏)は、『遠く離れていて何もできないけれども、キング牧師の闘いが勝利するよう祈っております』と手紙を書き まして、キング牧師に送りました。キング牧師は忙しい生活の中で、私に返事をくださいました。―――『あなたの支援の祈りに感謝している。私たちは、今一 番困難な事態の中に生きている、しかし道徳的にはすでに勝利している』とありました。―――その手紙の続きには、『私の生涯は、思いがけない形で終わるか もしれません。しかしこの運動は続きます。なぜならそれは正しいからです』。私はその言葉を受け、永遠の命とはこれなのだ、と思いました。永遠の命という のは、時間に規定されない命なのです。死ぬということを前提にしても、なお働くことをやめない、そういう命なのです。死に支配されているニヒルな精神、そ れを突き抜けて、たとえ肉体的な死が最後にあっても、それでも生きる命である。―――復活というのは、使命に生きる命です。―――使命に生きる生涯は、そ の死を突き抜けてなお、歴史を担って、主なる神のご計画に参加していく。それこそが永遠の命である。」(関田寛雄『目はかすまず、気力は失せず』より)
 「わたしはよみがえりであり、命である。」今、ここに復活と命の主イエス・キリストが立ってこのように語ってくださるとき、今や、マルタやマリヤにとっ ての希望は、「いつかの時」や「どこかの国」に結び付けられるのではなく、今ここにおられるこの「方」によって成り立ち、支えられ、与えられるものとなる のです。イエス・キリストに招かれ、イエスと共に、主イエスに従って生き始めるとき、私たちにおいても、この「復活の命」が始まって行くのです。だからこ そ私たちにも、神が愛しておられる全ての人のために信じ、祈り、仕え、生きることが許され、始まるのです。この命の道を生き、そして死んでも生きることへ と、今この方が私たちをも招き、ここから生かしてくださるのです。「わたしはよみがえりであり、命である。あなたはこれを信じるか。」

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべての者を極みまで愛された神よ。
 復活された主イエスは、今も私たちの前に立ち、こう語り、呼びかけ、招いてくださいます。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、 たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」どうか今私たちにもこの信仰を与え、それ によって私共一人一人を生かし、私たち教会が、この信仰と希望と、それに基づく愛とによって生き始めることができますように。
 この永遠の命こそは、復活の主と共に神と人を愛して生きる命、あなたからの使命に基づき、その実現を目指して祈り、努め、歩む道です。どうかこの道の上を、あなたに支えられ導かれて進み、ついに終わり日のの復活と栄光にまで至らせてください。
復活にして命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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