呪いの鎖を破る方を見て、生きる
             
                                  
ヨハネによる福音書第9章1〜9、35〜39節
                      

  ぎょっとされた方があるかもしれません。今日の題を見て、です。「呪い」、何か「古代の迷信」またはオカルトの世界の話のように思われるかもしれません が、実は私たちの周りに今もけっこうある、いや、強くあると言っても良いのです。「呪い」とは何かと問うならば、それは「人を縛る言葉」であると答えるこ とができます。ちょっとした「占い」も、その一つだと思います。「今日のラッキーカラーは赤でしょう」という言葉を出勤前に読んだあなたは、今日着て行く 服に赤を選ぶかもしれません。
 今日の箇所には、もっと深刻で根深い「呪い」の言葉が現れています。「イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエス に尋ねて言った、『先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』。」この弟子たちの問いの背後 に、「呪いの言葉」が隠れています。それは「因果応報」という言葉です。これは、それ自体の善し悪しは別として、大変理解しやすく、受け入れられやすく、 事実広く受け入れられているものであると思います。言うならば、「物事には必ず、原因と結果がある。」ということでしょう。「良いことをすれば、あるいは 良いことがあれば、それによって良い結果が生まれる。しかし、悪いことをすれば、悪いことがあれば、それが悪い結果をもたらす。」

 しかし、これがいつしか「呪いの言葉」に変わってしまうのです。それは、それが「病気や障がい」といった、一般的・常識的に「良くないこと」とされる事 柄に適用される場合です。まさに弟子たちは、そのように考えました。「生れつき目が見えずに生まれて来たこの人は、不幸だ。この不幸の原因は、必ずどこか の誰かにあるに違いない。そうだ、それは本人が罪を犯したか、あるいはその両親が罪を犯したかだろう。その罪・悪事の結果・罰として、この不幸は現れたに 違いない。」日本とかでしたら、これがさらに拡大されて、「先祖の罪のゆえに」ということが持ち上がって来るに違いないのです。これがどうして「呪いの言 葉」なのかと言えば、それがまさに「縛る言葉」だからです。
 それはまず「過去を縛る」のです。誰にも弱さがあり失敗があります。聖書で言えば、だれにでも罪はあるのです。その弱さや過ちによって失敗や罪を行った という、実は「ありもしない」かもしれない過去にさかのぼってその「原因」を求めても、その「過去」は、もうどうすることもできない、決して変えることが できない事柄です。そのどうすることもできない「過去」へと人を縛り付ける。それは、人に後悔と嘆きしかもたらさない言葉なのです。
 またそれは、「現在を縛る」のです。そのどうしようもない過去に原因を求めますから、結論は「仕方がない」しかありません。あなたの苦しみ、困窮、生き づらさ、それはみんな「過去の罪のせい」だから、「仕方がない」、どうすることもできない。この現代版が「自己責任論」です。「あなたが今苦しみ、困って いるのは、あなたの誤った判断や行動の結果なのだから、それはあなたの責任だ、仕方ない、もうどうしようもない。」だから、それは政治や社会の無策をも正 当化する言葉にもなります。さらにそれは、その当事者への評価も縛ります。「お前はだめな存在だ」。それは、ただにその人に、劣等感と無力感しかもたらさ ないのです。また「不幸な存在だ」というのも、実は勝手な決めつけです。「『障害』を不幸と考えるのは間違いです。不便がありうるけれども不幸ではありま せん。むしろ、『障害』を持つ人への偏見を持つ人や、『障害』を持つ人に不便をかけ、職に就かせない(物乞いに限定)健常者たちこそが不幸です。」(城倉 啓氏、いずみバプテスト教会ホームページより)
 さらにそれは、「将来をも縛る」のです。「覆しようも、変えようもない」とされる現実しかないのならば、その「将来」は絶望です。「ずっとこのまま だ」。さらに、それはもっと「ひどい将来」すらも予想し、もたらそうとします。「将来に、このわざわいを残さないために」、この人はどんな不当な目にあ い、理不尽なことをされるか分かりません。日本でも、ごく最近まで、多くの人が、「障がい」などがあったりしたために、「この不幸を将来に残さないため に」と言われて、強制的に不妊手術をされたりして、その将来を閉ざされてしまいました。あるいは、自分の命すら不当にも理不尽にも、国家権力や悪意ある個 人によって奪われてしまった人たちがいます。
 こう見てくると、この「因果応報」論が、いかに今の「自己責任論」と共通かがわかるでしょう。原因が、「過去の先祖の過ち、前世の罪」が、「現代のこの 世的な過ち・失敗」に置き換わっただけで、その構造は何も変わっていないのです。それは、今も人を「縛る言葉」であり、「呪いの言葉」なのです。弟子たち も、この言葉を信じ、この言葉に縛られていました。だから、問うたのでした。「誰の罪ですか。本人の罪ですか、両親の罪ですか。」

 しかし、イエス・キリストは、この「呪いの言葉」を破るのです。「呪い」は、「呪いの手紙」に見られるように、「連鎖」します。人から人へとその力を鎖 のように及ぼし、さらに多くの人々を縛り続けるのです。しかし、救い主イエス・キリストは、この呪いの鎖をも断ち切るのです。それは、この言葉です。「本 人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」
 イエス・キリストは、過去への「呪いの言葉」を破ります。「本人が罪を犯したのでもなく、両親が犯したのでもない。」もちろん、「先祖が犯した」のでも ありません。明確な「因果応報」の否定です。それは必ずしも、過去に何の失敗や誤りもなかったということではありません。「確かに人は弱く、罪深い存在だ から、何らかの誤りや失敗は犯したかもしれない、いや、きっと犯しただろう。しかしそれは、今この人の状態、あるいは苦難や試練とは何の関係もない。それ は、罰でも因果でも、何でもない。」もはや過去の人や出来事、さらには自分や家族の罪・過ち・失敗を探り求め、詮索し、ほじくり続ける必要はありません。 イエスが、その「呪いの道・扉」を、ぴしゃっと閉められたのです。
 そして主イエスは、「この人の上に」と言われます。「この人」を、その現在を、そのあるがままに見ておられるのです。弟子たちや他の人々は違いました。 「この人」の現在を受け入れられず、様々なレッテルを貼って、決めつけをもって見ていたのです。「障がいのある人」「かわいそうな人」「何もできない 人」。弟子たちにとって、「この人」は、自分や自分たちの考えを裏付けるための「材料」「ネタ」にしか過ぎなかったのではないでしょうか。彼らは、彼を 「一人の尊い人間」とは見ていなかったのです。彼の今まで負って来た苦しみにも痛みにも悲しみにも、何の共感も持っていないのです。所詮は「他人事」なの です。だから、こんなふうに問えるのです。しかし主は、この人の現在をあるがままに、神に愛され祝福されたものとして、将来に向かってどこまでも開かれた ものとして見ていてくださるのです。「この人の上に」、イエスはそのようにして「呪いの言葉」を打ち砕くのです。
 さらに主は、将来に向けての「呪いの鎖」をも断ち切ります。「この人の上に、神のみわざが現れるためである」。「神の業が」、「いわれない」苦しみや病 はもちろんのこと、たとえ「いわれがあっても」、人の罪が、恐るべき罪がそこに厳然とあり、それによって「この人」が責められ苦しめられるという悪が、苦 しみが、そして死が避けようもなく起こり、支配し、絶望的と見えるほどに状況が悪くされ、そしてその中へと「この人」が追い詰められていようとも、そこに 出て来られて、そのただ中に飛び込んで来られる神がおられ、その罪と悪と死の力を丸ごとひっくり返すまでに力強い、神の愛と救いの力が現れるのだ。そのよ うな祝福と幸いの将来へと、この人の人生は開かれており、開かれて行くのだ。

 だからこそ、主イエス・キリストはこの人に対してこうされたのでした。「神の業がこの人に現れる。」。そう言って、主イエスはこの人の目をお開きになっ たでした。「イエスはそう言って、地面につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、『シロアムの池に行って洗いなさ い』。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。」それは、「神の業がこの人の上に現れる」ことのまぎれもない「しるし」となる のです。
 このようにして、イエス・キリストの神は、「因果応報を破る神」なのです。主イエスはたびたびこう言われました。「わたしがそれである。」これは、旧約 聖書の「出エジプト記」に出て来る、主なる神様の自己紹介と同じ言葉です。「わたしはある」。その心は、「わたしは自由なる神なのだ。わたしは自由に存在 し、語り、行動する」。この神様は、奴隷の鎖に縛られていたイスラエルの民を、その「どうしようもない」「何もできない」と思っていたエジプトの支配と束 縛から解き放ち、自由にしてくださったのです。この神様が、まさに独り子イエス・キリストをこの世に救い主としてお送りになりました。それこそが、「因果 応報」の究極的な否定・克服なのだというのです。イエス・キリストの到来は、「因果応報という縛りを打ち破る出来事でした。特定の原因に基づいて特定の結 果が生じるのならば、神は人間を厳しく裁くべきです。人間の行いは昔から悪いからです。戦争や人権侵害がなかった日は地球上に一秒もありません。神は怒り 人間を呪い、他の動物については寛大であっても、人間だけを滅ぼし尽くすべきです。しかし神はまったく一方的に神の子を派遣するということをしたのです。 赤ん坊のイエスが生まれる、これは恵みと真理に満ちた神の業です。神の業は、この人・イエスにおいて現れました。―――これが神の業、一方的な救い、無条 件の赦しです。イエスが、『わたしをお遣わしになった方の業』(4節)と呼んでいるのは、因果応報を破るという行為・行動です」。(城倉啓氏、同上)「神 はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)

 「いいことじゃないか、めでたい話ではないか。」、そう思うかもしれませんが、実は、この出来事は結局、イエス様への人々の憎しみと殺意を強めることに しかなりませんでした。主イエスがまた一歩十字架へと近づかれたのです。そして、この人の人生にとっても、このいやしの出来事は、いわゆるこの世的な「幸 せ」をもたらさなかったのです。かえってこの事のゆえに、人々から疑われ、問い詰められ、批判を受け、ついには「会堂から追い出される」、つまり社会的に 追放されることにまでなるのです。
 そんな中で、この人はこう語りました。「わたしがそれだ」。これは、人々から「あなたは本当に、あの、目が見えず、あそこで物乞いをしていた人、そして あのイエスから目を開いていただいたという、その人なのか」と問われて、それに答えた言葉です。「わたしがそれだ」。けれども、これは大変不思議なのです が、これは、あのイエス様の自己紹介、ひいては主なる神様の自己紹介と全く同じ言葉なのです。「わたしはある」、「わたしがそれである」。それは、イエ ス・キリストが、そして主なる神が自由であられるように、この人もまた自由な者とされたということではありませんか。彼もまた、「呪いの言葉」によって縛 られていました。「自分はだめな存在、自分は不幸な存在、自分は絶望的な存在」。しかし、その鎖は破られたのです。「わたしはある、わたしは神に愛された 者としてここにある。そしてわたしは神に祝福された者として、これから生き、歩んで行く」、そう告白する者として彼は生かされたのです。そして、彼は自由 な者として「責任を負って」生きようとしています。今ここで、人々の問いかけに答えることは、自分に不利や苦しみを引き寄せてしまうかもしれないことで す。なぜなら、イエスご自身が「社会的に・政治的な危険な者」と見なされていたからです。そんなイエス様の業を肯定し、そのイエス様によっていやされた者 として自分を認めることは、即不利や不都合、さらには追放さえも意味したからです。しかし、彼は言いました。「わたしがそれだ」。彼は、こうしていただい たイエス様の恵みと神の愛に答え、「呪いの鎖を破ってくださった方」を眼前に見て、そのお方の前で自由に責任を負い、ついには信仰を告白するのです。「わ たしがそれだ」、「主よ、信じます」。
 何よりイエス様が、「この人」に責任を負っておられます。「わたしが、このわたしが、神の業をほかでもないあなたの上に表すのだ。」ただただ神を見、徹 底的に神の愛と救いを見、それを事実私たちに示し、見せ、与える方、それがゆえに「呪いの鎖を破る方」として、主はこの人の前に立っておられ、立ち続けら れます。主イエスは、そのような方として十字架に進んで行かれ、殺されますが、しかし神の力によって復活されます。そのようにして、ずっと彼の前に立た れ、そして今も私たちの前に立っておられるのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
 私たちを今なお縛ってやまない、数多くの「呪いの言葉」があります。それは、今も私たちを縛り、世の人々を縛り付けています。しかし主イエス・キリスト は、復活された方としてそのような私たちの世のただ中に来られ、今も語り、御業を行われます。このお方の生ける御言葉によって、今も私たちと世の人々また この社会を縛っているその鎖は断ち切られ、破られます。この解放と救いの御業を信じ、受け、それによって生かされる私たち一人一人また教会としてくださ い。
 そして私たちもまた、「自由な者、責任を負う者、愛する者」として、主の後について、主と共に、「私がそれだ」と生き、働き、仕えることができますように。
世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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