良い、まことの、唯一の羊飼いに聞く
             
                                  
ヨハネによる福音書第10章7〜18節
                      

 今月2月11日には、「信教の自由を守る日」があります。国家と宗教の正しい関係を覚え、祈り、それに基づいて踏み出す時です。そういう背景、そういう文脈をも頭と心に置きながら、この主イエス・キリストの御言葉を読み、聞いてまいりましょう。
 イエス・キリストは、あまりにも豊かな、あふれるばかりの恵みをもたらす方として、この世においでになりました。そのようなお方として、今主はこの「羊 飼いと羊のたとえ」を語っておられます。ここに描かれている光景それ自体は、羊を牧畜などのために飼うことが一般的に行われていたパレスチナ地方では、よ く見るものであったようです。少し前の2節から読みます。「門からはいる者は、羊の羊飼である。門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は 自分の羊の名をよんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。」この ようなことを、毎日羊飼いたちは羊たちに対して行っていたのです。本当に、羊飼いは羊の名前を、それぞれの細かい特徴まで含めて一匹一匹覚えており、羊た ちも羊飼いの声をきちんと聞き分けるそうです。
 また、ただの日常的な光景でもありません。ここには、旧約聖書の昔から受け継がれてきた、主なる神とその信仰の実に豊かなイメージとその伝統があるので す。そこでは、神様は「羊飼い」としてイメージされました。旧約の詩人は歌います。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたし を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。」そこでは、私たち人間、とりわけ神に特別に選ばれ愛された民であるイスラエルが「羊」として描かれてい るのです。

 さて、そういうことでこの言葉を聞いていくわけですが、まず雰囲気が大切です。「羊と羊飼い」などと言いますと、いかも「牧歌的」「田園的」な、のどか で平和で幸せそうなムードを感じますが、実はこの言葉は、それとはまったく異なる状況の中で語られたのです。実は、この「羊を飼う」ということは、全然生 易しいことではなかったのです。まず、「飼う」ことそれ自体が重労働で、しんどい仕事です。何十匹、あるいは何百匹の羊を常に把握し気を付けていなければ ならないというのは、とても神経を使う仕事です。かれらを連れて、毎日長い距離を移動します。夏の暑さがあり、冬の寒さがあります。野宿をしながら夜通し 番をしなければならないこともありました。さらには、多くの危険があり、脅威がありました。狼が狙い、盗賊が「盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするため に」襲ってきます。羊がけがや病気になることもあります。そんな中で羊を守るということだったのです。
 そして世の中には、「良い羊飼い」ばかりではなかったのです。「エゼキエル書」34章にこんな言葉があります。「わざわいなるかな、自分自身を養うイス ラエルの牧者。―――あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼 らを手荒く、きびしく治めている。」これは、イスラエルの宗教的・政治的指導者たちのことです。この世には「悪い羊飼いたち」がいる。「神の羊」である人 間たちを、「失わせ、追い出し、傷つけ、弱らせる」そのような者たち、そのような勢力、そのような精神が働き、襲っている。そういう中で、そういう世界の ただ中で、これらの言葉は語られているのです。この言葉を伝え記した「ヨハネ共同体」という教会は、当時激しい迫害にさらされていました。その中でかれら は、自分たちに今語りかけて来る復活の主の御言葉に切に聞き入ったのです。
 また、第二次世界大戦中ドイツではナチス政権が教会を迫害しました。「ナチス・ドイツの時代に、多くの教会がイエス・キリストと並べてヒトラーへの忠誠 を誓い、聖書と並べて民族や国家に服従して」いったのです。(浅岡勝『「バルメン宣言」を読む』より)その中で心あるクリスチャンたちは「ドイツ告白教 会」というグループを作って抵抗しました。その人たちが出した信仰の言葉として、「バルメン宣言」というものが出されました。その中に、このイエス・キリ ストの御言葉が出てくるのです。「わたしは羊の門である。」それに続けて「バルメン宣言」は、こう述べます。「聖書において我々に証しされているイエス・ キリストは、我々が聞くべき、また我々が生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、この神の唯一の御言葉のほか に、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないなどという誤った教えを、我々は退け る。」

 そういう様々な危険と恐れのただ中で、「羊たち」にとって切実に必要であり、大切なものは「門」「囲い」です。自分たちに正しく、安全な生活の場と出入 りの道が与えられているということが、不可欠なのです。だから今、主イエスは言われます。「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。」 「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。」「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させる ためである。」旧約の言葉を用いれば、イエスはこう言われるのです。「わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱った ものを強く」する。
 さらに「羊たち」にとって、何よりも切実で大切なことは、「どんな羊飼いに養われ、導かれるか」ということです。ただ「安全な場所におり、平穏でありさ えすればいい」というのではなく、また「無責任な、雇人の羊飼い」では困るのです。ここでイエス・キリストは立ち上がり、こう語られます。「わたしは、わ たしこそが、まことの羊飼いである。」ただの「羊飼い」ではない、「わたしが、まことの、良い、ただ一人の羊飼いなのだ」と言われるのです。

  イエス様が、どうしてご自分を「良い羊飼い」と言われるのでしょうか。イエス様ご自身が「良い羊飼い」の内容を述べておられると思います。
 それは、第一に「羊のために命を捨てる」ということです。羊を愛して思うあまり、その危険と脅威に際して、自分の命までも犠牲にしてそれを助け、守る。 これを一般的な「犠牲精神」と取ってはいけません。ここにはイエス・キリストが、主イエスだけが語っておられるのです。それは、自らをことごとく捨てて、 自分を守らず、自分を救わず、敵をも愛して死んで行かれた、あの十字架の死を指し示しています。「わたしは羊のために命を捨てる。―――わたしが、自分か らそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これは、わたしの父から授かった定めである。」
 それはまた、「羊のことを一匹一匹この上なく知っている」ということです。申しましたように、一般的に羊飼いは羊のことをよく知っているのですが、イエ ス様はそれとは比べものにならないほど知っておられるのです。わたしは「わたしの羊を知っており、わたしの羊もまた、わたしを知っている。それはちょう ど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」神の御子であるイエス様が、「父」である神を完全に、何の漏れも欠けもなく知 り、知られているのと同じくらい、いや全く同じにイエス様は、私たち「羊」のことを知っておられるというのです。ここには、私たちの思いを飛び抜けて越え てしまっているほどの愛と真実の関わりがあります。
 さらに、「良い羊飼い」であること、それは「どのような羊をも導ける」ということです。「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼ら をも導かなければならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼いとなるであろう。」「囲いの外」にいるとい うことは、「異質」であり、あまり他の羊と「慣れない」かもしれません。また、何かしら「出来が悪い」のかもしれません。でも、イエス様はそんなことおか まいなしだというのです。また、「囲いの中」にも、実は頑なで言うことをきかない「羊」がいるかもしれません。主は、この話を一貫して、ご自分に敵対する ファリサイ人たちに語られました。そういう人たちも、イエス様の愛の招きから漏れてはいないのです。あなたが、どんな人であっても、扱いにくく、頑固で、 迷いやすい、そんな者であっても、「良き羊飼い」なるイエス様はあなたをも導いてくださいます。

 この「良い羊飼い」がいてくださる。ほかでもない、このイエス様がいてくださる、それだけが今日のお話です。「わたしは良い羊飼いである。」、これさえ覚えて帰っていただければ、それで上出来なのです。
 しかし、あえてもう一つだけ付け加えるとしたら、それは「羊」のことです。この一連の教えの中で、「羊」たちは、ただ「受身」ではないことに気づきま す。一般的に、「羊」は弱く、迷いやすい動物だと言われます。確かにそうでしょうし、「羊」にたとえられている私たちもまたそういうものであることはよく 承知しています。
 しかし、イエス様は、そんな私たちもただ「受身」ではないのだと言ってくださるのです。ここで、「羊」に求められていることがあります。それは、三つに して実は一つのことです。それは、この「まことの羊飼い」を「知り」、その声を「聞き分け」、そしてこの方にだけ「ついて行く」ということです。これは、 実に大変な、重いことです。そして、それは同時に、ほかの声、ほかの者たち、ほかの道には行かない、従わない、ということです。そうでなければ、迷い、傷 つき、滅んでしまうでしょう。これもまた、厳しいことです。

 日本の無教会派のクリスチャンで、経済学者であった、矢内原忠雄という人がいます。彼は、1954年の憲法記念日にこんなことを語りました。「危機とい うものは、何か壁にぶつかって、それで安定を失って、ひっくり返りそうになる、そういう状態をいうのです。―――我々は日本の状態が安定しているとは、ど うしても思えない。何か壁にぶつかって、安定を欠いている。これが転覆するか、あるいは転覆しないで乗り切っていくか。そういうことについての不安を感じ ます。―――基本的人権の尊重と、平和条項の維持とは、戦後に出来た日本国憲法の二大原則であります。憲法というものは、申すまでもなく国の存在の基本的 原則でありまして、国の基本的な性格とあり方を表明しているものでありますが、その大原則が今や揺らいで来つつある。」(袴田康裕編『世の光となる教会を めざして』より)そういう時代の中で、いったい誰に聞き従い、何に基づいて語り、行い、生きようとするのか。
 矢内原は、戦争中は軍部の大陸戦争政策を批判して、大学の教授を辞職させられました。「今日は、虚偽の世に於て、我々のかくも愛したる日本の国の理想、 或は理想を失ったる日本の葬りの席であります。―――どうぞ皆さん、若し私の申したことが御解りになったならば、日本の理想を生かす為に、一先づ此の国を 葬って下さい。」(菊地譲『すべての命に平和を』による。)また戦後、「原子力の平和利用」ということが盛んに宣伝され推進させられたときにも、これは 「理性万能主義」であるとして一貫して批判をされました。そしてこのように語るのです。「政治もしくは実業もしくは学問に対して目的を決定するものは理性 自身ではない。理性を超えたものである。理性に方向を指示し理性に光を与えるもの、それは信仰です。そして特にキリスト教によれば、政治も学問も教育も経 済も、凡て人間の営みの目的は、神の栄光を顕すことにあるのであります。」(袴田、前掲書より)そのような時代に、私たちが耳を傾け、聞き従うべきもの は、理性でも、政府の宣伝でも、世の中の「空気」でもなく、信仰であり、神の御言葉であり、「良き羊飼い」なるイエス・キリストである、そう語っているの だと思います。

 そんなことが、この私たちにできるでしょうか、そう思ってしまいます。でも、大丈夫です。この「良い羊飼い」がおられるからです。「羊」は、そんなこと を生まれつき自分の力でできるのでしょうか。いいえ、決して。それは「羊飼い」が教え「仕込んだ」から、はじめてできるようになるのです。イエス様が、私 たちに御自分を知らせてくださいます。イエス様が御自分の御声を聞かせ、聞き分けられるようにしてくださいます。そして、イエス様が私たちにもただご自身 に聞き、従い行くことができるように思いと力と道を備え、与え、導いてくださいます。私たちは、まずとにかくこの「良き羊飼い」に「メェー」と鳴く、そこ から始めてまいりましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父よ、イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
 あなたの御子イエス・キリストは、私たちの世界においでになり、「わたしはまことの、良い羊飼いである」と語り、私たちを引き寄せてくださいました。
 どのような時代、どのような社会にあっても、他の声ではなく、ただこの「良き羊飼い」の御声と御言葉に聞き、従い、生きる、私たち一人一人またあなたの教会としてください。
まことの羊飼いイエス・キリストの御名によって、切にお祈りいたします。アーメン。



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