愛し、感謝し、分ける方
             
                                  
ヨハネによる福音書第6章1〜14節
                      

  福音書にあって大変印象深いのは、「問いを発するイエス・キリスト」のお姿です。主は弟子たちや人々に、様々な問いを発せられます。「あなたがたは、どう 思うか。」「どこに、あなたがたの信仰はあるのか。」イエス様という方は、私たちの求めや願いにに「答える」というより、むしろ私たちに向かって「問い」 を発するお方なのです。ここでも主イエスは弟子の一人ピリポにこう問いかけられました。「『どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか』。これ はピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。」
 「これはピリポをためそうとして言われた」、つまり「イエス様の試験、テスト」なのだというのです。「テスト」はあまり好きではない人が多いと思います が、反面何らかのテストは、生きて行く上で避けて通れないものでもあると思います。まして、イエス様の試験は、愛と恵みに基づいて、神の国の豊かさと希望 を目指して問われるものではないでしょうか。実際、私たちには、イエス様から問われる時があるのです。個々人の人生における様々な危機や試練、それは「イ エス様のテスト」なのかもしれません。また教会においても、そのような「問われる時」があります。今は来年度に向けての計画と準備の時ですが、これもまた そうした「主に問われる時」の一つであると思います。

 さて、そういうわけで「イエス様のテスト」であるわけですが、いったい何のテストなのでしょう。何を問う問題なのでしょうか。「そののち、イエスはガリ ラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。」イエス様は、初めガリラヤ地方をあちこち回って宣教 活動をされていました。その後を、五千人以上もの大勢の人たちがついて回っていたのです。そして、ここガリラヤ湖の向こう岸までも、この人々はイエスの後 を追って来たのでした。そこで主はピリポに向かって、この問いを発せられたのでした。「イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見 て、ピリポに言われた、『どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか』。」
 それはまず、「ないもの」に関するテストであると言えます。「ないもの」、言い換えれば「必要なもの」に関するテストです。「ない」から、「必要」とす るわけです。今、私たちには、いったい何がないのか、何が必要なのか。「この人々に食べさせるには」、私たちに「ない」ものは何か、いったい何が必要なの か。ピリポは答えました。「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい。」「私たちには何がないのか、何が必要なのか」、 ピリポはこう考えたのだと思います。「五千人をはるかに超える、そんなに大勢の人々に食べさせるのか。それは大変だ。どんなに多くのパンや食べ物が必要だ ろうか。ということは、どんなに多くのお金がいることだろうか。また、それのお金やパンを、どこから、どんなふうに調達してきたらいいだろうか。」弟子た ちは、まさにそのように考えました。だから、こう答えたのです。「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい。」私たちに なくて、私たちに必要なのは、「お金であり物」だ。またここには、「私たちには人が足りない、力が足りない」という思いも込められているかもしれません。 「私たちが、たった十二人の弟子でなくて、百人も二百人も、また千人も仲間がいるようなグループだったら、さぞお金も集まり、たくさんの人を助ける力も持 てただろう。」私たちもしばしばそう考えます。「教会にはお金がない。また人が足りない。奉仕者がもっといれば、また人が増え、献金も増えたならば、もっ と大きな働きができるだろうに。」

 「問題は、パンとお金の量と、それを手に入れる方法だ。」はたして、本当にそうなのでしょうか。むしろ、イエス様が私たちに問うておられるのは、全く違 う事柄なのではないでしょうか。もう一度、主イエスの問いを聞きましょう。「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか。」「この人々に食べさ せようか」、別の訳では「この人たちに食べさせるには」と、目的が強調されています。「この人たちに食べさせるには」、ここです、この部分がそもそも当た り前のことではありません。「この人々に食べさせる」、そもそもなぜ、イエス様がこんなに大勢の人々の食べることを心配し、食べさせようとしなければなら ないのでしょうか。しかも、この問いは、「この人々」がどんな人たちであったのかに目を向けるときに、いっそう鋭いものとなります。福音書はこう記しま す。「大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。」かれらは、イエス様をちゃんと理解して、そしてついて来たわ けではないのです。むしろ無理解と、ただ自分たちの願望に突き動かされて来ただけなのです。このことは、この出来事の後に明らかとなります。「イエスは人 々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。」「イエスを王にしよう」という無理矢理な要求をもって迫り、そ れが満たされないとなると失望し、どんどん離れていくのです。さらには、この失望は敵意に変わり、ついには「十字架につけよ」と叫び出すのです。そうで す。「この人たちに食べさせるには」、なんでこんな者たちのために、胃袋の心配をしてやり、そのための多大な犠牲を考えてやらなければならないのでしょう か。そもそも、どうしたらこのような問いそのものが成り立つのか。「量や手段の問題」ではなく、このことこそが、この問いの核心であると思います。
 その答えは、「愛」です。「愛そうとする意志、愛する気持ちがあるのか」。「この人たちを愛して、なおかれらのことを心配し、そのための配慮し、苦労す るような愛があるか。そのような愛は、どこにあるか。」これは、私たちの周りのことを少し深く考え合わせれば、わかってきます。私は以前一度だけ、私たち バプテスト教会も祈り応援している重度心身障害者施設である「久山療育園」のためのための募金活動に参加しました。このような障がいがある方々の施設のた めに、国や行政からの支援はほとんどないに等しいという現実があるのだそうです。そもそも国や行政にそういうお金を出す気持ちというものがないのです。 (その一方で軍事費だけはどんどん増えているのです。)その募金は、福岡の「大丸」というデパートの前で、募金箱を持って、チラシを配りながら、募金を呼 びかけるのです。そこで大変残念に思ったのは、お金を入れる人はもちろん、立ち止まってチラシを受け取ろうとする人すら、大変に少なかったということでし た。場所はデパートの前です。デパートで何万円、何十万円という買い物をした人もいたことでしょう。でも、その自分のためには何万円、何十万円も使う人々 の多くが、百円いや十円さえも、それを必要としている所にはそれを入れようとはしない、チラシさえも受け取らないのです。どんなにたくさん、そこにお金が あったとしても、二百デナリどころか一万デナリがあったとしても、まさにそこに一万人分の食べ物があったとしても、「それをこの人たちにあげたい、あげよ う」という思いが、「愛」がないならば、それはその人たちの手には決して渡らないことでしょう。「私たちにはなくて、必要なものは何か」。それは、「その ような愛はどこにあるのか、そもそもそんな愛があるのか」、それこそがここで問われている核心の問題なのではありませんか。この意味で、弟子たちはここ で、イエス様の問いかけを捉え損ないました。「不合格」です。

 さて、「イエス様のテスト」はさらに続きます。今度は、もう一人の弟子アンデレが問われているのです。アンデレは、イエス様にこう言いました。「ここ に、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子どもがいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう。」今度は、打って変わって 「あるもの」に関するテストだったのだと思います。
 「ない、ない」と言うが、本当にないのか。実は、既に「あるもの」、与えられて「あるもの」があるのではないか。ありました。一人の子どもが、きっと自 分のために持ってきたパンと魚のお弁当を献げて、アンデレに渡したのでしょう。それは、ある。「五つのパンと二匹の魚」はある。その「あるもの」を、どう 受け止めるのか、どう評価し、どう使うのか、それがここでイエス・キリストによって問われているのです。アンデレはこう答えました。「しかし、それが何に なりましょう。」これは、反語です。「それが何になりましょう、いや、何にもならないでしょう。何の意味も、力も、働きもないでしょう。」私たちも、しば しば同じように考えてしまいます。本当にないのか。いや、あるのです。神様が直接に、また多くの隣人たちを通して、私たちに既に与えてくださっているもの が。しかし、それを手にして、私たちは言うのです。「それが何になりましょう。」私たちは、「すでに与えられている恵みの現実」には目をとめないのです。 二百デナリものパンはありませんでした。しかし、そこには一人の子どもが自分の持っているものを、取っておきのものを、自分一人のために食べれば自分は満 腹できるというそのものを、「イエス様に使ってほしい」とえいっとささげてくれたという、恵みの現実が既に起こっていたのです。しかし、かれらはそれを 「目で見ていながら」、それを本当に「見る」ことはできなかったのです。だから、そこから出て来る評価は「それが何になりましょう」という失望と嘆息であ るよりほかはなかったのです。こうして、彼らはこの第二の「試験」にも正しく答えることはできませんでした。またしても「不合格」です。

 しかし、ここに福音があります。福音は「不合格」で終わらないのです、「失敗」で終わらないのです。弟子たちがまた私たちが正しく答えることができな かった問いを、イエス・キリストご自身が、もう一度私たちのために、私たちに代わって正しく答えてくださるのです。「愛はあるのか、そんな愛はどこにある のか」、また「すでに与えられている神の恵み、神の賜物を、どんなふうに受け取り、どう用いるのか」。
 イエス・キリストは今立ち上がり、今答えられるのです。「イエスは『人々をすわらせなさい』と言われた。」「そこで、イエスは―――人々に分け与え、ま た、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。」この御業はまさに「しるし」です。「その愛はある、その愛はここに、このお方のところにあ る。イエス・キリストは、まさにそのような者たちのために、無理解な者たち、最も大切なことを悟らない者たち、主を離れ、主を捨て、ついには十字架につけ ていくような者たちのために、なおパンを備え、彼らのために配慮なさる、そのような愛を持ち、その愛によって彼らのために行動されるお方なのだ。その愛は ここに、このお方のところにある。」しかもこの福音書は、この出来事の時期について注意深くこう記します。「時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になって いた。」ヨハネ福音書が「過越」に触れるのは、三箇所、いずれも極めて重要な所であり、その最後はあの「十字架」です。「過越祭」とは、人々の罪を償い、 赦すために、「贖いの小羊」が犠牲にされる時です。証人バプテスマのヨハネは、主イエスを指さして言いました、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。この イエスこそ「神の小羊」、「あんな人々」のためのパンを備え、与えるどころか、かれらの救いのためにご自分の命までも、すべてを投げ出し与えて、十字架に 至るまでも愛する方なのだ。そのような愛は、その愛は、ここにある!」
 そしてこの時イエスは、あの「五つのパンと二匹の魚」にこうされました。まず、「イエスはパンを取り」、イエス様はあのパンを「取って」くださったので す。弟子たちが「それが何になりましょう」と言ったもの、「何の役にも立たない」と軽んじ、捨てたもの、それを主はあえて拾い、再び手に取ってくださる。 それはなんという恵みでしょう。私たち自身がそうではないでしょうか。私がいて、私がこれをささげて、この奉仕をして、「それが何になりましょう」、人か らそう思われ言われると思うかもしれません。いや、この自分こそがそう思い語るかもしれません。また、そう言わずにはおられない私であるかもしれません。 でも、この極みない愛の主は、尽きない恵みの主は、そのものを御自身の御手にしっかりと「取って」くださるのです。しかも、主イエスは、その手に取ったも のを「感謝して」くださいます。「神様、これはなんとすばらしいのでしょう。ここに、このものにあなたが注いでくださる祝福はなんと豊かなのでしょう。こ れを用いてあなたがなしてくださる御業は、なんと大きく、なんと恵みに満ちているのでしょう。」そう語り、そう祈り、そうささげて「神のもの」としてくだ さるのです。

 そしてさらに、ここに「第三のテスト」があると言うことができるかもしれません。それは、「どうやって」のテストです。では、その「神の業・神の働き を、どのように行うのか」。もはや弟子たちは沈黙しています。そして、イエス様の答えと指示に従うのみです。イエス様の答えは、「共に」です。主イエス は、この「神の恵みの業」をなさるに当たって、ただ一人、単独にではなく、あの弟子たちを用いられ、あの弟子たちと「共に」これをされました。弟子たち に、人々を集め座らさせ、またパンと魚を配らせ、さらに残ったパンくずをも集めさせられました。イエス・キリストとその福音の恵みは、答えられなかった 者、間違って答えてしまった者をも、退けないのです、見捨てないのです。むしろ、かれらをもご自身の恵みの働きのために、赦し、招き、受け入れつつ、喜び と感謝と希望のうちに用いてくださるのです。それどころか、イエス・キリストは、かれらと「共に」働き、それを喜んでくださるのです。「すわっている人々 に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望む分だけ分け与えられた。人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、『少しでもむだ にならないように、パンくずの残りを集めなさい』。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。」 主イエスが御手に取って、感謝し、与えてくださるもの、それは驚くほど多くの人々を生かし、救い、そして「むだにならず」、なお余りあるのです。それはイ エス様御自身の体であり、命であり、愛なのです。私たちも、そのイエス・キリストとの共なる業と働き、また道へと呼ばれ、招かれ、押し出されて行くので す。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
 イエス・キリストこそ、なくてならい唯一のもの「愛」を持っておられる方、神の恵みと賜物を感謝し取ってくださる方、そしてこの私たちと恵みの業を共に してくださる方です。どうかこのお方と共に、喜びと感謝また希望とをもって働き、仕え、生きる私たち一人一人また教会としてください。
世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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