すべての壁を越えて、生ける水を与える方
             
                                  
ヨハネによる福音書第4章3〜26節
                      

  「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」イエス・キリストは、「言」なのです。初めからあった神の言葉、熟慮に熟慮を重ねて、その熱 い思いの末に語り出され、ついに肉となり人間となって来られたイエス・キリストの言葉は、その一言、一言が力と重みを持っています。今日のこの箇所でも、 イエス・キリストが発せられた、たった一つの言葉、たった一言が、とてつもない重みと力を持っているのです。それは、暑い夏の日盛り、真昼ごろ、サマリヤ 地方スカルの井戸の傍らで、一人の女性に呼びかけ、頼み求めたこの一言でした。「水を飲ませてください。」「何のこともない」と、皆さんは思うかもしれま せん。しかし、「水を飲ませてください」、この一言を発するために、イエス・キリストは幾つもの高い壁、分厚い壁、頑なな壁を乗り越えて来られました。

 まず、それはユダヤ人とサマリヤ人との壁でした。主イエスから呼びかけられた女性は、驚いて言います。「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリ ヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか。」注意してください。彼女は、「ああ、水ですね、わかりました、どうぞ」とは言っていないのです。 「どうして、そんな、途方もない、とんでもないことを言われるのですか」と、大きな驚きと衝撃をもって聞き返しているのです。なぜならば、彼女が語り、聖 書が説明しているように、当時イエス様が属していたユダヤ人のグループと、彼女がいたサマリヤ人のグループとの間には、到底越えることのできないような高 い厚い壁があったからです。「これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。」これは、単に「付き合いがなかった」という程度のことでは ありません。「『交際する』という単語を、『飲食を共にしない』と解釈する学者がいます。というのも、原義は『共に・利用する』だからです。サマリア人が 用いる杯をユダヤ人は用いないのが当時の常識です。そこに差別があったからです。」(城倉啓氏、いずみバプテスト教会ホームページより)だから、普通のユ ダヤ人は、決してサマリヤ人に水を頼んだりしないのです。しかし主イエスは、ユダヤ人でありながら、一人のサマリヤ人に対して、ためらいも迷いもなく、た だこう言われました。「水を飲ませてください。」イエス・キリストは、ユダヤ人とサマリヤ人との間の高く厚い壁を越えられたのでした。
 次に、イエスが越えられた壁、それは男性と女性との間の壁でした。「男が見知らぬ女に声をかけるなど、ユダヤ人であろうがサマリヤ人であろうが男女の区 別の厳しいこの辺りの風儀ではまずあり得ないことだった。特にラビたちは極めて自尊心が高く、家族の女にさえ、人前では声をかけることをしなかったもの だ。」(山浦玄嗣『ガリラヤのイェシュー』より)「女性を相手にあまり話をしてはいけない。自分自身の妻に対してすら同様のことが言われていた。―――そ れゆえ賢者たちは言った。女性と多く話をする男はみずからに災いを招き、律法の研究を怠り、最後にはゲヘナ(注 地獄)を受け継ぐ、と。」(ケネス・E・ ベイリー『中東文化の目で見たイエス』より)そこには、抜きがたい女性蔑視と軽視、そして差別があったのではないでしょうか。だから、彼女はイエスの言葉 につまずきつつ驚くのです。「どうしてサマリヤの(しかも)女の(この)わたしに飲ませてくれとおっしゃるのですか。」。イエスは、この抜きがたく越えが たい壁をも乗り越えて、こう言われたのでした。「水を飲ませてください。」
 さらに、まだ主イエスが越えられた壁があります。それは、この女性自身に対するさらなる偏見と差別の壁でした。「この暑い地方では水汲みという仕事は普 通早朝か夕方の涼しい刻限に女たちがするものである。選りにも選って太陽のギラギラと照りつける真っ昼間、暑熱を避けて人が憩うている時刻に水を汲みに来 るというのは珍しい。この女は、村の女たちと顔を合わせたくない何か格別の理由があったのであろう。」(山浦、前掲書より)後で見るように、彼女は複雑な 家庭事情、結婚関係を背負っていました。「あの女はふしだらで、不信仰で、汚れている」などという悪い評判が不当にも立てられ、彼女はこの村で人を避けて 生活しなければならないというような「生きづらい」人生を送っていたのではないでしょうか。ここにも、ど高くぶ厚い壁が彼女の周りには築き上げられていた のです。しかし、この壁さえも、イエス・キリストは越えて来られます。その彼女に、まさにこの彼女に、イエスは呼びかけられたのでした。「水を飲ませてく ださい。」これらの、幾多もの壁、何重もの壁を乗り越えて、イエスはここまで来られ、この言葉を発せられたのでした。

 彼女に「水を飲ませてください」と話しかけ、水をもらったであろうイエスは、次に「別の水」について語り始められました。「この水を飲む者はだれでも、 またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の 命に至る水が、わきあがるであろう。」彼女は、これを聞いて、「私もその水を飲ませてほしい。私もその水がほしい」と思ったのでしょう。イエス様にそれを 求めます。「主よ、わたしがかわくことなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしにください。」すると、主イエスはいきなり、彼女に こう言われました。「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい。」話題がいきなり、水の話から、彼女の夫の話に飛んでしまいました。そして間もな く、彼女はまた違う話を始めます。「礼拝の場所は、どこがふさわしいか」という礼拝の話になってしまうのです。「水」の話から「夫」の話へ、そしてすぐ 「礼拝」の話に。いったい何がどうつながるというのでしょう。
 ここに出てくる「水」には、二重の意味があります。一つは文字通りの意味の「水」、あの井戸からくみ、水道から出て来る水です。もう一つは象徴的な意 味、「たとえ」的な意味です。「水」は、私たちの命を守り、育てるもの、私たちが生きるためになくてはならないものです。そこから、「人間を人間として生 き生きと満たし、生かすもの」という意味が出て来ます。そして、実は「水」と対になって、いつも伴っている「裏キーワード」と言うべき言葉がここには隠さ れています。それは「渇き」です。「渇く」からこそ、「水」が必要なのです。「水」は何のためかと言えば、それは「渇きをいやす」ためです。そしてこの 「渇き」も、二重の意味で使われています。一つは文字通りの「喉の渇き」。もう一つはやはり比喩的・象徴的な意味の「渇き」。「何かが欠け、乏しさ・足り なさ・貧しさを覚えて困ったり悩んだりしている状態」です。その意味で言うならば、ここに登場する「サマリヤの女性」は、まさに「渇く人」であったと言う ことができるでしょう。
 こう考えるとわかるのです。なぜ、「水」の話からいきなり「夫」の話に飛ぶのか。それは、この「夫」の話が、まさに彼女の「渇き」そのものであるような ことだったからです。もう少し広げて言えば、彼女の結婚生活、さらにはそれをめぐっての彼女の人生そのものが、ここで「夫」という言葉で取り上げられてい ると言うことができます。つまり、彼女は「夫」をめぐって「渇いて」いたのです。「夫」をめぐって「欠け、乏しさ・足りなさ・貧しさを覚えて困ったり悩ん だりして」いたのです。だからこそ、「命の水」を語られたイエス・キリストは、彼女に「夫」について語られるのです。「あなたの夫を呼びに行って、ここに 連れてきなさい。」彼女は答えます。「わたしには夫はありません。」するとイエスはまた言われました。「夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには五 人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。」それはいったいどういうことでしょうか。これまで、伝統的・一般的には、この「夫」、結婚生活などについ て、もっぱら彼女自身に落ち度があり、過ちがあって、それで彼女は「渇き」、欠乏・苦しみ・悩みを抱え、それがために、彼女は人目をさけて暑い昼間に水を 汲みに来たのだとされてきたのです。ところが、どうもそうではない、必ずしも彼女が悪かったとは限らないということが分かってきました。
 一つの見方はこれ。「この女性は結婚した夫に先立たれ、順次兄弟たち、または親戚の男性たちと、意思に反して結婚し続けなくてはならなかったということ です。(注 そういう制度があったのですね。)本人としては最初の夫こそが自分の配偶者であると生涯思いたかったかもしれません。愛していない男性との結 婚を家のためという名目で強いられることは、女性を苦しめる制度です。」(城倉啓氏、いずみバプテスト教会ホームページより)もう一つはこれです。「当時 のユダヤでは離婚は『男性の権利』として女性である『妻』の意思は尊重されなかったようです。この女性は、もしかすると子が授からない理由を女性のせいに され、5人もの男性から離婚された背景があるかもしれないのです。」(『聖書教育』2020年1・2・3月号より)彼女の責任ではないにもかかわらず、彼 女はやはり周りから悪評を立てられ、社会の仲間に入れてもらえず、孤独と失意の毎日を送っていたのではないでしょうか。いずれにしても、このことをめぐっ て、彼女はひたすらに「渇いて」いました。「まったく本人の責任ではないところで、不当に貶められ、普通の苦労が何倍にも膨れ上がる苦労にさせられていま す。彼女は尊重されていません。個人として尊重されていません。だからこの人には救いが必要です。」(城倉啓氏、同上)「夫」の話、それは彼女にとって最 も「渇いて」いるところでした。最も傷ついているところ、最も奥底に隠されている・隠さざるを得ないところ、そこに主イエスは触れられます。それは、「裁 く」ためではなく、そこでこそ赦しと慰めをもって彼女に触れ、そこにこそ「生ける水」を与えるためです。
 だからこそ、話は「礼拝」へとつながって行くのです。彼女はイエス様に「礼拝するための場所はどこか」について尋ねました。そもそも「生ける水」とは いったい何なのでしょうか。旧約聖書のエレミヤ書にこのような言葉があります。主なる神がこうおっしゃっているのです。「わたしの民が二つの悪しきことを 行った。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、壊れた水ためで、水を入れておくことのできないものだ。」(エレミヤ 2・13)「生ける水」とは、ほかでもない、神御自身のことだったのです。神こそ、彼女を癒す方、彼女を満たす方、彼女を助ける方なのです。彼女はそのこ とをぼんやりとではありますが感じ、悟ったのだと思います。だからこそ、イエス様に尋ねました。「わたしがその神様とお会いするためには、わたしが神様を 礼拝するためには、どこに行けばいいのですか。」しかしながら、この彼女ほどその「礼拝」ということから縁遠い人もいないのではないでしょうか。「もう誰 とも会いたくない」、そんな人が多くの人が集まる礼拝に出かけて来るとは思えません。また、礼拝に来ている人も、彼女を受け入れるとも思えません。ユダヤ の正統派からは「異端」とののしられ、差別されていたサマリヤの人々とその礼拝、それからさえもはじき出され、追い出されて今ここにいるのが、彼女なので す。自分でも「こんな私はとうてい神様に近付くことなんかできない」と思い込んでいる彼女です。その彼女がどうやって?

 でもここに、その「突破口」が開けています。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。 父は、このような礼拝する者たちを求めておられる。」人間ではない、まして彼女ではない、神御自身が、私共の「父」であろうとしてくださる神が、礼拝者を 求め、捜し、見つけ出してくださる。神はそのために「キリスト」「救い主」を遣わしてくださる。その「救い主」が、罪人と神様との「橋渡し」「仲立ち」と なってくださる。彼女もそのことに気付きました。だから問いました。「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこら れたならば、いっさいのことを知らせてくださるでしょう。」主イエスはお答えになりました。「あなたと話をしているこのわたしが、それである。」「その救 い主はもう来たのだ。そして、あなたのところに、あなたの前に立っている。このわたしがそれである。」主はそのために、彼女のところに来るために、あらゆ る境とすべての壁を越えられました。ユダヤ人とサマリヤ人の壁、社会における男と女の壁。そして何より、渇ききって閉ざされてしまった彼女の心の壁。その ようにして来られた「救い主」は今「水を飲ませてください」と、自らが「渇く者」となって彼女のところに来ておられるのです。この主の御言葉は、あの十字 架を指し示しています。あそこでも、あそこでこそ主は「わたしは渇く」と言われたのでした。イエス・キリストは、私共の「渇き」と欠乏、その根本にある 罪、創り主なる神、「生ける水の源」である神から離れて生きようとする私たちの罪をことごとく引き受けられたのです。このお方が「死の境と壁」をすら越え て、今この人に「生ける命の水」を与えてくださるのです。彼女はこの言葉を聞いて、水がめをそこに置き去りにして、町へと出かけて行きました。あの自らを 閉ざし、隠れていた人が、今自分から人々に出会い、自ら経験した恵みを語る、なんという変わりようでしょう。今、確かに彼女は「生ける水」をいただいたの に違いありません。そして、それは彼女だけの物語ではありません。神は私たち一人一人を、「まことの礼拝者」としてくださり、私たちを「礼拝する民」とし て立ててくださるのです。イエス・キリストの神は、「礼拝者を求めてくださる神」だからです。礼拝者を探し、求め、そのためにはあらゆる壁を乗り越えて私 たちのところにまで来て、ついには十字架にまで歩まれる神だからです。「わたしがそれである」。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてを極みまで愛された神よ。
 すべての壁を越えて私たちのところにまで来られ、生ける水を与える方、「わたしがそれである」。このイエス・キリストを信じ、それにふさわしく、私たちも小さな様々な壁を越え、共に生き、互いに生かし合うことができますように。
すべての人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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