イエスに見られ、見ることになる
             
                                  
ヨハネによる福音書第1章43〜51節
                      

 皆様、新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。この1月から3月までは、『聖書教育』誌に基いて「ヨハネによる福音書」から、神様のメッセージ、語りかけを共に聞いてまいりたいと思います。

 「ヨハネによる福音書」というのは、一言で言って、「イエス・キリストとは何者か」を語る書物です。もちろんほかの聖書の文書も同じく「イエス・キリス トは何者か」を語りますが、「ヨハネ福音書」はその中でも群を抜いて「直球勝負」、もうただそれだけ、その一点だけを集中して、くり返し語るのです。です から、もうこの最初の1章から、イエス・キリストについての語りかけが私たちの耳に響いています。今日の箇所の少し前の36節です。「見よ、神の小羊」。 これは、バプテスマのヨハネという最高の証人によってなされた、それ以上にはできないほどの、実に的確なイエス様についての証しの言葉です。その少し前か ら読みますと、こうあります。「その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、『見よ、神 の小羊』。」
 けれども、ここで私には疑問があります。「見よ」と言われて「はい、そうですか」と右から左に抜けるようにすんなりと、私たちはイエス様を正しく見て、 正しく信じることができるものだろうか。そもそも、「見よ、神の子羊」と言われてイエス様を見たとしても、ではイエス様が「子羊」のかっこうをして立って おられるかというと、そんなことはありません。では、何か特別ないかにも「神の子」とか「特別な人」という姿でおられるかというと、そうでもありません。 そこに見られるのは、一見何の変哲もないような「ただの人」だったのです。
 それに加えて、私たち「罪人」が人やものを見ると言うとき、それはいったい何をどう見ているのか。イエス様のことを友人ピリポから聞いたナタナエルとい う人は、開口一番こう言いました。「ナザレから、何の良いものが出ようか。」イエス様がナザレという小さな村のご出身であることを聞いて、「そんなど田舎 の、つまらないところから、すばらしい人やものが出るわけがないだろうが。」と言ったのです。それはいわば「足もとを見る」といった見方です。人や物事を 決して正しく見ることができない。世の中の偏見・支配的な価値観に影響され振り回されて、自分の欲望に流され、曇らされて、「ちゃんと見ている」つもり で、実は捻じ曲げて、とんでもない「色」をつけて「見て」しまう。
 そして、そもそも私たちが「見る」というとき、今この世界で見ずにおられないもの・こととは何でしょうか。「ヘブル人への手紙」に、こういう言葉がある のです。「『万物を彼に服従させて下さった』という以上、服従しないものは、何一つ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事 実を、わたしたちは見ていない。」(ヘブル2・8)この「彼」とは、イエス・キリストのことです。イエス様が復活の勝利をお取りになって、「主の主、王の 王」としてこの世界を支配しておられると、私たちは信じている。つまり、「万物」全てのものはこのイエス様に服従しているはずである。ところが、その事実 を私たちは見ていないではないか、というわけです。「わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っているとは言えない現実に生きている。この手紙が 書かれた頃、教会は、ローマ帝国の権力のもとで絶えず脅かされておりました。―――外にも内にも悩みがあり痛みがある。まだ救われていないではありません か。御子が支配しているというけれども、そんなことはないではありませんか。どこで御子イエスが支配していると信じることができるのですか。聞いているこ とと見ていることと違うではありませんか。」(加藤常昭氏による)それはまた、私たちがこの世の様々な苦しみ、特に災害や戦争といった理不尽で不条理なひ どい苦しみの数々を「見る」ときに、かえって「見て」とりわけ強く感じてしまうことではないでしょうか。

 このあたりの事情を聖書は捉えているように思えます。「見よ」と言われたヨハネの弟子たちが、そのままイエス様を「見て」、信じ従ったというようには書 かれていないからです。むしろ、「見よ」と言われたのに、「二人の弟子はヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。」と語られているのです。さ らに、聖書は、この二人がイエス様を「見る」より先に、イエス様の方が彼らを「見た」のであることを告げます。「イエスはふり向き、彼らがついてくるのを 見て」とあります。そしてイエスは、二人にお尋ねになるのです。「何を求めているのか」(新共同訳)。これは、いわば私たちを「見」、「じっと見」、つい には「見抜いて」しまわれるような主イエスのお言葉だと思います。「何を求めているのか。」「何を、だれを、熱心に追い求めているのか。」私共は、実際に 毎日の歩みの中で「何を求めているか」によって、「本当にどういう者であるのか」が明らかになってしまっていると思います。「神を求める」と口では言いつ つ、でも実は「自分の願いをひたすら求めている」ということがあるかもしれません。イエス様は、ご自身について来たこの二人をじっと見つつ、「あなたは、 本当は何を求める、何者か。」と問われるのです。
 「イエスのほうがご覧になる」、これはこの後続く弟子たちとの出会いでも同じです。この「二人」のうちの一人アンデレの兄弟であったペトロは、イエス様 のところに連れて来られます。すると「イエスは彼に目をとめ」「見つめ」られたのです。また、翌日ピリポはこのような仕方でイエス様と出会いました。「イ エスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って(を見出して)言われた、『わたしに従ってきなさい』。」イエス様の方がピリポを見つけてくださった のです。また、あの失礼な言葉を吐いたナタナエルに対しても、「イエスは、ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て」と、イエス様の方から彼を見てくださっ たのでした。ここには大切なことがあると思います。イエス・キリストを信じる信仰は、私たちがイエス様を見て判断し決断することによって始まるのではあり ません。むしろ、主イエスの方からが私たちを見つけ出し、見てとってくださる、このことによって始まるのです。私たちの側から言うならば、「イエス様がこ のわたしを見ていてくださる」そのこと、そのイエス様のまなざしに気づくところから始まる、と言うことができるでしょう。

 こうして「イエス様が見ていてくださる」ことに気づくとき、私たちはようやくあのイエス・キリストについての証しの言葉を理解し始めます。「見よ、罪を 取り除く」というやつです。「イエス様に見られている」、私たちはそこから「罪」ということを知るのです。人間はみなそうだと思います。私たちは赤ちゃん の頃、実に天真爛漫に何も考えないで生きています。それが次第次第に分別を弁え、複雑な感情や考えを抱くようになる、それは「他者の視線」を感じ始め、そ れを自分の中に取り込めるようになるからです。それが、単なる私たちと同じ人間の「視線」だけではなかったらどうでしょうか。神様のまなざし、神の子イエ スの、何一つ間違いや悪をお持ちにならないその真実なまなざし、それをもって見られていることを思うとき、私たちはだれであっても自らの「罪」を思わない わけにはいかないのではないでしょうか。あのナタナエルは、イエスが自分のすべてをお見通しである、あのひどい言葉もすでに聞いておられるかのように知っ ておられる、ということを思い知らされたのです。
 「イエス様のまなざしを知るとき、罪を知る」、これで終わりではありません。もしそうなら、イエス様はただの「怖い方」「近づけない方」ということに なってしまうでしょう。イエス様は「最初の二人の弟子」にこう言われました。「来なさい。そうすれば見て、わかる。」「あなたがたに私が見せて上げること がある。」またイエスはナタナエルにこう言っておられます。「もっと大きなことをあなたは見るであろう。」「もっと大きなこと、もっと良い知らせが、わた しにはあるのだ。」と言われるのです。それは、あのヨハネの証しの言葉によって言えば「見よ、世の罪を取り除く、神の小羊」ということです。イエス・キリ ストは、ただ「罪を知らせる」だけではない、その「罪を取り除いてくださる方だ」、それが「小羊」ということで表されていることです。
 さらにここで、イエス様は、その「小羊」とは別のイメージを用いて、ご自分のお働きを示しておられます。51「よくよくあなたがたに言っておく。天が開 けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう。」これは、旧約聖書の故事に基づくものです。ヤコブという人が人生の大失 敗をして行く所もなく、孤独のうちに野宿するほかなかった、その晩彼は夢を見たのです。自分がいるこの地と、神様がおられる天との間に大きな梯子がかか り、その上を天使たちが昇り降りしているのを見ました。彼は悟りました。「私は見捨てられているのではない。神様は私としっかりつながっていてくださ る。」イエス・キリストはこれになぞらえて、「私は、まさにその天と地をつなぐ梯子だよ。」と言われるのです。「あなた、私に対して見当外れのことしか見 えず言えないようなあなた、ところがそのあなたのために、天が閉ざされるのではなく、開かれるのだ。そして、その天におられる神とそのあなたとがしっかり と結ばれ、あなたは神から罪を赦され、愛される、このことを私はあなたのために実現する。」「天と地をつなぐ梯子」、それはまさにあの「十字架」の光景で す。「あなたは、この神の良き知らせ、『福音』をこそ私において見ることになる。」

 こうして、イエス様によって見ていただき、またイエス様によって「福音」を見せていただいた人は、そこではじめてイエス・キリストを正しく見、正しく信 じることができるようにされるのです。そして、私たちも他の人々に向かってこう呼びかけ、証しをし始めることができるようになるのです。「見よ、神の子 羊。」「来て、見なさい。」
 その私たちは、いったい人に何を見せようとするのでしょうか。「見てください。教会には、すばらしい人がおりますよ。すばらしいことが行われています よ。」、そう言って連れて来るなら、じきに「足元を見られ」躓かれてしまうに違いありません。でも、もう私たちはそんなものを見せようとは思わないはずで す。私たちが見せたいものは、私たちが見せていただいたのと同じ、イエス・キリストのまなざしです。「イエス様が、私たちを極まりない愛をもって見つめて いてくださる」ということ。最初にご紹介した「ヘブル人への手紙」には、こんな言葉があります。「それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされな い。」(ヘブル2・11)イエス様は、皆さんお一人一人をなんと「兄弟」「姉妹」また「友」として「見」、呼んでくださるのです。私たちの苦しみのただ中 で、この罪の世その不条理と不正のただ中で、私たちの「兄弟」として私たちと共にいてくださる方を「見る」、それが私たちの救いであり、慰めであり、生き る力であり、希望なのです。もちろん、それを直接に見せることはできませんから、私たちが見せるものは、そうして「イエス様に見つめられ、そのまなざしに よって生かされ、喜んで生きている自分」だけです。「来て、見なさい。」この証しは、イエス様によって用いられます。そのとき、それを見る人の中にも神の 御業、まことの救いが起こるのです。その人も「イエスによって見られ、福音を見ることになる」のです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、「小羊」イエス・キリストを通して、私たちすべての者をを極みまで愛してくださった神よ。
 主よ、私たちは「私たちが見る」「わたしが見る」ことによっては、イエス・キリストの救いとあなたの愛とを「見る」ことはできません。私たちが「見る」 ものは、この世の価値観であり評判であり、また自らの欲望に過ぎません。また私たちが「見る」ものは、この世の理不尽な災いであり苦しみであり、不条理で 不公平な現実でしかありません。
 しかしイエス・キリストは、ご自分の方から私たち一人一人を「見」、捜し求め、「見」つけ出してくださいました。この大きな愛を感謝します。どうか、こ のあなたの「まなざし」を、あなたの愛を、あなたに愛されているこのわたしを、人々の前に言葉と行いと生き方とをもって開き、表わし、見せることを通して 証しさせてください。それをあなたが用いてくださり、この苦しみ多き世界と時代にあっても、多くの方があなたの「福音を見る」ことができるまでにしてくだ さい。まことの救い主、本当にすべての人の救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



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