今日、この日、神の霊がわたしに
             
                                  
イザヤ書第61章1〜3節
                      

 2023年最後の主日礼拝を迎えました。この年は、皆さんお一人お一人にとって、どのような一年であったでしょうか。皆さんは、今どのような状態、お気持ちでしょうか。
 今日のこの預言者の言葉、彼は「第三イザヤ」と呼ばれる人ですが、その言葉は「バビロン捕囚」から帰って来たイスラエルの人々に向けられていました。彼 らはいたく気落ちし、失望し、さらには絶望していたのです。50年余りも続いた「バビロン捕囚」でした。慣れない異国で、囚われの辱めと不利益を受けなが ら、彼らは生活してきました。それがようやく「故国に帰れる」との主の御言葉が下り、現実にも新しい支配者ペルシャ王の命令が出て、パレスチナの地に帰れ ることになったのです。実際は「帰ろう」とそれに応えた人々は、決して多くはありませんでした。50年も住めば、もうそこが「故郷」になってしまいます。 若い人たちは特にそうです。生きる基盤もすっかりバビロンになり、ここでの生活も落ち着いてきたのです。そんな中でも、預言者の言葉を聞いて希望に燃え、 夢を抱いて帰って来た少数の人たちがいたのでした。
 しかし、夢にまで見た「故郷」パレスチナの地で彼らを待っていたのは、厳しい現実でした。「バビロン捕囚から帰還した人々が神殿建設にとりかかろうとし ますが、順調には進みません。荒れ果てた土地を耕し、神殿を建設し、国を立て直して行くことは簡単な事ではありませんでした。経済的な困難や政治的な不 安、民族同士の対立と問題は尽きずに溢れています。民は貧しさに苦しみ、貧しさから投獄されるようなことが起ります。順調な回復や急速な変化が見られない と、神の回復の約束も信じられなくなっていきます。」(『聖書教育』2023年12月号より)イエスの死後、先生を裏切り見捨て逃げ去った弟子たちも、同 じような状態、挫折と絶望の中にあったに違いありません。最近は、他の教会の礼拝の様子やメッセージがインターネットで見聞きできるようになって、私も幾 人かの方の説教をお聞きする機会がありましたが、何人もの方が言っています。「今年ほど暗い気持ちで迎えるクリスマスはない」と。そこには、今も出口が見 えないロシアのウクライナ侵攻から始まった戦争、イスラエル国による非人道的なガザなどへの無差別攻撃などがあります。

 しかし今日は、そのような人々の中に「神の霊が下り、臨む」ということが起こったのだと語られているのです。「主なる神の霊がわたしに臨んだ」。あのペ ンテコステの日には、失意の中にあったイエスの弟子たち皆に、神の霊・聖霊が降り、臨みました。今日ここでは、古代イスラエルの民の中にあって、まずはこ の「第三イザヤ」という預言者一人に、神の霊は下り、臨んだのです。「主なる神の霊がわたしに臨んだ」、これは、その預言者の召命の記事、召命の言葉で す。「召命」とは、神様から預言者としての使命を受け、任命されることです。預言者の書、預言者には、ほぼ必ずこれがあります。神から使命を受けてはじめ て、預言者になれるからです。だから預言者は、最初に必ず、どのようにその召命を受けたかを語り、自分が預言者として語り、働けるという根拠を示すので す。彼もまた語りはじめます。「主なる神の霊がわたしに臨んだ」のだと。だから私は語るのだ、だから私は預言者として働くのだ。「主なる神の霊がわたしに 臨んだ」、それが彼の召命であり、それが彼が預言者である根拠です。「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣 べ伝えることをゆだね」たのです。
 「主なる神の霊がわたしに臨んだ。」「主の霊」、神の霊とはいったい何でしょうか。主なる神の霊、それが人に臨み、働くと、人はどうなるのでしょうか。 主の霊が臨むとき、人はどう変えられ、どう生きるようになるのでしょうか。「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福 音を宣べ伝えることをゆだね」。この預言者の言葉を見、聞くと、主なる神の霊が臨むときいったい何が起こるのか、そのとき人はどのように変えられ、どのよ うに生きるようにされるのかがわかります。主なる神の霊が臨むとき、何よりまず起こることは、人に神の使命を与え、神の僕、神に仕える者として立て、生か し、送り出すということです。そしてその「使命」とは、「貧しい者に福音を宣べ伝えること」だというのです。
 「貧しい者に福音を宣べ伝える」。まず「貧しい者」とは、物質的・経済的な意味です。このことはとても大切です。しかしまたそれだけでなく、何らかの意 味で、そしてあらゆる意味で「苦労し、苦しんでいる人」ということができるでしょう。バビロン捕囚直後のイスラエルには、きっとそういう人たちがあふれる ばかりにいたことでしょう。その人たちに「福音」を伝える、「福音」とは「良い知らせ」です。何が「良い知らせ」なのか、それは、「苦しんでいるあなた」 に、主なる神の恵み、神の愛と真実、具体的な助けがあるのだということです。それを「宣べ伝える」、それは、ただ言葉をもって知らせるということだけでな く、それを伝えて・伝えながら、具体的な主なる神の業・働きを、その使命を受けた人自身も行い、働き、生きるということです。

 この主なる神の霊の業・働き、それに仕えて働き生きる神の僕の働き、それがここでは、主に三つのステップをもって語られているように思えます。
 まず「わたしをつかわして」、「心のいためる者をいやし」、また「すべての悲しむ者を慰め」とあります。これは、精神的・個人的・人格的な働きです。こ の世のありとあらゆる様々な苦しみの中で、「心痛め、悲しむ者」たちがいます。その人たちを慰め、彼らに寄り添い、共にある・あろうとする、それが一つ目 の働きです。
 しかし、神の霊の働きは、そこに留まってはいません。「捕らわれ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年―――を告げ」るのです。こ れは、神の霊の業の社会的・経済的・政治的側面です。人は、ただ個人的に精神的にだけ生きているのではなく、人々との関わり中で、社会の中で否応なく様々 な関連をもって生きている者だからです。そこに様々な苦しみがあります。それは、はっきり言えば、悪と不正と不公平であることがあります。そこへと、そこ で苦しむ人々へと、具体的な助けと、逆転的な解放をもたらす、それが神の業であり、それに仕えて生きる神の僕の生きる道です。
 そして神の霊の働きは、さらなる次元へと進んで行きます。「シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂 いの心にかえて、さんびの衣を与えるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために、植えられた者ととなえられ る。」それは、この「悲しむ者」たち、苦しむ人々を、「新しい人」として生かし、立たせることです。ただ、悲しみが慰められ、苦しみがいやされるというだ けではない、「喜びと賛美」、神を喜びたたえて生きるという全く新しい生き方が与えられ、さらに神の「義」と「栄光」、神様の正しい愛の御心、その実現を この世において表わし、それに仕え、それを行って生きて行くという、全く「新しい人」へと創り変えられるのです。これが、神の業、主なる神の霊の働きで す。そして、この主なる神の霊が臨むとき、人はこのような道、このような生き方へと、新しく招かれ、導かれ、送り出されるのです。
 今から二千年余り前、イエス・キリストは、その故郷ナザレの会堂で働きを始められました。その働きの最初に、主イエスは、このイザヤ書61章の預言の言 葉を語られたのです。イエスは、ただこの言葉を語られただけでなく、それをさらに鋭く、深くして語られました。元のイザヤ書にあった「復讐の言葉」を抜い て、それをさらに普遍的に徹底的に広げて語られたのです。それだけでなく、こう言われたのです。「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した。」 それは、単なる理想や願望の言葉ではない、「それは今日この日に実現した。今日この日、私がこれを読んだこの時、この私によって、この私の生きる道、その 生涯と業とによって実現したのだ」。まさにそのように主イエスは、聖霊によって、主なる神の霊によって生まれ、生き、そして死なれたのです。まさにイエス こそ、「心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年を告げ」、「すべての悲しむ者を慰め」て生きられたの です。イエスはすべての人の罪を引き受け、またこの世のすべての悪を担って十字架に死に、それらをすべて克服されました。またイエスは、神の霊によって死 の中から起こされ、復活させられました。それによって、全く「新しい人」「神の人」となり、生きることを始められたのです。イエス・キリストこそ、「義の かしの木」、「主がその栄光をあらわすために植えられた者」となられたのです。

 「(ジョン・)ニュートンは、多くの人々に愛されている賛美歌『アメイジング・グレイス』の作者として広く知られている。『驚くばかりの 恵みなりき  この身の汚れを 知れる我(われ)に』(新聖歌233)。―――ニュートンは1725年、貿易船の船長の息子としてロンドンで生まれた。母は熱心なクリス チャンだったが、ニュートンが7歳になる前に病死する。ニュートンは11歳で父と共に船に乗るようになり、さまざまな経緯を経て奴隷貿易に携わるように なった。その頃のニュートンの評判は、反抗的で、罰当たり、不親切というものだった。 しかし、ニュートンが22歳の時に転機が訪れた。1748年5月 10日、激しい嵐が船を襲い、転覆の危機にあった船中でニュートンは神の慈悲を求めて必死に祈った。船は奇跡的に嵐を免れ、この経験がニュートンの回心の 『始まり』となった。1754〜55年の間に、ニュートンは奴隷貿易をやめ、その代わりに神学を学び始める。そして1764年、ついに英国国教会の牧師に なった。 ニュートンは、黒人たちをまるで家畜のように扱う奴隷貿易を直ちにやめるわけではないが、最終的には過去の生き方と決別し、その罪を悔い改め、 奴隷貿易に反対した政治家、ウィリアム・ウィルバーフォースと共に奴隷貿易廃止運動を活発に推進した。ニュートンは奴隷がひどい扱いを受けていることを正 直に語り、1807年3月、英国はついに奴隷貿易を禁止する。そして同年12月、82歳で地上での生涯を終える。」(Christian Todayホームページ、「説教者に変えられた元奴隷商人 『アメイジング・グレイス』の作者、ジョン・ニュートンの7つの言葉」より)
 主なる神の霊が臨むとき、イエス・キリストは、そのように人の生き方と人生を、少しずつ、そして根本的に変えてくださるのです。神の霊によって新しくさ れ、導かれる人生と生き方を一言で言うなら、それは「使命に生きる」ということです。「『永遠の命というのは使命に生きるということだ』と。永遠の命と は、死んでからもどこかで生き続ける命ではありません。どんなに困難なことが時間の世界にあっても、そういう渦巻きの中をなお使命に生きる力を与えてくだ さる、それが永遠の命です。時間で終わるべき命を突き抜けて生きる、時間を克服する永遠の命、それは使命に生きることです。使命に生きる者には、死が相対 化されます。死を超えて生きることができます。キング牧師の生涯もそうでした。イエス様の言葉に従って生きようとするかぎり、死のほうがどこかへ行ってし まうのです。」「使命に生きるということは『命を使う』と書きます。―――かつてある視覚障がいの方の文章を読んだ時にこんなのがありました。ある日電車 の中で降りるドアに向かっていった時、自分の腕を差し出して『ご一緒にどうぞ』と支えてホームとの間のすき間を渡ってくれた男の人がいた。その時、男の人 が連れていた小さな女の子が『お父さん、あの人お父さんのお友達なの?』と聞いた。その男の人は『そうだよ、お友達だよ』と言いながら二人は行ってしまっ た。その盲人の方の心には、電車が去った後もその言葉が響き続けました。」(関田寛雄『目はかすまず、気力は失せず』より)
 2023年最後の日、今日、この日にも、神の霊は私たち一人一人にも下り、来たり、臨んでくださるのではないでしょうか。そして私たちをも、たとえ挫折 や失望があっても、その中から新しく立ち上がらせ、神と隣人のために使命を与えつつ、新しい年へと導いて行ってくださるのです。神の霊は、この私たちにも 働き、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに従って生き、イエス・キリストと共に生き、働く道へと私たちを招き、導き、変えてくださるのです。私た ちをもこの「福音を告げ」、「主の恵みの年を告げ」る道へと押し出し、送り出してくださるのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべての者を極みまで愛された神よ。
 預言者に降り臨んだあなたの霊、イエスの弟子たちの中に降り臨んだあなたの御霊、それが今日、この日、2023年最後の日、この私たちに、その一人一人にもくだり、臨んでくださることを信じ、受け入れ、感謝いたします。
 この年の終わりに私たちは、あるいは挫折を経験し、あるいは失意の中にあり、あるいは無力感と虚しさの中にあるかもしれません。しかしそんな私たちに も、あなたの霊はくだり、臨んでくださいます。その時私たちの中に、あなたの新しい御業が起こり、与えられ、始まります。どうかそのあなたの御霊と共にこ の年を送り、来たるべき新しい年を感謝と希望のうちに迎えさせてください。この暗い世界の中で私たちをも、「福音を告げ」「主の恵みの年を告げる」者た ち、またその教会としてください。
全世界の、文字通りすべての人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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