ほかにない愛、これほどの愛、クリスマスの愛
             
                                  
ヨハネによる福音書第3章16〜21節
                      
 皆さん、クリスマス、心からおめでとうございます。
 さて今日の題の中には、実は遠慮と婉曲があります。ストレートには語っていないのです。なぜかと言うと、「説教壇では使っていけない言葉」というものが 教えられているからです。「隠語でない言葉、乱暴でない言葉、下品でない言葉、響きのいい言葉」。(金井由信『児童説教入門』による。)実は、本当は 「『馬鹿じゃないか』というほどの愛をもって」としたかったのです。ただそれを週報や掲示板に掲げるのは「どうか」と思われたので、「これほどの愛をもっ て」としたわけなのです。だから、「これほどの愛」というのは「『馬鹿じゃないか』というほどの愛」なのだ、クリスマスに表された神の愛とは「それほどの 愛」なのだとご理解ください。
 こうして教会の働きをしていますと、たまにキリスト教会の歴史や活動についてのご批判をいただくことがあります。たとえば、「教会は戦争を神の名におい て容認してきたじゃないか」とか、「教会は人種差別を聖書の言葉によって正当化してきたじゃないか」というものです。事実歴史をひもとくと、人種差別や戦 争、また人権抑圧や少数者・弱者の圧殺・虐殺などを、教会が聖書によって弁護し正当化してきてしまったことが数多くあったことを知らされます。私は以前、 イスラエル国に住むパレスチナ人キリスト者で牧師、ナイム・アティークという方のご本を読んだのですが、その中で、イスラエル国政府がその占領下に住むパ レスチナ人やイスラム教徒に対して、差別や人権侵害を行っていて、それをある人々が聖書によって正当化していることを指摘しています。「ユダヤ人入植者は より過激になり、法律を思うがままにし始めました。彼らはイスラエル軍の庇護のもとでパレスチナの市民に嫌がらせや襲撃を公然と行ってきました。―――悲 劇的なことに、イスラエル政府の下でのパレスチナ人の生活は悪化する一方です。―――今や、神の名と聖書こそが彼らの行為を正当化するものとなったので す。」(ナイム・アティーク『サビールの祈り パレスチナ解放の神学』より)そしてこのことは、イスラエル国がパレスチナのガザなどを無差別に、非人道的 に攻撃している昨今において、どん底にまで至ったということができます。戦争とは、最悪の差別であり人権侵害だからです。
 ではこの方アティーク牧師は、どうすればそのような聖書の読み方・解釈を乗り越えていけると言っているのでしょうか。彼はこう語るのです。「キリストこ そが鍵」なのだと。私なりに言えば、イエスがベツレヘムの飼い葉おけに幼子としてこの世に来られ、その生涯をもって示され生きられた愛こそが鍵なのだ、ま た、そのイエス・キリストを通して示され与えられた神の愛こそが、すべての事柄を判断し、聖書のより良い読み方を開き示す鍵となるのだ、そして私たちがよ り正しく信仰によって生きて行くその道を導く鍵となるのだということでしょう。そして、このイエス・キリストの愛、クリスマスに表されたこの神の愛こそ が、「これほどの愛」「『馬鹿じゃないか』というほどの愛」なのです。
 それは、このように聖書に語られています。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永 遠の命を得るためである。」この愛のどこが、「馬鹿じゃないか」というほどの、それほどの愛なのでしょうか。そもそもこの「愛する」「愛」という言葉、こ れが特別なのです。「アガペー」と言います。この新約聖書が書かれた当時、世の中には「愛」を表わす言葉がいくつかありました。「エロース」とか「フィリ ア」とかです。これらの方が圧倒的によく使われていたのです。しかし、新約聖書の記者たちは、それらのよく使われていた言葉をわざと使わないで、この「神 の愛」を表わすために、あまり使われていなかったこの「アガペー」という言葉をあえて引っ張ってきて用いたのです。それは、「特別な愛」を表したかったか らでした。「神の愛」、それは「ほかにない愛」「比べるもののない愛」、さらには人の度肝を抜くまでの愛、「馬鹿じゃないか」と言わせるほどの愛であるこ とを、なんとしても表現したかったからなのです。

 神の愛が「ほかにない愛」、「それほどの愛」であること、それはまずその愛の「対象」において表されています。神は、どんなものを愛されるのでしょう か。聖書は語っています。「神は、この世を愛された。」神は、「この世」「世」を愛される方なのです。では、「世」とは何でしょうか。どういうものなので しょうか。その意味は、そんなに難しいものではありません。「世」とは、「この世界とその中に住む者たち」、つまり私たち人間を、主に指している言葉で す。でも問題なのは、どういう「世」であり、どういう者たちなのか、ということです。ヨハネ福音書は、「世」とは何者かを示すために、一人の人をすでに登 場させています。それは、このすぐ前に登場しているニコデモです。彼は、神様を信じるのに臆病であり、優柔不断です。神様を信じることさえも、自分の枠組 みを崩そうとはせず、いつもその枠に神様をはめ込んでしまいます。また、神の御心を知り、理解することが全くできないのです。ニコデモの姿からさらに進ん で、福音書は、「世」は神に敵対するものであり、まったくの闇の中にあり、悪を行うものであって、まったく信頼することができないものである、と証しして います。端的にいって、「世」とは、「神の敵」なのです。
 しかし、聖書は言うのです。神は、そんな「世」を愛された。私たちなら、そんなものを愛することはしないし、そもそもできないでしょう。でも、神は、こ の「世」を愛することができるほどに大きい愛の力を持ち、事実「世」を愛されたのです。「この世を愛する」、「敵対する者をも愛する」、それはまさに私た ちに「馬鹿じゃないか」と言わせるに足るものです。なぜなら私たちとその世界は、常に「味方と敵」という線を引き、「味方は愛し、敵は憎め」と教えている からです。でも神はすべての人を愛する、あらゆる隔てや壁また溝をも超えてすべての人を愛するのです。それは「神は神から離れ背いた私をも愛してくださ る」という、まぎれもない福音です。また同時に、それはしばしば戦争や差別や人権侵害を容認し、それに妥協し流されついて行ってて行ってしまう私たちへ の、鋭い問いかけであり、悔い改めて生きることへの暖かくも強い促しなのです。この「キリストが鍵」、この神の愛が「鍵」なのです。この神の愛を信じるか らこそ、私たちは戦争や差別またあらゆる人権侵害に対抗して語り、それとは違う生き方を模索し示そうと努めるのです。

 「ほかにない愛」「それほどの神の愛」、それはまたその「方法・内容」から知ることができます。神は世を、どのように、どうすることを通して愛されたの でしょうか。聖書は語ります、神は「ひとり子を賜ったほどに」世を愛された。「神のひとり子」、それはあのイエス・キリストのことです。あのお方は、「神 の独り子」であられたのです。神様にとって一番大切な方でした。私たちの場合でも、もし私が自分の一番大切なものを与えることができる相手がいるとするな ら、私はその人をこの上なく愛しているのです。神は、この最も大切な方を「世」に与えることによって、その愛を示されたのです。でも、そうするためには、 どれほどの覚悟が必要だったことでしょうか。先に見たように、「世」は神を信ぜず、神に敵対している者たちがいっぱいいる場です。そんなところに、人は普 通一番大切にしている人を送りはしません。何をされるか、わかったものではないからです。でも神は送りました。しかも決定的に送ったのです。ここの「お与 えになった」は、現在完了形で書かれています。「送ってしまった」のです。都合が悪くなったらすぐに取り戻そうとか、そんな「ひも付きの愛」ではなしに、 たとえどうなってもそれを引き受けようとの覚悟のもとに、完全に手放し、送ってしまったのです。だから、あの「愛」も、決定的過去の形で書かれています。 「愛された」、取り消しようも変えようもなく、「愛する」と決めてしまわれた。
 そのようにして来られたイエスは、まさにこの神の愛を体現し、それをもって人々を愛し続け、それによってこの世を生き、生き抜かれました。イエスは一人 の人間として、その中でも最も苦しむ人たちと共に歩み、共に生き、ついに当時「最低」と呼ばれる十字架刑に処せられ、無実の罪に陥れられて殺され、死なれ ました。このイエス様の生涯を知った時の衝撃を、ある方がこんなふうに語っています。この方は、一時期路上生活をされたことがある方です。「ある日の礼拝 でこんな讃美歌を歌った。キリストを見よという讃美歌だったと思う。キリストは友なき者の友となった。食事する暇もなく虐げられた人を訪ねた。十字架の上 に上げられても、敵を許したという歌だった。救い主は苦しむ者の味方で、どん底の苦しみを自分も味わったという。これには本当に驚いた。そんな救い主があ るものか。オレはこんな救い主を信じる奴らは馬鹿じゃないかと思った。 オレも人並に辛いことがあった。―――オレは少年院にも入ったし、刑務所にも行っ た。今ではとうとうホームレスにまで落ちぶれた。こんなオレを大事にしてくれる人はいないと思っていた。ところが、オレの友になってくれるのがキリスト だって言うじゃないか。―――こんな神様なら信じたいと思った。それが洗礼を受けた理由だよ。」(鈴木文治氏による)「馬鹿じゃないか」、確かにそうで す。神の立場や地位を投げ捨てて人間となり、自分には何の得にも利益にもならないのに、苦しめられ、弱く、小さくされている人たちを主に助けようとし、そ の果てに人間の中でも「最低の死に方」という最期を遂げる。それは「馬鹿じゃないか」と言わせるほどの愛、でもそれこそが「ほかにない神の愛」なのです。

 さらにまた「ほかにない愛」「それほどの神の愛」、それはその「目的」によって知らされるのです。神は独り子イエスによって、世を、この罪人なる私たち を愛されました。何のために? 「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」それは、「世」とそこに住む者たちに「永遠の命」を 与えるためだ、と言うのです。「永遠の命」とは、一言で言って「神と共に生きる命」です。私たちは「永遠の命」というと、この「私」が「いつまでも天国で 安楽に生き続ける」というようなことを考えますが、それは聖書から言ったら「自己中心の命」に過ぎません。聖書で「永遠」なるものは、神様だけです。だか ら、「永遠の命」というのは、この永遠なる神様と共に神様を信頼し神様に従って生きる命なのです。この命こそは、死にさえも勝利して永遠に至るのです。
 あの「愛」とは、御子を十字架につける「世」に対して、「まあ、仕方がない、許してやろう、なかったことにしてやろう。ただし、もう金輪際あなたとは付 き合うのはごめんだ。今後は一切私と関わらないでください」などという消極的なものではなかったのです。むしろ、この罪人たちをまったく新しく創り変えて 新しい命を与え、神と共に生きる者とし、いつまでも永遠に彼らと共に生きようとする、という実に大きくはるかな目標をこそ、目指していたのです。だから神 は、そんな私たちに対して、あの十字架に死なれたイエス様を復活させられました。「復讐の鬼」としてではなく、「愛と赦しの救い主」として、です。復活の 主は、ご自分を見捨てて逃げ去った者たちに自らを現し、彼らを完全に赦しつつ、神と共に働く者として新しい命と出発を与えてくださいました。このお方イエ スは今も生きておられ、私たちと共に生きてくださるのです。この神の愛の力によって、私たちもまた生きることがゆるされる、私たちもまた愛をもって互いに 愛し、共に生きることができるのです。「聖書の救いは、単に罪が許されて天国に行けるだけではありません。私たちにとってかけがえのない地上の一日一日、 この一日一日を、アガペーの愛の回復を受けて、朝毎に夕毎に、イエス・キリストの十字架と復活の救いによる命を受けて、真実な愛をもって家族を愛し、真実 な愛をもって恋人を愛し、真実な愛をもって隣人を愛し生きて行くことができます。」「その人のために死ぬということは、日常的に言い直せば『生きること』 です。最後の一息まで命を注いで、その人を幸せにするために生きる。妥協をしないで勇気をだして、命のある限り、すべてを注いでその人のために生きる」こ とです。(岸義紘、前掲書より)
 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」決して「ほかにな い愛」です。「馬鹿じゃないか」というほどに愛する神、死の淵を超えて、私たちの底知れない罪をも引き受け乗り越えて、どこまでも私たちと共に生きる神、 この神がおられます。この神が、この愛であなたを愛しておられます。クリスマスとは、まさにこの神の愛がイエス・キリストの誕生によってはっきりと現実に 表され、語られ、与えられたその日なのです。またこの神の愛、「ほかにない愛」「これほどの愛」こそが、私たちにこの世とそこに生きるすべての人々、また この世界で起こるあらゆる出来事を正しく見、その本質を見極め、その中でより正しくまた幸いに生きる鍵を与え、そこでの葛藤・働きの中でも勇気と希望と愛 をもって語り、行動し、生きて行く力を与えてくださるのです。

(祈り)
二千年前あのクリスマスの出来事において、ひとり子を賜ったほどに、世を、私たち一人一人、すべての者を極みまで愛された神よ。
 深く、高い、そして広い愛、イエス・キリストによる愛、私たちのために人間になり、十字架にまで赴く愛、「馬鹿じゃないか」と言われるまでの愛。決して 「ほかにない愛」、神の愛。この愛を心より感謝いたします。どうかこの愛を信じて、受け入れ、それによって生かされ、共に生きることができますよう助け、 お導きください。私たち一人一人と教会を、このあなたの愛を、身をもってこの世において表し、指し示す証人・しもべとして送り出し、導き、お用いくださ い。
ベツレヘムの飼葉桶の幼子、世の真の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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