神の良き力、死を滅ぼす力
             
                                  
イザヤ書第25章6〜9節


 アドベントは、「待つ」季節です。それは「クリスマスを待つ」ということですが、その本質は別のところにあります。「プレゼントを待つ」ことよ りも、「お祝いの楽しみを待つ」ことよりも、「神の大きな御業を、救い主の到来を待つ」のです。まもなく自分に赤ちゃんが生まれることを天使から告げられ たマリヤは、こう歌いました。「今からのち世々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう。力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださっからで す。」(ルカ1・48〜49)クリスマス、それは「神の大きな事を待つ」ことなのです。マリヤが喜び歌った神は、「大きな事をしてくださる、力ある方」な のです。
 皆さんは、その「神の力」「神の良き力」って、どんな力、どれくらいの力だと思いますか。それは、私たちの理解と想像を超える力です。それらを完全に超 えている力、俗語を使って言うなら「ぶっ飛んだ」力です。それは、今日のイザヤ書の言葉においては、「死を滅ぼす力」です。8節にこのようにあります。 「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。」このようなこと、「死を滅ぼす力」など ということは、私たちの理解を超えています。理解できないことは、想像することもできません。
 死は、いつも私たちの前にあリます。死は、いつか必ずあることとして、いつも私たちの前にあります。私たちの日々、私たちの一生は、必ず死をもって終わ ります。死は、恐ろしい、究極の限界として、私たちの前に立っています。だから、私たちがするすべてのことは、死を前提として考えられ、行われています。 私たちは、いつも死に直面しています。それは、私たちの生、生き方に計り知れない影響を及ぼしています。「死の意識があって、初めて生の不安も出てくる。 それは、人があまりにも束の間しか生きられず、生を十分にもちえず、生から引き裂かれる不安である。そのことは、生の欲望や所有欲へ導く。生のただ中で死 を感ずる者は、生きたいと願う。―――不死の神々を仰ぎ見て、そのようにありたいと願う。この貧しく、傷つきやすく、死ぬべき人間の性(自然)を捨てて、 神のように豊かで、健康で、傷つかず不死でありたいと願う。人があるがままのものでなく、なにか別のものにならねばと欲する。これが生を破壊する罪の始ま りである。」(モルトマン『神の到来』より)
 だからこそ、死は脅しとなります。「人間は他の人間の死ぬべきことを知って、殺人、死の脅し、死刑、戦争、大量虐殺の技術を造り出す。人は自ら死の意識 や生の不安を知るゆえに、他者を殺すといっておどすことができる。」(同上)そうして、人が人の上に力を振るって、思い通りに動かすために、死が利用され るのです。それが私たちという者であり、私たちの生きている社会であり、世界なのです。そのような私たちは、「死を滅ぼす」、「死が滅ぼされる」などとい うことを、理解することも想像することもできないのです。

 しかし、そういう者である私たちに向けて、今この聖書の言葉、神の言葉が語られ、与えられています。「主はとこしえに死を滅ぼし」と。これは一体どうい うこと、これは一体どういう言葉なのでしょうか。この預言者イザヤの言葉は、神の民イスラエルの苦難の時の慰め、また希望の言葉として、イスラエルの民に 語られ、約束され、与えられたのでした。
 そもそもイスラエルとはどんな民、どんな人々、どのような生涯、どのような歴史を生きてきた人々であったのでしょうか。
 何より、争いと戦争の中で生きてきたイスラエルでした。貧しさと恐れの中で生きてきたイスラエルだったのです。貧しさのゆえに、食べることにいつも事欠 き、いつも飢えの恐れと不安の中で震え、傷つき、多くの者たちが死んでいったのです。特に、このイザヤの言葉が語られたのは、「バビロン捕囚」の前後で あったと考えられますが、これは特にそういう時代でした。「エレミヤ哀歌」と呼ばれていた『哀歌』は、その様子を赤裸々に描き出し、歌っています。「わが 目は涙のためにつぶれ、わがはらわたはわきかえり、わが肝はわが民の娘の滅びのために、地に注ぎだされる。幼な子や乳のみ子が町のちまたに、息も絶えよう としているからである。彼らが、傷ついた者のように町のちまたで、息も絶えようとするとき、その母のふところにその命を注ぎだそうとするとき、母にむかっ て、『パンとぶどう酒とはどこにありますか』と叫ぶ。」(哀歌2・11〜12)
 このような人々に向かって、今主なる神は語り、約束なさるのです。「万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものを持って祝宴を設け、久しくたく わえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。」

 また、そのような苦しみの中でも、あるいは苦しみ多い歩みだったからこそ、彼らイスラエルは神を信じることができませんでした。この「信じる」とは、 「何か宗教を信じる」というような意味に留まるものではなく、「信頼する」、「神を心から信頼し、それに基づき、その神への信頼にふさわしい生き方をす る」ということです。このことをまさにイスラエルはできなかったのです。彼らは神への無理解と不信仰の中で生き続けてきました。預言者たちを通して語られ る神の御言に聞き従おうとはせず、自分たちに繁栄と快楽、安全・安心を約束する異なる神々、偽りの偶像の神々を求め信じたのです。また、そのような生き方 のゆえにこそ、自分たちの間のお互いの関係を正しく生きることができず、弱い者・貧しい者、寄る辺なき者たちを助けず、見捨て、死に追いやり、社会正義と それにふさわしい倫理とを顧みず、時には踏みにじって生きてきてしまったのです。預言者イザヤはかつて語りました。「それゆえ、わが民は無知のために、と りこにせられ、その尊き者は飢えて死に、そのもろもろの民は、かわきによって衰えはてる。」(イザヤ5・13)それはあたかも、彼らの顔に「濃い色の分厚 い覆い・ベール」がかかってしまっていたかのようだったのです。そして、それはただイスラエルだけのことではなく、「すべての民」が死の恐れと生の不安の ゆえに、選び歩んで来てしまった生き方だったのです。
 しかし、そのイスラエルの人々に向かって、今主なる神はこう語られるのです。「また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のお おっているおおい物とを破られる。」今や神は、彼らの思いと生き方を変えてくださいます。彼らは、神との間の隔たり、隔てを取り除いていただき、心から神 を信頼し愛し、だからこそお互いをも愛して生き、お互いを大切にし、生かし合うような社会・世の中・世界を造ろうとして生きるようになるのです。
 さらに、だからこそイスラエルは、溢れ出る涙と、どん底の辱めの中で生きてきました。人間としての誇り、喜び、自信、希望、自分や他者を大切なかけがえ のない人として思い、信じて生きることを、傷つけられ、壊され、奪われて生きてきたのです。「わたしはすべての民の物笑いとなり、ひねもす彼らの歌となっ た。彼はわたしを苦い物で飽かせ、にがよもぎをわたしに飲ませられた。彼は小石をもって、わたしの歯を砕き、灰の中にわたしをころがされた。わが魂は平和 を失い、わたしは幸福を忘れた。」(哀歌3・14〜17)その果ての死であり、呪いであり、絶望だったのです。しかし今、主なる神はイスラエルに向かって 御言葉を語り、この驚くべき約束と将来、それに基づく揺るがない希望を与えられるのです。「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐ い、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは、主の語られたことである。」

 「死を滅ぼす力」、それはこの主なる神の愛の力であり、その愛を捨てず貫いて、最後までイスラエルと共に生き、行こうとされる神の真実の力なのです。「死を滅ぼす力」、それはこの神の愛と真実の力の究極の形、決定的な現れ、その最終的な勝利なのです。
 「死を滅ぼす神」、この神の力は、今や私たちに完全に表され、語られ、与えられました。それが、神の御子、救い主イエス・キリストの復活です。「神はそ の力をキリストのうちに働かせて、彼を死人のうちからよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上にお き、また、この世ばかりではなく来たるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。」(エペソ1・20〜21)「キリストはすべての 君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。―――最後の敵として滅ぼされるのが、死である。」(Tコリント15・ 24,26)
 この神、このお方が、イスラエルに対して、また私たちに対しても、このように現れ、このように語り、このように約束してくださいました。そのとき、人は このように答えるのです。「その日、人は言う、『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主であ る』。わたしたちは彼を待ち望んだ。」「死を滅ぼす神」、それは「われわれの神」、まさにクリスマスの神、「インマヌエルの神」、われらと共におられる 神、イエス・キリストの神なのです。
 それでもこの言葉は、いまだに、理解を超えた言葉、想像を超えた言葉として与えられています。しかし、そんな私たちにも、イエス・キリストは復活し、共 にいてくださり、私たちに絶えず語りかけていてくださいます。そんな私たちにも、この不思議な言葉が、ただ恵みとして、約束として、希望として与えられて いるのです。「主はとこしえに死を滅ぼし」。

 この不思議な言葉、私たちを超えている神の言葉、死を滅ぼす神の言葉を聞くとき、私たちはどのようなものとされるのでしょうか、私たちはどんな道を歩み、どんな生き方をするようにされるのでしょうか。
 そのとき、きっと私たちは、本当の意味で「命を大切にする者」とされるのです。「死を滅ぼす神」、このお方を知るとき、私たちは「死」を絶対化しないと 同時に、「生」「生きる」ことをも絶対化しない。この「生」、この命を、神が与えてくださった恵み、恵みそのものとして、それをただ自分のためにだけでな く、神のため、隣り人がより良く生きるために、その幸いのために大切に用いていく、そういう者とされるのではないでしょうか。かつて私が書いた言葉をご紹 介したいと思います。「『新天新地』においては、『泣く声、叫ぶ声がない』からこそ」。ここに、今日私はもう一言加えたいと思います。「『新天新地』にお いては、『泣く声、叫ぶ声がない』、そして『主はとこしえに死を滅ぼし』てくださるかからこそ、その日を信じ待っているからこそ、私たちは今、この時、 『喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く』(ローマ12・15)生き方へと促されています。」(『聖書教育』2014年10・11・12月号より)
 また、この「死を滅ぼす神」と出会うとき、私たちとその生き方を大きく特徴づけることは、「喜びと楽しみ」です。「終わりの時」、「その山で」私たちは きっとこうするだろうと、預言者は語ります。「これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう。」「ドイツにおいて奉仕 女と呼ばれる婦人たちが、多方面で献身的な奉仕の働きをしている。主を愛し、人に仕えることを生涯貫くことを志した婦人たちである。彼女たちは年老いると なお可能な働きに励みながら死に備える。この時期を『祭りの前夜』と呼ぶという。終りの日に主は死を滅ぼしたもう。主イエスにおいて死の滅びを信ずる者 は、今を『祭りの前夜』として生きるのではないか。」(渡辺正男、『説教者のための聖書講解 釈義から説教へ イザヤ書』より)
 最後に、古代の神学者ヨハネス・クリュソストモスの説教をご紹介して終りたいと思います。「さあ、心から神を愛する人々よ この美しく光り輝く祭を楽し もう さあ、賢いしもべたちよ それぞれの喜びを胸にたずさえ、主ご自身の歓喜に入ろう。 (中略) この宴会の主人は実に寛大なんだよ 最後の者も最初 の者と同じように迎えてくれる 第十一時に来た者も、第一時から働いた者と同じように憩わせてくれる。後から来た者も憐れみ、最初から来た者も忘れはしな い (中略) さあ、だから、この主ご自身の歓喜に入ろう! (中略)  誰も、もう罪のために泣くな 主の墓から赦しが輝き出たのだから 誰も、もう死を恐れるな 救世主の死が私たちを解き放ったんだから」。(松 島雄一『神の狂おしいほどの愛』より)

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエスを死の中から勝利をもって復活させられた神よ。
 苦難と悲しみまた絶望の道をずっと歩いてきたイスラエルの民に、あなたは語りかけ、約束してくださいました。「主はとこしえに死を滅ぼす」と。また、御 子イエス・キリストの復活によって、この私たちにも語ってくださいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」「俺は、人を本当の幸せに導く。 俺は、人が本当に幸せになるなり方を教える。俺は、人を幸せに活き活き生かす。」(山浦玄嗣訳)
 このあなたと共に生きること、この救い主イエスと共に生きることは、死を乗り越えて生きることであり、生を感謝と喜びと希望とをもって生きていくことです。どうかこの道を私たち一人一人に歩ませ、この良き言葉を教会に語らせ、証させてください。
まことの道、真理また命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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