インマヌエル―――クリスマスの問いかけ
             
                                  
イザヤ書第7章1〜4、10〜17節


 私たちは、イエス・キリストの誕生の出来事、クリスマスに向けて準備をするアドベントの期間を共に過ごしています。「アドベント」というのは、「待降 節」と言って、「クリスマスを待つ季節」のことです。クリスマスというのは「待つ」ものなのですね。聖書を読みますと、旧約聖書の人々は何百年も救い主の 誕生をじっと待ってきたのだということがわかります。ですから、多くのクリスマスに関する新約聖書の言葉は、「このイエスという方の誕生が、実は旧約の昔 から多くの預言者などの人々によって語り告げられ、ずっと待たれてきた」と記すのです。
 ところで皆さん、そのイエス様には別名があったことはご存知でしょうか。「そんな」と思われるかもしれませんが、実はあったんですね。そのイエス様の別 名とは、「インマヌエル」です。マタイの福音書の最初に「この方(イエス)は、インマヌエルと呼ばれるであろう」と語られています。それは、「神が我々と 共におられる」「神我等とともにいます」という意味です。そのイエス様の別名「インマヌエル」、それが最初に出て来た箇所が、今日取り上げましたここなの です。

 「クリスマス」と言うと、どういうイメージを抱くでしょうか。私たちはよくこんなイメージを浮かべます。「うきうきする気分、暖かい家、楽しいおしゃべ り、わくわくするプレゼント、ほっとできる満ち足りたひと時」。ところが、このクリスマスを指し記す言葉は、それとは全く違った状況の中で語られました。 「ユダの王、ウジヤの子ヨタム、その子アハズの時、スリヤの王レヂンとレマリヤの子であるイスラエルの王ペカとが上ってきて、エルサレムを攻めたが勝つこ とができなかった。時に「スリヤがエフライムと同盟している」とダビデの家に告げる者があったので、王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺 した。」(1〜2節)それは戦争の噂と不安の渦巻く時であったのです。今から2千7百年も前のユダの国、今でいうとパレスチナの地が舞台です。イスラエル の国はもう全盛期とはほど遠い衰えの道を進んでいました。そもそも、国が二つに分裂し、北のイスラエルと南のユダになってしまっていたのです。
 そこに恐ろしい試練がやって来ました。世界征服をねらう北の大国アッシリアが歴史に登場して来たのです。さあ、どうするか。人間的・常識的に考えれば、 道は「二つに一つ」です。強い相手に、弱い国が束になり連合して戦うか、それともあきらめて強い国の子分となり「それでも生き残ればいいさ」と生きるの か。ユダの兄弟国北イスラエルは、束になって戦うことを選びました。北隣の国スリヤなどと同盟を結んでアッシリアに対抗しようとしたのです。それで、この ユダの国にも「仲間に入らないか」と持ちかけてきたのでした。
 ユダの王アハズは迷っていました。彼はどちらかと言うと、強いアッシリアになびいていこうかなと思っていたのです。それで、同盟の申し出を断りました。 さあ大変、怒った同盟軍は、ユダの都エルサレムを責め囲んだのです。そこでこう語られているのです。 2「時に『スリヤがエフライム(北イスラエル)と同 盟している』とダビデの家に告げる者があったので、王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した。」彼らは、もう自分たちを救うものは大きな 強い国アッシリアしかない、と思うようになっていました。もう何が何でもこの方向・この道を行くしかないと、なだれを打つように走り始めていたのです。
 皆さん、これがクリスマスの言葉が語られるべき状況です。それは、まさにこの世の争いと葛藤と不安の真っ只中です。そこでは「力と常識と計算しか通用し ない」と思われている、心は木々のように揺れ動き、生き方は不安と恐れに駆り立てられて、自己中心となり他の人を顧みることもなく、誰も彼も我を忘れてあ れこれと走り回って、でもどこへ行くのか全く分からない、そんな状況、そんな世の中なのです。

 そのような世の中と、そのような人々に向かって、今神の言葉は来るのです。預言者イザヤが神によって、王アハズのもとに遣わされるのです。その時王は、 都の貯水池と水路を見ていました。これから来るであろう戦いに備えて、最も大切と思われる水の補給路を確認しようとしていたのです。この世的に考えるなら ば、彼は有能な知恵ある王でしょう。しかし、そこにこそ落とし穴があったのです。このことを示すためにこそ、預言者イザヤはそこで王と出会わなければなり ませんでした。
 イザヤは王に語ります。「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。レヂンとスリヤおよびレマルヤの子が激しく怒っても、これら二つの燃え残りのくす ぶっている切り株のゆえに心を弱くしてはならない。スリヤはエフライムおよびレマルヤの子と共にあなたにむかって悪い事を企てて言う、『われわれはユダに 攻め上って、これを脅かし、われわれのためにこれを破り取り、タビエルの子をそこの王にしよう』と。主なる神はこう言われる、このことは決して行われな い、また起こることはない』。」(4〜7)今、あなたを攻め、脅かしているアラムと北イスラエルの二人の王は、あなたを愛し守っている神の前に取るに足ら ない「燃え残りの切り株」のようなものだ。だから、彼らを恐れないで、この神をこそ信頼しなさい。これは暗に、だからいかに人間的に強かろうと、神でない アッシリアの力に頼ってはならない、神にあって中立を貫けという勧めをも含んでいるのです。しかしアハズ王は、このイザヤの言葉を軽んじて信じませんでし た。あまりに政治的現実を知らない非常識な理想論のように感じたからです。
 それならばと、恵み深い神はさらにイザヤによってこう提案されます。「主は再びアハズに告げて言われた、『あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府 のように深い所に、あるいは天のように高い所に』。」「そんなに信じられないのなら、信じるためのしるし・証拠を求めてごらんなさい。わたしはそれを与え よう。どんな所に、どのように求めても、わたしはそれを与えよう。なぜなら、わたしはあなたの神だからだ。」実に忍耐深い、気前の良い神様です。しかし、 アハズ王はこのような答えを返しました。「わたしはそれを求めて、主を試みることはいたしません。」いかにも信心深そうな答えですが、王の本音は別にあり ます。「わたしは、神を信じるためのしるしなどはいりません。アッシリアの人間的な助けで間に合っています。むしろ、そちらの方が確かで、頼りになると思 います。」

 これほどの頑固、これほどの不信に対して、神はどうされるのでしょうか。神は今こそしるしを与えてくださるのです。アハズが求めたのでない、求めようと もしなかった、神ご自身のしるしを与えてくださるのです。信仰へと決断できないアハズ王、信心深そうな顔をしながら実は人間的な力と助けに頼ろうとするア ハズ、しかしそんなアハズと彼に代表されるユダの民に向かって神はなおも一方的に恵みと救いのしるしを与えようとしてくださるのです。それこそがインマヌ エルの言葉だったのでした。それは、アハズだけではない、私たちすべての人間に対する「真っ向勝負」の語りかけなのです。「そこでイザヤは言った、『ダビ デの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与え られる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。』」
 神はこう言われます。「あの女の人を見よ。」この「おとめ」とは誰でしょうか。この言葉はよく「処女」という意味に取られますが、元の言葉は必ずしもそ うではなく、むしろ一般に「結婚している若い女性」を指すようなのです。それは、きっと王も預言者イザヤもよく知っていた女性だったと思います。王の妻 か、預言者の妻か、あるいは二人が話していた所をふと通りかかった女の人かもしれません。いずれにしても、「あの女の人」と言えばすぐわかったのです。そ の人はお腹に子どもを宿していて、もうすぐその子が生まれそうでした。その子が、「インマヌエル」「神、われらと共にいます」ということのしるしとなる。
 なぜならば、こう言われます。「その子が悪を捨て、善を選ぶ事を知ることになって、凝乳と、蜂蜜を食べる。それをこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る 前に、あなたが恐れている二人の王の地は捨てられるからである。」その子が成長して物心ついて善悪の区別ができるようになるまで、だから決してそんなに長 い年月ではありません、数年のうちのことです。その短い間に、王アハズよ、あなたがたが恐れている二人の王は、神によって倒されてしまうのだ。こうして、 これから生まれて来る赤ちゃんは、「インマヌエル」、「神様が私たちと共にいてくださる」ということのまぎれもないしるしとなるのだ。
 「この神の愛と助けをあなたは信じるのか」、そう問われたのです。でも、アハズ王とユダの人々はこれを信じることができませんでした。やはり、アッシリ アの力になびき頼っていったのでした。その時、あの救いの約束は反転して、裁きと罰のしるしとなってしまうのです。「主はエフライムがユダから分れた時か らこのかた、臨んだことのないような日をあなたと、あなたの民と、あなたの父の家とに臨ませられる。それはアッスリヤの王である」(17節)。「救いの 神」と頼んだアッシリアは、実はユダにとって「呪いの源」となってしまうことになるのです。これが人間の深い深い罪、不信仰と不真実なのです。

 この子の名前は「インマヌエル」、それは神様の私たちへの問いかけであり、挑戦です。「神我らと共にいます」、あなたはこれを信じるのか、それとも信じないのか。クリスマスとは、この神様からの問いかけを受け、それに答えて行く時、季節なのです。
 「インマヌエル」、それはイエス・キリストを指し示す言葉です。「神我らと共にいます」、本当に神は私たちのところに来られました、私たちと全く同じ人 間イエスとなって。イエスは「しるし」以上の方です。「神が我々と共に」という現実そのものを私たちにもたらし、与えてくださったのです。
 それはどれほどでしょうか。主イエスによって、神はどれほど私たち人間と共にあろうとしてくださるのでしょうか。それは「どこまでも」です。パウロはこ う書いています。「キリストは不信心な者のために死んでくださった。」「不信心な者」、それはあの王アハズであり、そしてこのわたしであり、あなたなので す。その信じない者の罪を負って、イエス・キリストは十字架に死に、私たちのすべての裁きと呪いを引き受けて「陰府にまで下った」のです。また、キリスト は私たちを縛り付ける死と罪に勝利して復活し、「天にまで」昇られたのです。本当に「陰府から天までどこにでもインマヌエル、どこまでも神我らと共にいま す」。このイエス・キリストによって、神は今私たちに問いかけられ、チャレンジされます。「あなたはこのインマヌエル、『神われらと共にいます』というこ とを信じるか、それを信じて、神と隣人とのために愛をもって共に生きようとするか」。

 「インマヌエル」、神様の問いかけと挑戦に応えるというのは、どういう生き方なのでしょうか。
 「さて、私が歩んでいる止揚学園でも―――クリスマスには静かな礼拝を守っています。その中で、仲間の入園している人たちと職員たちとで心を合わせて劇 をしています。昨年は『桃太郎』の劇をしました。」皆さんは、「桃太郎の歌」というのをご存じでしょう。「桃太郎さん、桃太郎さん」で始まるあの歌です ね。これは、実は大変に好戦的な歌だったのです。戦争で敵を「殲滅」すること、「敵」を打ち負かして彼らから略奪することを歌い、喜んでいるわけですね。 ところが、止揚学園の「桃太郎」はこうだというのです。「その劇の中に『鬼を退治しよう』という台詞があります。知能に重い障害をもった仲間の克子さんは いくら練習をしても、それが言えず、『鬼を大事にしよう』と言ってしまうのです。私たちは困り、皆で相談した結果、『クリスマスは戦争をしたり、人の生命 を侵す日やなく、優しい心の日なんや。台詞を“退治しよう”から“大事にしよう”にして、鬼と桃太郎が仲良くする場面に変えようや。それも止揚学園らしく て良いやないか』―――また、おばあさんが桃太郎にきび団子を渡して、『このきび団子を食べて強くなり、鬼を退治しなさい』と話すところがあるのですが、 おばあさん役のきよ子さんが、『そんなん、嫌や。鬼さん可哀相』と言って、どうしてもその台詞を言ってくれません。そこで『このきび団子を鬼さんと仲良く 食べようね』と台詞を変えると、きよ子さんはニコニコ笑顔になり、明るい声で演じてくれました。知能に重い障害をもった仲間たちは、自分が現代の社会で、 人間として疎外されている悲しみ、寂しさを持っていて、(誰も切り捨てられない、仲の良い社会があったら良いなあ。鬼さんかて皆から捨てられたら悲しいや ろう)と考えたのだと思います。―――でも、よく考えれば、クリスマスはイエスさまの愛に包まれ、皆が優しい心で相手のことを思いやり、仲良くする日で す。」(福井達雨『見えない言葉が聞こえてくる』より)
 「インマヌエル」、「神我らと共にいます。神様からの問いかけと挑戦は、この憎しみと争い、戦争と圧迫・迫害に満ちた世界の中で、あなたがたは神を信頼 して生きるのか、神に創られ、愛され、生かされた「我ら」として、互いに愛を持って共に生きるのか」という問いかけであり、恵みによる招きなのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 不信で頑ななアハズ王に「神われらと共にいます」のしるしが与えられました。あなたは今私たちにもこのクリスマスにおいて、まことの「インマヌエル」、 「神われらと共に」そのものであるお方イエスを生まれさせてくださいました。あなたは私たちすべてに向かって、このイエス・キリストによって「神我等とと もにいます」と語り、問いかけ、挑み、招かれました。この真実な約束を、私たちがどうか改めて信仰をもっていただき、その恵みによって生きることができる ようにしてください。絶えず揺れ動き、繰り返して不信に落込む私たちを、あなたの真実な御言葉によって引き上げてください。
 どうか、この戦争と抑圧・迫害の世界にあっても、私たちにもイエス・キリストによる信仰と希望を与えて、このあなたの約束を信じ、私たちも互いに愛を もって共に生きる冒険へと、小さい一歩、しかし確かなこの一歩を踏み出させてください。一人一人と私たちの教会が、あなたの御言葉と約束の証人として、こ のアドヴェントまたクリスマスの時期にも遣わされ、用いられますよう切にお願いいたします。
世のまことの救い主、本当にすべての人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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