われわれは共に立とう―――耳を開かれ、共に立つしもべによって
イザヤ書第50章4〜11節
今日は、「イザヤ書」の「第三のしもべの歌」です。「しもべ」とは誰でしょう。「しもべ」とは、第一には、この「第二イザヤ」と呼ばれる預言者
自身です。この人が神から与えられ、預かり、語るように命じられたのは、専ら慰めと救いの言葉でした。突然神さまの語りかけがその預言者に響きました。
「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(40:1)。彼が受けた神からのメッセージは、「帰還の約束」でした。つまり、長年の捕囚に苦しんできたユダの民が、故
国の都エルサレムに帰る道が開かれ、帰還することができるという内容です。主なる神は「彼」に語りかけました。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」、「苦役の
時は今や満ち、彼女の咎は償われた」(40:2)、それは長かったバビロン捕囚がもうまもなく終わり、塗炭の苦しみをなめ、どん底をはい回るように生きて
きたイスラエルの人々の苦しみもまた終わるという知らせです。
しかし、実はそれを語ることは決して簡単ではなかったのです。「えっ」と意外に思われるかもれません。たいてい旧約聖書の預言者たちは、「災いと裁きの
言葉」を語ります。人びとの生き方や行いが悪く、神の御心にかなわないことを指摘し、告発しつつ、「このままでは、神の厳しい裁きが下り、ひどい苦しみと
悲しみがやって来る」と語るのです。確かに、そういう言葉を語ることは勇気が必要で、聞いてもらうのも難しいだろう。でも、「慰めと救いの言葉なら」と思
わないでしょうか。「慰めと救いの言葉なら、人々は預言者を歓迎し、喜んで聞いてくれるだろう」と思われるでしょうか。いいえ、そんなことはありません。
だからこそ、決して簡単ではないのです。
「慰めと救いの言葉」。でも、何の悩みも問題も感じていない、「そんなものはない」と思っている人は、そもそも「そんな言葉は必要ない」と思うでしょ
う。よく人に伝道しようとすると、こう返されることがけっこうあります。「けっこうです」。「大丈夫です」などいうのもあります。「自分は何も問題ありま
せん。大丈夫です。だから、そんな言葉はいりません」ということではないでしょうか。また逆に、ひどい苦しみの中でずっと苦しみ続け、ひどく深く傷つき、
多くのものを奪われ失った人々は、かえってその「慰めとく救いの言葉」を受け入れられず、聞いてはくれないのです。「こんな苦しみの中にずっといるのに、
そんな慰めとか救いとかいきなり言われても、信じられない。」「そんなことを言って、もし外れたら、責任取れるのか。」「そんなお花畑みたいな、現実離れ
したことを言って。」「そんなものより、お金をください。」
まさにその通りになりました。「しもべ」、預言者は、神の「慰めと救いの言葉」を人々に語って、その結果ひどい苦しみと侮辱を受け、苦難の道を歩くこと
となったのです。6節に、「わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をか
くさなかった」とあります。人々を「しもべ」の背中を鞭や棒で打ちたたき、彼のひげを抜き、つばきを吐きかけたのです。「ひげを抜く」というのはの、最高
のと言うか、最低の侮辱の方法です。神の「慰めと救いの言葉」の言葉を語る預言者に対して、「そんなばかなことを言いやがって」と人々は暴力をふるい、辱
めの言葉と行動をもって、彼を侮辱し、傷つけ、地に打ち倒したのでした。「そんなばかな」と思うかもしれませんが、ここにこそ、私たち人間のどうしようも
ない罪の姿と本質が現れているのではないでしょうか。
この「しもべ」、預言者の姿を思う時、あのイエス・キリストの姿が私たちの心に浮かんで来ます。「兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の内に連
れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、ばんざい』と言って敬礼しはじめた。また、葦
の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした。こうして、イエスを嘲弄したあげく、紫の衣をはぎとり、元の上着を着せた。それから、彼
らはイエスを十字架にかけるために引き出した。」(マルコ15・16〜20)イエスが宣べ伝えたのは、まさに「よき知らせ」「福音」でした。「神の国は近
づいた」、「神はすべての人を、あなたを愛している」。しかし、反発、反対する人は多かったのです。ある者はイエスを妬み、ある者は怒り、ある者は憎ん
で、その結果イエスは苦難の道を歩み、ついにどん底の十字架にまでつけられ、侮辱と呪いの死を受けさせられたのでした。
しかし、「しもべ」のそんな道を、主なる神はあらかじめ知っておられました。そして、常に知っていてくださるのです。だから神は、その使命を彼に与えら
れた時からずっと、日々に彼を慰め、力づけ、訓練し、強めて来られたのでした。「主なる神は教を受けた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助
けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。主なる神はわたしの耳を開かれた。」「『疲れた者』と
は、何らかの重荷を担うことに疲れた者、またあるいは、罪、災い、試練の重荷に耐えかねている者かもしれません。―――そうした務めを果たすことができる
ように、主はご自身のしもべを『朝ごとに』『呼びさまし』ます。―――『朝ごとに、毎朝、来る日も来る日も』という意味です。そのようにして、主はしもべ
を、そしてしもべの耳を『呼びさます』―――『呼びさます』とは、『耳を開かせる』と同義だということです。」(空知太栄光キリスト教会ホームページ「牧
師の書斎」より)
そのようにして神は、「しもべ」を再び立ち上がらせ、再び人々の前に立ち、語ることができるようにしてくださいました。それで「しもべ」は、迫害と苦し
み、侮辱を受けても、それに耐え、持ちこたえられるようになったのです。「わたしは、そむくことをせず、退くことをしなかった。わたしを打つ者に、わたし
の背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。」なぜなら彼は、あの主の慰めと励まし
を決して忘れることができなかったからです。「しかし主なる神はわたしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じることがなかった。それゆえ、わたしは顔を火
打石のようにした。わたしは決してはずかしめられないことを知る。」
さらには「しもべ」は、神による救いと将来を待ち望むのです。「わたしを義とする者が近くおられる。だれがわたしと争うだろうか。われわれは共に立と
う。わたしのあだはだれか。わたしの所へ近くこさせよ。見よ、主なる神はわたしを助けられる。だれがわたしを罪に定めるだろうか。見よ、彼らは皆衣のよう
にふるび、しみのために食いつくされる。」「しもべ」は、「共に立とう」と言います。それは、彼の言葉を聞く人々に向けての連帯と共感の呼びかけです。
「われわれは共に立とう」、それはまず何より、「われわれは神と共に立とう」という呼びかけです。この「しもべ」が知らされ、知ったことは、「主なる神
というお方は、苦難の中でこそ私たちと共にある、しかも使命に生きようとする苦難の中で私たちと共にいてくださる方だ」ということでした。様々な苦難の中
で、私たちは時にしばしば、自分は孤独だ、自分は見捨てられていると感じるかもしれません。しかしそうではないのだ、と言われているのです。主なる神は、
奴隷のどん底にあった弱き民イスラエルと共にいてくださった。また同じ神は、イエス・キリストの神として、あの十字架において、苦難においてこそ私たちと
共にいてくださる。「復活の主イエスの命にあずかることは、きれいさっぱりとした身体になることではありません。主イエスの命にあずかるということは、傷
だらけの命を生きることなのです。私たちは自分の人生を振り返ってみると、多くの失敗があったじゃありませんか。罪を犯したじゃありませんか。多くのつま
ずきを経験し、絶望し、孤独で、人生に行き詰まったということがあったはずです。イエス様を失った弟子たちはそういうことを味わったと思います。―――と
ころが、その中に主が現れて『平安あれ』と言われました。その言葉の中にはイエス様の赦しと慰めがある。私たちも傷だらけの人生です。そこに現れるイエス
様は、自ら傷を示しながら『平安あれ』と言ってくださいます。」(関田寛雄『目はかすまず、気力は失せず』より)神がそのように苦難の中で私たちと共にい
てくださるのだから、私たちも自覚的に神と共に、苦難の中でも立って行こう。そう呼びかけているのです。
「われわれは共に立とう」、それはまた、われわれは出会う人々、神によって出会わされる人々と共に立ち、共に生きて行こうという、愛に基づく連帯と奉
仕、また共生への呼びかけです。しかも、「わたしのあだはだれか。わたしの所へ近くこさせよ」というように、「敵」と思われる人とさえ、共に立ち、共に生
きようという、驚くべき呼びかけです。
「敵を愛することは、敵がなすことを何でも受け入れることではない。それは、不正が行われている間、それを受動的に眺めていることを意味しない。それ
は、敵の振る舞いにさじを投げること、さらに悪い場合には敵に協力することを決して意味しない。敵を愛することは、対立を隠蔽したり、その深刻さを軽視し
たりすることを意味しない。そうではなく、その対立に内在する緊張に、憎悪に屈することなく耐えることを意味する。人は人を愛さなければならないが、それ
はその人が参与している不正な行為を愛することではない。敵を愛することは、ゆえに、対立にもかかわらず、生きる権利、許される権利、愛する権利を持つ
―――しかし不正な行為に参与する権利を持たない―――神の被造物として敵を認めることである。パレスチナ人として、私たちはユダヤ人がユダヤ人であるこ
とに反対しているのではない。しかし私たちは、彼らが私たちの意志に反して私たちを抑圧し、土地を占領する西岸とガザの外国の占領軍であるかぎりにおい
て、彼らに反対する。もし私たちが、占領地におけるイスラエル軍の振舞いに対して沈黙を保つなら、それは私たちが敵を愛していることを意味しない。―――
あらゆる人間が例外なしに、神の像に似せて創られたからである。神は、アメリカ人であれ、ヨーロッパ人であれ、イスラエル人であれ、パレスチナ人であれ、
あらゆる人間において私たちと出会う。」(ミトリ・ラヘブ『私はパレスチナ人クリスチャン』より)ここで私たちは、イエス・キリストのお姿が、よりいっそ
う大きく、強く浮かび上がって来るのを、抑えることができません。イエス・キリストこそ、あの十字架でこう祈られた方でした。「父よ、彼らをおゆるしくだ
さい。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」そしてイエス・キリストこそ、重い償いきれない罪を犯し、自分と共に十字架につけられ、さらに自
分を罵ってさえいた一人の罪人に向かって、こう約束された方でした。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」
「われわれは共に立とう」、それはまさに、共に信じ、共に働き、共に闘おうとの、彼の言葉を聞く私たちに対する、連帯と共感、そして協働への呼びかけで
す。「同じ『タタカイ』でも、『闘』という文字もあります。前者(注 『戦』という字)は勝ち負けを争い、相手よりも優位に立つことへの『タタカイ』であ
る一方で、後者(注 『闘』というい文字)は病気や困難に立ち向かい挑む『タタカイ』であり、競い争って優劣をつけることではありません。―――はたけの
家の彼・彼女たちを見ていますと、日々の生活にけいれん発作があり、言葉で表現できず、自らで身体を自由に動かすことのできない中での生活です。きっと肉
体的苦痛や精神的苦痛を常に伴っているのではないでしょうか。そうしした彼・彼女たちは『闘い』の最中で暮らしている存在なのだと思います。―――武器や
武力で世界が平和となったことなど一度もありません。こうした負のスパイラルを断ち切るために、私たちは目の前で静かに『闘う』彼・彼女たちのような存在
を通して、困難に立ち向かう人の、いのちの尊厳によって『闘う』姿から学ぶことが大切だと思います。」(水野英尚、『HATAKE
DAYORI No.15』より)
「われわれは共に立とう」。「神によって耳を開かれ、共に立とうとして生きるしもべ」の言葉、その姿、その生き方は、私たちへの招き、連帯への呼びか
け、共に生きることへと問いかけと励ましでもあります。「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の
名を頼み、おのれの神に頼る者はだれか。」苦しみを越えて慰めを語る、「しもべ」である預言者の姿、「まことのしもべ」であるイエス・キリストのお姿が、
今私たちの前にあり、立っています。今週もこのお方によって促され、押し出されて、私たちのそれぞれの場で、このお方の到来を共に喜び、分かち合い、共に
生きる歩みへと、私たちもそれぞれの一歩を踏み出してまいりましょう。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてを愛された神よ。
「しもべ」の姿と生き方の中に、私たちは救い主イエス・キリストのお姿を見ます。「慰めと救いの言葉」を語り、「良き知らせ」を語り、どんなになって
も、人々から誤解と苦しみと迫害を受けても、それを受け止め、耐え忍び、それを愛と赦しにおいて克服し、どこまでも、あの十字架に至るまでも語り、行い、
生き続けたそのお姿です。
間もなくアドベントを迎えるこの時、私たちも「しもべ」の歩み、イエス・キリストの歩みを心に留めつつ、「われわれは共に立とう」との呼びかけと招き
に、信仰をもって答え、それぞれの一歩を踏み出しつつ、主が招き出会わせてくださる、その「一人」と共に生き、歩むことを与え、教え、お導きください。
まことの世の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。