日々に近き望み             
                                  
テサロニケ人への第一の手紙4章13〜18節


 今日、私共がここに集まっているのは、また私がここに立って皆様にお話しているのは、既に神様のもとに召された方々について、また私たち自身に ついて、はっきりとした希望を語り、それによって本当の意味で慰め合うためです。「あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」

 本当の慰めがあるかないかは、はっきりとした希望があるかないかによります。たいてい普通は亡くなった方々についてのはっきりとした希望は、語られるこ とがありません。まず「死」という厳しい現実が起こり、それに伴って大きな悲しみが生まれ、長い年月を経て、良くてそれが徐々に薄れて行くということでは ないでしょうか。前途には何もないように思われます。「希望」というのは、未来、将来に向けて語られるものです。普通は、もう亡くなった人々については、 希望を語ることはできません。だから、普通は、亡くなられた方々について、本当に慰めを語ることはできないのです。
 古代エジプトのお百姓の女性が、家族の不幸のあった家に宛てた見舞いの手紙が今も残っているそうです。それは、いろいろと慰めようと言葉を連ねた後、こ のようなあきらめの言葉で終わるのです。「しかし、もちろん、そんなこと(死)に対しては、何もできるものではありません。だから、あなたたち、互いに慰 め合ってください。」何を、どう慰め合えと言うのでしょうか。死に対して「何もできるものではない」というあきらめがあるところには、慰めはどうしても見 つけることはできません。

 しかし、ここで、パウロという人は、聖書は、極めて明確で、しかも大胆な言葉を語ります。「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいた くない。望みを持たないほかの人々のように、あなたがたが悲しむことがないためである。」私たちにははっきりとした望みがある、と言っているのです。だか ら、私たちには本当の慰めがあると言うのです。「あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」
 これがキリスト教信仰の非常に大きな特色です。私たちは、死について、死ぬことについて、亡くなった人々について、普通とは違って、前途を、将来を語る ことができるのです。そして、その将来とそれに基づく希望は、普通の場合のように「去りし者は日々に疎し」というふうに、だんだん遠くなるのではなく、私 たちが時間の経過と共に進めば進むほど、日々に近くなり、日々に強くなるのです。
 聖書は、死について、既に神のみもとに召された方々について、はっきりとした希望と真の慰めとを語ることができるのです。

 そんな、とてつもない聖書が告げる望みとは、どういうものでしょうか。
 パウロがここで語っているその望みの中心は、「イエス・キリストにある」ということです。14節には「イエスにあって眠っている人々」とあり、16節で は「キリストにあって死んだ人々」とあります。「イエス・キリストにある」とは、「イエス・キリストに結ばれて」ということです。神がイエス・キリストに よって、イエス・キリストを通してしてくださったことに自分自身を結び付けて、この神ご自身とそのなさったことを信じ受け入れ、そこに立って物事を、人生 を、生き死にを捉え、見て、生き、死ぬことです。

 神様は、すべての人を愛し、すべての人のために、イエス・キリストを通して一つの道を開いてくださいました。
 まず、「イエスは死んで」とあります。神が送られた救い主イエス様は「死なれた」のです。「死ぬ」ことは、私たち人間すべての定めです。そこに私たちの すべての苦しみ・悩み・痛みが集中しています。しかも、私たちは神に背いた罪人として、傷つけ・傷つけられた人生を生きています。その私たちに、死はとり わけ悲惨な影を落とすのです。イエス・キリストは、私たちと全く同じ人間となって、そのすべての苦しみを私たちと共にし、ついにはこの「死」をも共にして くださいました。
 しかし、イエスは死んで「復活された」とあります。すべての人は死んで行き、それで行き詰まり、終わるはずでした。でも、このお方イエスは、その死の厚く堅い壁に一つの穴を開けてくださったのです。
 菊池寛に「恩讐の彼方に」という小説があります。大分県の耶馬渓に一つの難所があって、大きな岩が道をふさぎ、旅人はその周りを危険を冒して迂回し、そ のために事故で亡くなる人も多くあったということです。そこを通りかかった了海というお坊さんが、この大岩をくりぬいて道を通し、人々が救われるようにと 願い、たった一人でその業を始めました。彼はかつて自分が勤めていた店の主人と家族を殺して逃げたという、犯した罪の償いとして、このことを始めたのでし た。はじめ馬鹿にしていた村人も、次第に手伝うようになりました。さらに、かつて彼に親を殺された青年も敵討ちのためにやって来ましたが、彼さえも手伝う ようになりました。そしてようやく21年目、ついに「青の洞門」は開通したのでした。「その夜九つに近き頃、了海が力を籠めて振り下した槌が、朽木を打つ がごとくなんの手答えもなく力余って、槌を持った右の掌が岩に当ったので、彼は「あっ」と、思わず声を上げた。その時であった。了海の朦朧たる老眼にも、 紛(まぎ)れなくその槌に破られたる小さき穴から、月の光に照らされたる山国川の姿が、ありありと映ったのである。了海は「おう」と、全身を震わせるよう な名状しがたき叫び声を上げたかと思うと、それにつづいて、狂したかと思われるような歓喜の泣笑が、洞窟をものすごく動揺(うご)めかしたである。」イエ ス・キリストは、ご自身の体をもって、死の大岩に穴を開け、死に苦しみ悩んでいる私たちが、その道を通って命の源である神へと至ることができるようにして くださったのです。14節
 そして、そのイエス・キリストは再び来られるのです。16〜17節 主イエスはやがて再びこの世に来られ、すべての悪の力、死の力を克服し、「神の国」 を完成してくださるのです。その時、主は亡くなった方々をご自身と共に復活させ、その時まで生き残っていた者たちをも、ご自身のもとへと引き上げ、いつま でも共におらせてくださるのです。
 だから、私たちは、すでに召された愛する人々と、この神の御前で、再び顔と顔とを合わせてお会いし、喜び合うことができるというはっきりとした望みを与えられているのです。
 そして、その再会と喜びの日は、時間・歴史の経過と共に、私たちにとってどんどん近づき、迫っているのです。召された方々は、「日々に近く、強し」なの です。神は、この方向へと、この日・この時に向かって、すべての人々を招き、導きたいと願っておられるのです。私たちは、召された方々をもこのキリストに 結び付け、このイエス・キリストによる望みの中で覚えるのです。私たちには確かな望みがあり、真の慰めがあるのです。

 そしてこれは、ただ召された方々のための望みと慰めであるだけでなく、今ここに生かされ、生きている私たちのための望みと慰めでもあるのです。この望みと慰めは、生きる私たちをこそ、このイエス・キリストへの信仰に招くのです。
 私たち自身が、自分自身を、人生を、死をも、そのようにイエス・キリストの望みと慰めの中で捉え、考え、見て、生きようとしないなら、私たち自身についてはもちろん、亡くなられた方々についても、私たちの中に決して本当の望みや慰めはないでしょう。
 だからこそ、パウロは生きている者たちに向かって勧め、励ますのです。「兄弟たちよ、眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。」「だか ら、あなたがたは、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。」あなたがた自身がキリストを信じて、再び来られるキリストを望み見て、待って、キリスト が与えてくださる復活の日に向かってひたすら歩む者として生きていきなさい。毎日毎日をそのための準備の日々として、喜びと感謝をもって、神に仕え、お互 いに愛し助け合って生きていきなさい。「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても(生きることにおいても、死ぬことにおいて も)、わたしたちが主と共に生きるためである。」
 そのとき、私たちにはいつも、はっきりとした希望と、真の慰めがあります。この希望と慰めをもって、私たちはもはや自分や自分たちだけのために生きるの ではありません。私たちは、自分自身が慰められ、死から救われ望みに生かされているように、互いに慰め合い、仕え合い、助け合うという生き方を、広くこの 世界と多くの様々な人々と共にしていくことが許されるのです。「だから、あなたがたは、今しているように、互いに慰め合い、相互の徳を高めなさい。」そこ に、将来来て完成すべき「神の国」はすでに始まり、垣間見えています。そして、ついに神が来たらせてくださる完成の時にまで至るのです。
 今日、私たちは思いも新しく、この「日」に向かって共に歩んでまいりましょう、「日々に近く、強く」迫る、この「日」を目指して。

(祈り)
「日々に近く、強し」。主なる神よ、感謝いたします。
 あなたは、死と罪の中で希望を持たず、行き詰まりに向かって歩んでおりました私共のために、救い主イエス・キリストを遣わしてくださいました。主イエス は私たちのすべての罪と苦しみ、そして死をも担い取り、私たちのために死なれました。そして主はあなたの御力によって復活され、厚い死と罪の壁を打ち破 り、命の道を開かれました。この道を通って、私たちは召された方々と共に、復活の命にあずかって御前に引き上げられ、共にあいまみえ喜ぶことが許される約 束と希望、それに基づく真の慰めを与えられています。
 どうか、今日この望みと慰めを、それぞれがいただいてその生きる場へと使わされて行くことができますように。とりわけ召された方々のご家族を顧み、豊かに希望と慰めをお与えください。
 この慰めと望みが、一人でも多くの、様々に異なる状況と苦しみを抱えておられる方々のところに届けられますように。私共教会の働きと道をも、そのためにお用いください。
復活にして命なる救い主イエス・キリストの御名によって切にお祈り申し上げます。アーメン。



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