「ないないづくし」のしもべによって             
                                       
イザヤ書第42章1〜9節


 先週から、バビロン捕囚の時期に活躍した預言者「第二イザヤ」の書を共に読み、共に神の語りかけを聞いています。今月11月は、その中から「四つのしも べの歌」が取り上げられています。この「第二イザヤ」の部分(40〜55章)では、「しもべ」について度々語られます。それは、この「預言者」に主なる神 から与えられた、一人の人のイメージです。それは、「預言者」が目指すべき人であり、また広く言えば、私たち神を信じ、その使命に生きようとする者すべて が、目指すべき人のイメージだと思います。「私たちは、神を信じて、また神からの使命を受けて、どう生きるのか。私たちは神を愛し、また神が出会わせてく ださる隣人と共に、その人たちに仕えてどう生きるのか。」今回はそのようなことをテーマとして、私たちの生き方を映し出し、導き行くイメージとして、この 「四つのしもべの歌」をご一緒に読んでみたいと思います。

 そういうわけで、今日は、第一の「しもべの歌」(42章)です。実はこの言葉は、一人の預言者の挫折と失望の中へと与えられ、語られました。預言者は落 ち込んでいました。立てないでいました。主なる神から、バビロン捕囚の中にあるイスラエルの民に語りなさい、破れと絶望の中にいる人々に慰めと希望の言葉 を語りなさいと言われたのですが、その使命を果たせないでいました。先週ご一緒に聞きました40章にもある通り、この「第二イザヤ」と呼ばれる預言者は、 主なる神から「慰めよ、呼びかけよ」と召命を受けたのですが、それに応えきれなかったようです。戦乱や土地や社会の荒廃で傷つき、弱っている民の姿、彼ら を取り囲む問題・状況の深刻さに圧倒されて、立ち上がる力も出て来なかったのでしょうか。だから、神様がこう嘆かれています。「わたしはよきおとずれを伝 える者をエルサレムに与える。しかし、わたしが見ると、ひとりもいない。彼らの中には、わたしが尋ねても答えうる助言者はひとりもいない。」(イザヤ 41・27〜28)
 しかし神様は、それであきらめるような方ではありませんでした。今主なる神は一人の「しもべ」の姿を描き出し、この「しもべ」のイメージを預言者にぶつ けて、挑み招こうとされるのです。でも、それは不思議です。「あっ」と驚く姿なのです。なぜなら、それは「ないないづくし」、「ない」ということを特徴と する人、神の「しもべ」だからです。「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに 道を示す。彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実を もって道を示す。」なんと、ここでは、後の言葉も含めると、七つの否定によって、その「しもべ」の姿が描かれるのです。「叫ぶことなく、声をあげることな く、その声をちまたに聞えさせず」「傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく」、そして「衰えず、落胆せず」の、七つです。まさに「ない ないづくし」、「ない」ということがこの「しもべ」の著しい特徴なのです。

 これはいったい何を意味するのでしょうか。
 まず、それは全く新しいリーダー、指導者像であるということです。今までイスラエルを導いた人々、それは「王」であり「預言者」などであったわけです が、かれらは皆「叫んだ」のです、「声をあげた」のです、そして「声をちまたに聞えさせた」のでした。私たちの社会でも、人々を代表して、政治や経済を動 かそうとする人たちは、「声を上げ」「叫び」、なんとかしてその「声をちまたに聞えさせよう」とします。選挙の時期になると、選挙カーが候補者の名前を連 呼して走ります。古代の当時の王たちもまた、叫んで声を上げ、それをちまたに響かせようとしました。そして、いかに自分に力があり、民を導き、幸いを与え ることができるかをアピールしたのでした。預言者たちも同じです。「黙っていては、人々に届かない、伝わらない」と、町の広場や神殿の入り口に立って、 「聞きなさい、主はこう言われる」と、必死で人々に向かって声を上げ、叫んだのです。この「第二イザヤ」もそうでした。「自分もそうならなければ。そうで なければ、主の預言者として失格だ。人々に主のメッセージが届くこともない。」でもできない、それで彼は落ち込み、失望し、座り込んでしまっていたので す。
 しかし今神様は、そんな預言者に対して、全く違う、全く新しい人の姿を描き出し、ぶつけるのです。それは「しもべ」と呼ばれます。「王」や「預言者」や 「祭司」ではなくて、「しもべ」です。それは「仕える人、下に立つ人」、「奴隷」をすら意味する言葉です。「あなたが声を上げられない、叫べない、声をち またに響かせられないというなら、それでよい。わたしは全く新しい奉仕者の姿を描き出し、そのような者を生まれさせる。あなたもそのままで、語れないま ま、声を上げられないまま、叫べないそのままで、わたしの『しもべ』として全く新しく出発しなさい。そして、わたしが導くままに、全く新しい姿で、わたし と人々に仕えなさい。」

 次に、神様が描き出される新しい「しもべ」の姿、それはこの世において、私たちもまた生きている社会において、さまざまな弱さや苦しみ、生きづらさをを 経験し感じている人々への保護と助けを与える人、しかも自分自身の弱さと挫折を通してこそ与える人の姿です。「傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心 を消すことなく」と語られています。「傷ついた葦」、深く傷つき、今にも折れ枯れてしまいそうな葦、「暗くなっていく灯心」、注ぎ足すべき油がもはやな く、もう消えてしまいそうになっているランプ、それは捕囚の混乱と戦乱、土地と社会の荒廃の中で、弱り果て、傷つき、倒れ果ててしまっている人々、他の 力・人々によってそのようにさせられ力を奪われてしまっているイスラエルの人々、とりわけその中でも比較的弱く貧しい人たちを指し示す言葉です。かれらを かばい守りつつ、「しもべ」は「真実をもって道を示す」、「裁きを導き出して、確かなものとする」(新共同訳)のです。それはまさに、かつてこの人の先輩 預言者イザヤが「善を行うことを学び 裁きをどこまでも実行して 搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り やもめの訴えを弁護せよ」(1・17)と訴えた ような正しい「裁き」そのものです。「まさに掻き消されようとする魂の灯心と一体化しつつ、しかも自らは愛の灯心をかかげ続ける」(戸村政博)のです。神 様は預言者に向かって言われます。「あなたは自分の弱さを知り、弱さを味わい、弱さを学んだのか。それならあなたは、同じように自らの弱さの中で、弱さの ゆえに傷つき、絶望し、閉じこもっている人の心と気持ちがわかるだろう。その人たちの場に共に立ち、共にあり、そして共に生きることができるだろう。その ようにして、かれらに仕え、かれらにわたしの心を伝えなさい。」

 そして、この「しもべ」の姿、さらにそれは、新しい価値への転換と希望の約束です。この何もしないような、何もできないような「しもべ」の姿、「しも べ」の生き方、「しもべ」の存在そのものが、神様の喜びであり、神様が支持なさるものです。またそれこそが、「もろもろの国びとへの道」となり、「真実を もって示される道」となり、また「海沿いの国々が待ち望む」希望となるのです。どうしようもない人間の弱さの中にこそ神様の粘り強く愛し支え生かす強さが 現われ、絶望的な無力の中にこそ神の「衰えず、落胆しない」不思議な力が明らかにされるのです。「弱さを覚えているのか、無力を感じているのか。そのあな たを、わたしは立てよう、送り出そう、用いよう。そのあなたを通して、わたしの力、わたしの強さを示し、表そう。」
 この「しもべ」の姿、それは預言者が目指すべき目標であり、そこへときっと至り、そのようになり、そうして用いられるであろうという神の約束であり希望 です。それは、この「しもべ」へと、この預言者をも呼び、召すためであったのです。「主であるわたしは、正義をもってあなたを召した。わたしはあなたの手 をとり、あなたを守った。わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光としてあなたを与え」たのです。(6節)彼は、再び主なる神の任命を受けた のです。その働きは驚くべき実りをもたらすことが約束されます。「盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる。」(7 節)しかも、この「しもべ」の姿は、「彼」一人に限定されません。それは本当はイスラエルの民の使命であったのです。「最も小さく、弱く、また罪深い 民」、それが神の愛と憐れみと真実の証しとなるはずだったのです。本来神の民イスラエルこそが、このような「諸国民のための、神のしもべ」としての存在と なり、役割を果すべきであったのです。しかし、イスラエルは今その使命に破れ、背き、沈み込んでいます。

 けれども、神の真実は決して変わらず、すたり、滅びることはありません。このイスラエルから出る一人の人が、やがて必ずこの神の呼び出しと任命を受け、 その「しもべ」の使命を果たすでしょう。その方こそ、イエス・キリストであったのです。あの「しもべ」の姿は、イエス・キリストの中へと集中し、凝縮して いくのです。イエス・キリストこそ、「まことのしもべ」であられるのです。イエス・キリストは、この後取り上げる「第四のしもべの歌」イザヤ書53章でこ う語られている人だとされています。「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲し みの人で、病を知っていた。」それは最初に、あのベツレヘムの飼い葉桶での誕生から始まりました。「ああ、ベツレヘムよ」、あなたの中にこのお方が生まれ たことを知らないのか!? そして、その歩みと生涯は、ついにあの十字架にまで至りました。「叫ぶことなく、声をあげることなく」、その「声はちまたに聞 えさせ」られることはありませんでした。その祈りも叫びも、誰も耳を傾けず、虚しく空に消えていったように思われました。そしてイエスご自身も、無理矢理 「折られた葦」のように、「ふき消された灯心」のように殺され、死んでいかれたと見えました。しかし、「彼は衰えず、落胆せず」、主なる神、父なる神は、 イエスを復活させられました。復活の主イエスは、「ついに道を地に確立」し、「もろもろの国びとに道を示され」たのです。そしてそれは、すべての人が待ち 望む希望、「もろもろの国びとの光」となったのです。
 イエス・キリストが誕生されたとされるベツレヘムの町のクリスマスについて、先週もご紹介したパレスチナ人キリスト者で牧師、ミトリ・ラヘブさんは、 「それは特別なもの」であったと語られます。しかし、そんなベツレヘムに戦乱の影が襲います。「しかし、1987年12月に状況が変わった。その時まさ に、インティファーダが始まった。(注 これは「イスラエル国」の圧政と抑圧に対し、不当な支配を受けていたパレスチナ人たちが耐えきれずに立ち上がった 行動です。)パレスチナ人は、イスラエルの占領のくびきの下で呻いていた。多くのパレスチナ人が、イスラエル兵に撃たれて死んだ。悲しみの影が、かつてな いほどベツレヘムを覆った。それで1987年のベツレヘムのクリスマスイブは、習慣に反して、極めて静かだった。―――あらゆるクリスマスの祝いが中止さ れた。―――サンタクロースも飾りつけられたクリスマスツリーも電飾もなく、通りにはパレスチナ人のクリスマスはなかった。―――町は、イスラエル兵で満 ちていた。―――私たちはサンタクロースを歓迎する気にも贈り物を開ける気にもなれなかった。しかし私たちは、しばらくの間はそれなしにもやっていける。 ―――その代わりに聖書は、枕するところをもたない難民の子どもの物語に言及する。それは、真に人間の子どもであり、美しいばら色の世界にではなく、ちょ うど私たちのように非情な世界に生まれてきた。聖書のクリスマスの物語は、やはり生命を否定され、生命を危険さらされた子どもの誕生の話を告げる。ヘロデ 王の時代に一人の子どもが生まれた。ヘロデは、ベツレヘム周辺のすべての子どもを殺すことを命じていた。子どもは、その人生のきわめて早い時期に難民と なったのである。しかし神は、その子どもと共に世界にやってきた。神自身が、私たちパレスチナ人難民のようになる。神は、私たちの一人のように、故郷を追 われたもののようになる。神はまさにこの占領の時、私たちにきわめて近いところにいる。さらに、神は私たちの苦しみを他のだれよりも理解する。神自身がこ れらの苦しみを味わったためである。―――それで私たちは、この恐るべき状況においてさえ、見捨てられてはいない。私たちの前にこの道を下った人がいるの で、私たちは一人で行かなくてもよい。神はこの世界に、きわめて小さく無力な赤ん坊として入る。しかしまさにそうして、神はこの世に勝利する。―――自分 の十字架を担っている私たちは、その十字架につけられた方を信じている。私たちの道においてその方が私たちと同行し、私たちを見捨てないことを、その方か ら知らされているからである。神は夜の闇深く現れるので、私たちの夜は悲しくはあり得ない。―――その時初めて、私たちは正しくクリスマスを祝うだろう。 おそらく私たちがベツレヘムの追放された子どもの秘密を最もよく理解できるのは、まさにこの占領下にある今であろう。こうして1987年のクリスマスは、 真の、意味あるクリスマスになった。」(ミトリ・ラヘブ『私はパレスチナ人クリスチャン』より)
 私も、そしてあなたも弱り、衰え、落胆してはいないでしょうか。神の言葉を信じ、それに任せ、期待することに疲れ、ためらい、ましてそれを他の人々に伝 え、分かち合い、証しすることに疲れ、失望し、へたり込んでしまってはいないでしょうか。しかし、あの預言者に語りかけ彼を召された主なる神は、今あなた に対しても声をかけ、あなたをも呼び、あなたをも「主のしもべ」として任命し立てようとなさいます。「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び 人を見よ」と。私たちの先には、ベツレヘムの飼い葉桶に生まれ、十字架の死にまで至り、そして復活して今も生きたもうまことの「神のしもべ」イエス・キリ ストが共にいてくださいます。イエスこそ、「ないないづくし」の中での私たちの救いと希望なのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
 あなたは「わたしのしもべを見よ」と語りかけられました。この一人の人の姿と道を通して、あなたの御心と、弱さのただ中に働き現れるあなたの力とを開 き、示されました。その「しもべ」は、ついに私たちの間に来られました。御子イエス・キリストこそ、その方でした。どうか私たちがこのお方とその力とを信 じ受け入れ、それによって支えられ、導かれて生きることができるようにしてください。あなたのこの力の証人として送り出し、それぞれの場で生き、働き、仕 えることができるよう導き、お用いください。
すべての人の救い主なるイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



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