主はだれを慰めるのか             
                                       
イザヤ書第40章1〜11節


 今週から、「第二イザヤ」と呼ばれている部分(40〜55章)に入ります。時は、バビロン捕囚末期の紀元前6世紀中頃です。預言者イザヤ自身の もとの考えるにしては、あまりにも時代がはなれすぎているため、預言者イザヤの流れをくむ一人の無名の預言者の手によるものと考えて、便宜上「第二イザ ヤ」と呼びます。突然神さまの語りかけがその預言者に響きました。この部分は、その預言者が受けた「召命」、神によって預言者として任命され派遣される出 来事であるということができます。
 預言者が目の前に見、共に生き、共に歩んでいたのは、徹底的に痛めつけられ、苦しめられていた人々でした。時は今から2500年前、遠く外国バビロンの 都に捕らわれて連れて行かれていたイスラエルの民でした。国土を奪われ、自分たちの信じる信仰をなくし、生きる根拠を奪われ、誇りをなくしていた人々でし た。「エルサレム」というのは、イスラエルの都である町の名前です。この「エルサレム」という言い方でもって、エルサレムの町の人々や、都エルサレムに代 表されるイスラエルの人々を表しているわけです。その時代、イスラエルの人々はバビロニアという国との戦争に負けて、多くの人々が自分の国から無理やりバ ビロニアに連れて行かれて、大変に苦しい惨めな生活を、なんと50年も続けていたのです。
 預言者に向かって神様は命じられます、「慰めよ、わが民を慰めよ」。この傷つき、痛み、疲れている人々は何より慰めを必要としていました。だから、「神 様はあなたがたを慰めてくださいますよ」と語る。また、その「慰め」の具体的な現れとして、その苦しみの終わりを告げるのです。それが「赦し」のメッセー ジです。もとはと言えば、この捕らわれの苦しみは、イスラエルの罪が原因でした。信じ頼るべき神様を信じないで捨てて、他の神々や物事に頼った、また隣 人、特に貧しい者・弱い者たちを見捨て、助けようとはしなかった、それに対する裁き・罰としてこのことは起こったのでした。ところが今、神様はそのイスラ エルに罪の赦しと捕らわれからの解放を語ってくださろうとするのです。「その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の 刑罰を主の手から受けた。」あなたは十分に苦しみ、十二分に罰を受けた。神様はもう既にあなたを赦してくださっている。だから、もうその苦しみは終わる。
 私たちもまた、当時の古代イスラエルの民、そしてこの現代において様々な苦しみ、戦乱・災害で苦しみ傷つく人々と共に、この時、今この時に慰めを、しか も他の慰めではない神による慰めを必要としていると思います。当時のイスラエルの人々が多くのものをなくし、あきらめねばならなかったように、私たちも多 くのものを失い、あきらめ、失望しなければならないことがあります。物であるならば、それは痛いですが、あきらめもつきます。でも、それよりももっと大切 なもの、それは誇りであり、自分の存在に対する確信であり喜びであり、将来に対する希望です。でも、そういう大切なものをも奪い、なくさせてしまう物事 が、私たちの周りにはいっぱいです。そんな中で、私たち一人一人も傷つき、疲れ、望みをなくしてしまっているかもしれません。
 そしてまた、私たちも赦しを必要としています。周りの人たちや世の中だけが悪いわけではないのです。聖書は私たちに、神との関係を問うのです。あなた は、神様と共にこれまでどのように生きてきたのか。神を信頼し、神の御心を求め、それに従い、それに望みを置いて生きてきたのか。それとも、結局は神以外 のものに頼り、それによって心を満たし、人生を支え導こうとしてきたのではないか。また、あなたはこれまで、神が出会わせてくださった多くの人々としっか り共に生きてきたのか、かれらを愛し、その人たちが本当に生きるようにと生きてきたのか。あるいはむしろ、その人たちのことを見ながら、そのかたわらを通 り過ぎ、別の道を通って行ったのではないだろうか。このように問われるとき、私たちは例外なく、神の赦しを必要としていることに気づきます。その私たちに 向かってもまた、神は今慰めと赦しの言葉を「ねんごろに」、私たちの奥底にまで届くように語ってくださるのです。

 しかも、主なる神の約束は、ただ「慰めと赦し」にとどまってはいませんでした。預言者は続けて語るようにと命じられます。「荒野に主の道を備え、さばく に、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平 地となる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。」「神によって道が開かれる」と預言者は語るのです。今の傷つき疲れたあなたに向かって 慰めが、過去の罪過ちによって責められ打ちのめされているあなたに向かって赦しが語られるだけではない。あなたがたの将来に向かって、神は道を開いてくだ さる。しかも、大きな広い道を開いてくださる。それは、単にイスラエルだけの救いではないのです。この世にはそのほかにも多くの罪と悪、それに基づく苦し みがある。それを「荒れ野」に散らばる「山」や「谷」や「丘」、また「高低のある地」「険しい所」やという言葉で表現しているわけです。それらの「山と 丘・谷」、ありとあらゆる「でこぼこ」が平らにされ、また通りにくく歩きにくく生きにくい、そういうすべての私たち人間の生きる道が平らにされ、広くさ れ、美しくされる。かつて、アメリカのマルティン・ルーサー・キング牧師は、この箇所を引きながら「私には夢がある」と語りました。それはこの世界からあ りとあらゆる差別や抑圧や争いが廃絶されて、黒人も白人もお互いを尊重し愛して仲良く生きられる世界が来ることを語りました。キング牧師については何度か ご紹介していますので、今日は現代のいわゆる「イスラエル国」支配下で生きる一人のパレスチナ人キリスト者に与えられた、神からの夢をご紹介したいと思い ます。
 「私は、イスラエルの占領下に生きるパレスチナ人である。私を捕らえるものは、日々私の生活をさらに困難にする方法を捜し求めている。彼らは私の民を有 刺鉄線で囲み、周囲に壁をめぐらせ、その軍隊は私たちの周りに、多くの境界を設ける。彼らは、私たちのうちの数千人をキャンプと刑務所に留め置くことに成 功している。しかしこれらのすべての努力にもかかわらず、彼らは私から夢を奪うことはできなかった。彼らは私の夢を投獄することはできなかった。―――私 には、ある日目が覚めると、二つの平等な民が互いに隣接して住み、地中海からヨルダンまで延びているパレスチナの地に共存しているのを見るという夢があ る。これらの二つの民は、この小さな一片の地を分け合うことを学んでいる。彼らは、自分たちの運命はすでに分けることはできず、唯一の可能性は共に生き残 ることであり、そうでなければ共倒れであるという確信に至っている。―――私には、相互に平和に隣り合って住み、無為に費やされるだけの武器に莫大な資源 を浪費する必要のない二つの民の夢がある。これらの二つの民は、軍備競争にそのエネルギーを浪費せず、その代わりに社会正義に基づいた健康的な経済の建設 で力を競うだろう。―――私は、神の名を保持し、それを彼ら自身のさらなる利益や他者の抑圧のために悪用しない二つの民について考える。彼らが神の法に 従っているという事実は、彼らがいかに人権に従いそれを保護しているかによって明らかにされる。―――それが私の夢である。もし人々がそれを信じられるも のだと考えるのであれば、それはもはや幻想ではない。もし人々がそれを達成するために働くのであれば、その実現はさほど遠い未来のことではない。」(ミト リ・ラヘブ『私はパレスチナ人クリスチャン』より)

 しかし、ここに人間の弱さが現れます。預言者は今、この神のすばらしい約束を委ねられながら、大変に苦しんでいるのです。
 なぜなら、まずそれを聞くべき人々が傷つき、疲れ、破れ果てているからです。2節に「ねんごろにエルサレムに語り、これにに呼ばわれ」とありますが、あ る方は、ここは「エルサレムの人々の心に染み入るように、ねんごろに語れ」という意味だと言っています。50年もの間同じ苦しみと痛み・恥を味わい、見さ せられてきた人たちなのです。そういう人たちの「心」は、渇き、しおれ、固く凝り固まって閉ざされてしまっている。そういう人たちに「よい知らせ」は届か ないのです。むしろ、あざ笑いと拒絶で応えられてしまうのです。「なにが福音だ、なにが慰めだ、なにが神だ、そんなものがあるわけないよ。そんなことよ り、もっと面白いこと、楽しいことを与えてくれ。」そういう人たちに語るためには、本当に「心に染み入るように」、忍耐強く何度でも何度でも、暴言を言わ れようと石を投げられようと、あきらめないで粘り強く「ねんごろに」語る必要があります。そんな重く、しんどい務めに、いったいだれが耐えられるでしょう か。
 そして第二の決定的かつ致命的な理由は、預言者自身が、この「荒野」のような世界の中で、深く傷つき、疲れ、破れているということです。6節以下を読ん でみましょう。「声が聞こえる、『呼ばわれ』。」これは神の預言者に対する命令です。この後が問題です。この後の数行は、預言者自身のつぶやきと弱音とい うふうに読むことができます。「わたしは言った、『なんと呼ばわりましょうか』。『人はみな草だ。その麗しさは、すべては野の花のようだ。主の息がその上 に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。」人間は草のようなものです。虚しく弱いものです。この民がそうですし、この私だってそうです。もう疲れました。枯れて しまいました。どうしてそんな赦しと慰めのたいそうな言葉なんか語れましょう。それに、この枯れ果てた人たちはそんな夢みたいな言葉、聞いてくれません よ。私には自信も確信もありません。私にはできません。
 そうして弱さと不信の中に逃げ込み、閉じこもり、ためらい、逃げ続ける預言者に向かって、神は力強い約束の言葉を与えてくださいます。「草は枯れ、花は しぼむ」、確かにお前の言うとおり、人間は草のように弱く、イスラエルの民は枯れ果て、お前は花のようにしぼんでしまっているかもしれない」。しかし、こ う言われるのです。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることがない。」別の訳では、「われらの神の言葉はとこしえに立 つ」とされています。あなたがどうあるかではない、あなたに力があるかどうかではない、あなたに自負や自信があるかどうかではない。神の御言葉こそが、神 御自身こそがあなたや周りの者たちの状態によらず、とこしえに立ち、あきらめずに働き、投げ捨てずに事を成し遂げるのだ。「何をなすべきか」に心を用いる のではなく、「すでに何が神によって始まっているか」にあなた自身を向けよ。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たなる 力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

 そして今や、「彼」に預言者としての使命が与えられます。「高い山に登れ」「声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ」(40:9)。「良き知らせ」 とは、王の誕生やたたかいの勝利などの知らせを、伝令役の人が人々に告げることでした。伝令はひときわ目立つ高い山に昇り、遠くからでもその知らせを受け 取ることができるようにと語り伝えるのです。
 それは、主なる神ご自身がイスラエルの民と共にその道を歩み、彼らをたずさえて帰還してくださるという「良き知らせ」です。「見よ、主なる神は大能を もって来られ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいな に小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。」それは、神御自身があなたがたのところに来てくださることに よって実現するのだ。もうほかのものには任せておけないと、あなたがたを愛してやまない神御自身が、今や立ち上がり、ご自身のところを出発して、とうとう あなたがたのところに来てしまわれた。そして、あなたがたを、羊を導く良き羊飼いのようにして、やさしくねんごろに心を込めて抱き上げ、慰め、癒し、赦し て、正しく、幸いのうちに導いてくださる。人間は傷つき、疲れ、またみ言葉やみ業を忘れてしまっても、「倦むことなく、疲れることなく」(イザヤ40: 28)、決してお忘れにならない神がおられるのです。
 私たちは、この約束が本当であり、すでに実現したことを知らされています。まさに神御自身が私たちのところにおいでになり、「神われらと共にいます」こ とを実現された、神の御子イエス・キリストの到来をいただいているのです。「主はだれを慰めるのか」、それは何よりもまず、神によって呼びかけられ、招か れ、使命を委ねられて、派遣される者たちに向かってです。今私たちは、確かに語られている神のこの慰めと赦し、そして救いの御言葉をしっかりと受けとめつ つ、慰められ、力づけられ、しっかりと支えられて歩んで行きたいと切に願います。そして、この神の赦しと慰め、平和の言葉を携え、送り出されて、この不正 と悪、また差別と戦争の世の中で、神の御言葉の証人また奉仕者として働かせていただきたいと切に願います。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神 の言葉はとこしえに変わることはない、とこしえに立つ。」

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 今この時、私たちは「慰めよ、わが民を慰めよ」と語りかけてくださる、あなたの到来を待ち望みます。その御声を、本当に、私たちのところにまで届け、語り、行ってくださった救い主イエス・キリストが到来し、私たちと共にあってくださることを、心から待ち望みます。
 どうか私たち信仰者一人一人と教会をも、あなたが慰め、力づけ、この世界とすべての民へと、この慰めと平和の言葉をもって送り出し、導き、お用いください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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