主は「どの日」を見ているのか             
                                       
イザヤ書27章1〜6節


 「目の付け所が違う」という言葉があります。テレビなどで、色々な分野の専門家の人たちの言葉を聞いていると、「さすが、目の付け所が違う」と思わされることがたびたびあります。
 「預言者」とは何でしょうか。「預言者」と呼ばれる人たちの特徴とは何でしょうか。先に申し上げたように、まさに「目の付け所が違う」のです。彼らは、 「この日、今」ではなく、「その日」を見すえて、そこからすべての物事を見、判断をするのです。「この日」とは、今私たちが見、聞き、感じ、考えている 「日」、今現在の私たちが「これが現実だ、これが全てだ」と思っている、その物事のあり様、またそれに関わる私たちのすべての物事の見方や考え方、判断と それに基づく行動、生き方のことです。
 ところが、「その日」はそれとは全く違います。「その日」の「その」とは、具体的に何を指しているのでしょうか。私は、「その日」とは「主の日」だと思 います。「主の日」、主なる神がはっきりとご自分を表される日、主なる神がそのご計画を実現し、その御業をなしとげられる日。その日が、極めて近い将来、 必ず到来し実現するのだというのが、多くの預言者たちのメッセージです。だから預言者たちは、たびたび「その日」「その日には」と語りました。それは、神 の裁き・災いが来る「日」であるかもしれません。「今」は、全然そんな兆候を感じなくても、主は必ずその日を来たらせる。だから今こそ悔い改めて、生き方 を変えよ。そして何より「その日」とは、救いと回復の「日」なのです。今ははなはだしい苦しみと悲しみ、絶望の中にいる人々、救いと希望の光は全く見え ず、ただ闇だけがそこにあると見、思える。しかし預言者は語るのです。「その日には」、主なる神が来たり、現われ、あなたがたの救いを成し遂げてくださ る。「歴史の中間時を生きる我々がもし歴史のトータルな意味を解こうとするなら、そのカギはいまの『この日』にではなく、むしろ歴史の究極的目標である 『その日』の中にこそある、ということである。我々は『その日』という定点に向けて心を開くようにとうながされる。」(清重尚弘、『説教者のための聖書講 解 イザヤ書』より)

 だから今、預言者イザヤもまた、「その日」と語ります。1節「その日、主は堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレビヤタン、曲がりくねるレビヤタンを罰 し、また海におる龍を殺される。」この「レビヤタン」「龍」というのは、もともと「神話的怪物」の名前です。そこから転じて、「怪物のような力を持つ、地 上の様々な権力、権力者」を指す言葉ともなりました。近代政治学者の先駆けとも言われるホッブスという人の書物に「リヴァイアサン」というのがあります が、これは「レビヤタン」の英語読みで、強大な力を持つ国家権力を指しています。だから、ここで言われる「レビヤタン」「龍」とは、イザヤたちの時代に当 時の西アジア世界を支配していたアッシリヤをはじめとする大国を指しているのだろうと思います。
 今、「この日」、アッシリヤをはじめとする大国は、強大な力、軍事力をはじめとするも諸々の力によって世界を支配し、思うがままに振る舞い、富み栄えて いる。弱小国イスラエルをはじめとする世の人々、私たちも今この時、この世界を見てそう思い生きているかもしれませんが、「この日のこれ、これが全てだ」 と思っている。しかしイザヤは、そんな者たちに向けて、主の言葉を語り告げるのです、「その日」と。「その日、主は堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレ ビヤタン、曲がりくねるレビヤタンを罰し、また海におる龍を殺される。」「いまこの日にこの世界と歴史を支配しているかに見える力が、『その日』には完全 に絶ち滅ぼされる、これがかつて語られたことばであり、我々が今日信ずべき言葉なのである。」(清重尚弘、同上)
 だからこそ預言者は、イザヤもまた、この世の悪、権力の座にある人々を放置せず、あきらめず、警告して語るのです。預言者たちと「同じ作業を行ったのが 矢内原忠雄だ。1931年満州を占領した日本は、1937年7月には盧溝橋事件を起こして、中国本土への侵略を始めた。この事件を受けて矢内原は「国家の 理想」を書き、雑誌に発表する(1937年、昭和12年)。そのために彼は東大教授の職を追われた。この論文もアッシリアを描きながら日本を批判する。黙 示録の一つだ。矢内原忠雄・国家の理想から『国家の理想は正義と平和にある、戦争という方法で弱者をしいたげることではない。理想にしたがって歩まないと 国は栄えない、一時栄えるように見えても滅びる』。」(川口通治、篠崎キリスト教会ホームページより)

 そしてイザヤは、神の民イスラエルについても「その日」を語るのです。「その日、『麗しきぶどう畑よ、このことを歌え。」「後になれば、ヤコブは根をは り、イスラエルは芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす。」今「この日」、イスラエルは「野ぶどう」であり、全く食べられないひどい実、悪い実を結ん でいる「腐れぶどう」であるかもしれない。いや、事実そうだ。しかし「その日」、イスラエルは変えられる。「麗しきぶどう畑」となって、良い実を結ぶ、お いしく、栄養に富み、神と人々を喜ばせる、そんな「麗しきぶどう」の木となる。
 そこには、イスラエル人間の側ではなく、主なる神ご自身に大きな、根本的変化がありました。「主なるわたしはこれを守り、常に水をそそぎ、夜も昼も守っ て、そこなう者のないようにする。わたしは憤らない。いばら、おどろがわたし戦うなら、わたしは進んでこれを攻め、皆もろとも焼きつくす。」神は、イスラ エルに対して怒り、憤り、裁き、罰する者ではなく、「その日」には「守り、水をそそぎ、夜も昼も守る者」となって、彼らを世話し、教え導き、整え正し、成 長させて、「良いぶどう」「麗しきぶどう畑」へと変えてくださるのだというのです。そして、もし彼らを損なおうとする「いばらやおどろ」が現れるならば、 主なる神自らがそれら損なう者たちとたたかい、イスラエルの民を守ってくださるのだというのです。その結果、イスラエルは変えられます。「後になれば、ヤ コブは根をはり、イスラエルは芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす。」
 パウロもまた、イエス・キリストによって全く新しく変えられる、私たちの救いについて語りました。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造ら れた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Uコリント5・17)人が、民が新しく変えられるということ、それはただ ただ主なる神の御業に他ならないのです。

 だからこそ今、イスラエル、神によって約束と希望の言葉を与えられた人々にも、勧められるのです。「その日が来る。だからこそ、イスラエルよ、あなたも 変われ。」「わたしの保護にたよって、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ。」「その日」が来る、あなたも「その日」を見据えて、変われ、そこか ら新しく生き直せ。「わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ。」それは、神との和らぎ、神との和解です。「腐れぶどう」イスラエルは、主なる神と間 に不和があり、断絶がありました。しかし今や、神の方からイスラエルに対するあり方・接し方・向かい合い方を変えてくださり、赦しと好意をもって手を差し 伸べてくださるのです。それを、真っ向から受け入れ、受け取って、あなたの方からも、神に向かって1ミリでも手を伸ばせ。それが、神のとの「和らぎ」であ り、和解なのです。このことを、私たちは、イエス・キリストにおいて完全に成し遂げられたものとして信じ、受け取り、生かされ生きているのです。「これら すべての事は、神から出ている。神はキリストによって、私たちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストに おいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。」(Uコリント5・ 18〜19)
 それは、「新しいイスラエル」であり、彼らの、また私たちの新しい生き方です。あの「ぶどう畑の悲しみの歌」で歌われ、批判され、責められたいたのと は、まったく正反対の生き方、。力に頼らず、自分の富を求めず、弱く貧しい者たちを虐げず、赦しと和解、慈しみと平和を目指して生きよ。「『イスラエル』 に属するとは、トーラー(注 神の律法)に顕現する神の似姿、模倣に照らして、この世の生を形作ることを意味している。―――本来の意味における『ユダヤ 人』の宿命には、神とその民のあいだに結ばれた契約の帰結が映し出されていると考えられるのです。―――この世にふたたび義がもたらされる否かは、彼ら自 身の改悛のいかんにかかわっているのであり、神の〈摂理〉に対する挑戦にもなりかねない軍事・政治活動の成否にかかわっているのではない・・・・。」(ヤ コブ・М・ラブキン『イスラエルとは何か』より)
 「サビール」というものを知っていますか。「サビールはパレスチナ人キリスト者のエキュメニカルな解放の神学運動である。この解放の神学は、イエス・キ リストの生涯と教えから励ましを受け、パレスチナ人キリスト者の信仰を深め、その一致を促進し、正義と愛のために行動するように彼らを導く。サビールは、 さまざまな民族と信仰共同体のために正義と平和、非暴力、解放、そして和解に基いた霊性を養うことに努める。『サビール』という言葉は、アラビア語で 『道』という意味であり、また『生きた水の泉』という意味でもある。」(ナイム・アティーク『サビールの祈り パレスチナ解放の神学』より)この活動を基 礎づけるものとして、「サビールの祈り」というものがあります。私は、ここに、イザヤが語った、まさに「新しいイスラエル」、「麗しきぶどう畑」としての イスラエルの姿が示されていると思うので、これをご紹介して終わりたいと思います。
 「サビールの祈り
慈しみ深く愛に満ちた父よ。あなたが私たちに惜しみなく与えてくださった数々の祝福のゆえに、あなたに感謝します。 私たちが平和の道を歩むとき、あなた が共にいてくださることを感謝します。―――サビールのエキュメニカルな宣教と宗教を超えた働き、正義の宣教をお導きください。 私たちすべてに抑圧に立 ち向かう勇気をお与えください。すべての人々の間、特にパレスチナ人とイスラエル人の間の正義と平和、和解の業に対する私たちの献身的な働きを強めてくだ さい。 私たちが互いの中にあなたの像を見ることができるように助けてください。私たちに力を与えて、真理のために立ち上がり、すべての人間の尊厳を尊重 することができるようにして下さい。そしてただあなただけに、栄光と誉れが今も永遠にありますように。 アーメン。」(同上)

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 主よ、あなたは「その日」を見ておられます。「その日」の到来と実現を約束は、「その日」からすべての事柄を見、すべての物事を判断し、すべての歩みを なさっておられます。それゆえに預言者はいつも、「その日には」と語りました。私たち教会は、「その日」の到来と実現を、救い主イエス・キリストにおいて 見、信じ、生きています。
 どうか私たち一人一人と教会も、あなたの「その日」を示され、それに聞き、それに導かれつつ、「その日」を見、そこからすべてを見、判断し、選び、決断 し、行動し、生きて行くことができますようお助けください。私たち教会も、あなたの「麗しきぶどう畑」の一人として生きて行けますよう導き、お用いくださ い。
まことのぶどうの木、救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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