主は何を「わざわい」と言うか             
                                       
イザヤ書第5章7〜21節
          

 預言者イザヤは、使徒パウロのように、神の言葉・メッセージを伝えるためなら、「どんなことでもする」のです。だじゃれをも言うのです。
 先週、主なる神がご自身の「ぶどう畑」イスラエルに期待をし、それがひどく裏切られたことをお話ししました。「彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに 良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。」主なる神が、愛をもって選び、愛情を注いで 様々な労苦をし、丹精を込めて育てたイスラエルとその民でしたが、実際の結果は惨憺たるものでした。「良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだも のは野ぶどうであった。」「野ぶどう」、腐って全く食べられない、それどころか嫌悪と失望を自ずから招くような、そんなひどい実が結んだのです。その内容 を、今日はより詳しく、具体的に見たいと思います。
 神様がイスラエルの人々に対してどのような期待をし、どう裏切られたのかが、5章7節にまとめて語られています。「万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家 であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。」実はここ に、初めに申し上げた「だじゃれ」があるのです。「公平を望まれたのに、見よ、流血」、これが第一のだじゃれです。「公平」は、ヘブライ語で「ミシュパ ト」と言います。これに対して「流血」は、「ミスパハ」。「ミシュパト」と「ミスパハ」、発音が似ていますね。つまり、こうなっているわけです。「ミシュ パトを望まれたのに、見よ、ミスパハ」。つまり、言葉は似ていても、実質は全く反対、似て全く非なるものを結んでしまったと語っているわけなのです。第二 のだじゃれはその次の部分です。ここでも「正義を望まれたのに、見よ、叫び」となっていますが、「正義」は「ツェダカー」で「叫び」は「ツェアカー」で す。つまり「ツェダカーを望まれたのに、見よ、ツェアカー」となって、これまた見事なだじゃれとなって、期待したものとは、似て全く非なるものを結んでし まったと、皮肉とブラックユーモアを込めて繰り返して語っているわけです。

 これはいったい、どういうことなのでしょうか。「公平を望んだのに流血、正義を求めたのに叫び」とは、具体的にどのような事柄、事態を語っているので しょうか。そのことが、次の8節以下で語られます。それを把握し理解するキーワードは、「わざわいなるかな」です。さーっと見ていただくと分かりますよう に、この部分には、何度となく「わざわいなるかな」という言い回しが繰り返されます。「わざわいなるかな、これこれ。わざわいなるかな、これこれ。わざわ いなるかな、これこれ」というように、「わざわいなるかな」という言葉の後に来る事柄が、いったい何が悪くて間違っていたのか、先ほどの「公平を望んだの に流血、正義を望んだのに叫び」ということの具体的な内容を示しているわけなのです。さてそういうわけで、「わざわいなるかな」を目印としてこの部分を見 て行きますと、ここには四つないし五つの「わざわいなる」ことがあるのが分かります。

 まず第一の「わざわいなるかな」です。「わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、田畑に田畑をまし加え、余地をあまさず、自分ひとり、国のうちに住 まおうとする。」ここには、先週も申し上げたように、富んだ者から貧しい者たちへの、また力ある者から様々な弱さを抱える者たちへの、経済的搾取と抑圧が あります。そして自己利益のあくなき、際限のない、野放図な追及がありました。資産を次々に自分たちのところに集中させ、経済成長をどこまでも推し進めよ うとする経済的富裕層、彼らを支える支配者層の欲望と策動があったのです。。それが、貧しい者、弱い者たちへのさらなる収奪と抑圧を生み出し、これらの人 々はそのためにますます窮乏し、苦しみ、悲しみのうちに損なわれ、傷つき倒れ、時には死んで行ったのでした。そしてそれは、単に貧しい者たちだけが傷つき 倒れるというのではなく、それがひいては国土の荒廃と民全体の力、国の力の衰えをもたらし、ついには国全体の滅びをもたらすのだと語られています。「万軍 の主はわたしの耳に誓って言われた、『必ずや多くの家は荒れすたれ、大きな麗しい家も住む者がないようになる』。」
 第二の「わざわいなるかな」はこうです。11節以下。「わざわいなるかな、彼らは朝早く起きて、濃き酒をおい求め、夜のふけるまで飲みつづけて、酒に身 を焼かれている。彼らの酒宴には琴あり、竪琴あり、鼓あり笛あり、ぶどう酒がある。」ここではまず、富裕階級、上流階級の人たちの、朝から晩まで自分たち の楽しみにふけるという、享楽的生活、生き方が批判されていると言うとができます。それは、お酒を飲んだりすることそのものが悪いというよりは、そこに貧 しく、苦しみ、死んで行く人々を顧みないで、ただただ自分たちの楽しみと欲望の充足だけを求めるという姿勢・生き方に対する根本的な批判があるのだと思い ます。イエスが語られた「貧しきラザロと金持ちのたとえ」を思いおこしてください。それは、神が常に心を懸けている貧しく弱い人たちのことを忘れて、今神 がなさっておられる業に全く注意を払わないという生き方に繋がります。「しかし彼らは主のみわざを顧みず、み手のなされる事に目をとめない。」その結果は こうです。「それゆえ、わが民は無知のために、とりこにせられ、その尊き者は飢えて死に、そのもろもろの民は、かわきによって衰えはてる。」
 続いて第三の「わざわいなるかな」は、こう語られます。「わざわいなるかな、彼らは偽りのなわをもって悪を引きよせ、車の綱をもってするように悪を引き よせる。彼らは言う、『彼を急がせ、そのわざをすみやかにさせよ。それを見せてもらおう。イスラエルの聖者の定める事を近づききたらせよ。それを見せても らおう』と。」それは、民の衰えと国の滅亡を語り告げるイザヤに対する嘲笑であり、さらにはイザヤを遣わした主なる神への挑戦です。「国が衰え滅びるだ と。そんなことあるわけがない。そんなことがあってはならない、だから起こるはずがない。それでも起こるというなら、見せてもらおう。神様に急いでいただ いて、そのことを早く起こしていただくようにしてもらおうじゃないか。」「イザヤからすれば、今のこの過ぎ去りゆく現実にへばりつく都市貴族は、まさにそ のことによって、現実の裏側にあり未来に客観化されるもう一つの現実が見えない。神の眼を拒絶した彼らの眼は、自分に都合よく世界を見るだけで、その世界 の像が幻想でしかない事を知らない。この原理的な対立の中で、都市貴族は嘲笑によってイザヤに攻撃を加えた。」(磯部隆『預言者イザヤ』より)
 そして第四の「わざわいなるかな」が語られます。今日は、20節と21節の「わざわいなるかな」は、一つのことを言っているのだと解釈いたします。「わ ざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、善を呼んで悪といい、暗きを光とし、光を暗しとし、苦きを甘しとし、甘きを苦しとする。わざわいなるかな、彼 らはおのれを見て、賢しとし、みずから顧みて、さとしとする。」力ある人々、富める人々には、知識があります、世の中の名称や法を作り出す力と権限があり ます。だから彼らは、自分たちにとって都合の良い仕方で物事を名付け、呼び、可能ならば自分たちの望むように世の中の現実そのものを変えてしまおうとする のです。「悪を呼んで善といい、善を呼んで悪といい、暗きを光とし、光を暗しとし、苦きを甘しとし、甘きを苦しとする。」そのようにして彼らは、この世の 倫理、法を転倒させてしまうのです。
 「障害者自立支援法」という法律があります。「障害者の自立を助ける法律」だから、いいことじゃないかと思われるかもしれませんが、これに対してこうい う声、こういう意見があるのです。「重荷を持っている、しょうがいを持っている子どもたちは、いわば社会の生産に携わっていかない、そういう人は価値が無 い、社会に貢献していないというような基調が、この法律の中には間違いなく流れている。―――久山(注 久山療育園)に行かれたことのない方はぜひ行って ください。―――彼らの持っている優しさ、本当に生きている、一生懸命に。―――そういう姿を見ると、我々が勇気付けられていくんです。そういう社会では なく、むしろ切り捨てるという発想、どうしても経済的な取り組みに、この法律が立っているとしか思えません。私、何回もこの障害者自立支援法を読みました けれど、途中でもう読むのはもう止める、止めたいという気持ちになる。本当に分かりにくい。この法律は誰のために書かれていますか。」(志摩秀武、バプテ ストコロニー友の会『いのちに優劣をつけないために ―――障害者自立支援法を問う―――』より)

 これらの「わざわい」なることに対して、主なる神はどうなさろうとするのでしょうか。
 一つには、ずっと申し上げてきましたように、それらに対して「裁きと災い」をもたらされるのです。「彼らは万軍の主の律法を捨て、イスラエルの聖者の言 葉を侮ったからである。それゆえ、主はその民にむかって怒りを発し、み手を伸べて彼らを撃たれた。山は震い動き、彼らのしかばねは、ちまたの中で、あくた のようになった。それにもかかわらず、み怒りはやまず、なお、み手を伸ばされる。」
 そしてそれ以上のこと、もう一つのことは、イスラエルの悪い応答にかわって、主なる神ご自身が正しい答えを持ち来たり、実現し、ご自身を「聖なる者」と して示し、現わされるということです。16節「しかし万軍の主は、公平によってあがめられ、聖なる神は正義によっておのれを聖なる者として示される。」先 週も申しましたように、ここは明らかに7節と対照させられています。イスラエルの応答は、「公平を望んだのに流血、正義を望んだのに叫び」でしたが、今や 神はご自身が「公平」と「正義」を持ち来たり、それを見事なまでに実現し、それによってご自身を「聖なる者」として示し、現わされるのです。
 その主なる神様の究極、最終の現われを、私たち教会はあのイエス・キリストに見ています。人間たちの神への挑戦、その嘲笑、嘲笑いを、イエスはどう受け 止め、どうされたのでしょうか。イエスは、それをご自身が、真正面から受け止め、ご自身が受けられたのです。主は、その神への嘲笑をご自身が受け止め、ご 自身が嘲笑われることをよしとされたのです。「祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、『他人を救ったが、自 分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう』。」(マルコ15・31〜32)イエス・ キリストは、あのイスラエルが歩み生きた道、生き方とは、まるっきり正反対の生き方をしておられるのです。貧しい者、弱い者、弱く貧しくされている人、そ の一人一人を切り捨て、見捨て、死に行くにまかせるのではなく、その一人と一人とどこまでも連帯し、共に生きて、ついにはご自分もまた弱く貧しい者の一人 となり、この十字架に至るまで、その生き方と道をどこまでも貫いておられるのです。イスラエルとその民が、「あり得ない、非現実的、そんなことをしていた ら自分が生きて行けない」と判断し、切り捨て、投げ捨てた、その道と生き方をイエスご自身が拾い上げ、貫き、実現して生き、今こうして生き、そして死のう としておられるのです。イエスは、この道を貫き、死に、そして復活させられ、勝利されました。それによって、神の救いを私たちと世に送り、新しい命があ る、新しい生き方と道があるのだと示し、行い、与えられたのです。

 主は何を「わざわい」と言うか、それが今私たちには分かります。そしてそれ以上に、主が何を「さいわい」と呼び、生き、与えられたのかを知らされ、分かっています。救い主、復活の主と共に、今週もこの道、この「さいわい」の道を、共にまた互いに歩んでまいりましょう。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 あなたがイスラエルに何を期待し、何をどのように裏切られたのか、あなたは何を「わざわい」と言われるのかを、私たちは共に聞きました。そしてそれ以上 に、私たちの罪、私たちのあなたへの挑戦と嘲笑を、ご自身のからだをもって、その肉と血とをもって受け止め、担い通し、克服された方イエス・キリストを聞 き、知らされました。それによって今、私たちに告げ知らされ、示され、与えられた「さいわい」をも知らされ、知ることがゆるされました。
 どうか、あの「わざわい」の道ではなく、この「さいわい」の道を、復活の主イエスと共に歩み、それを通してお互いをも共に生きる者たちとして歩み、生きて行くことができますよう、私たち一人一人と教会を、今日も、また今週も送り出し、導き、お用いください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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