主はだれのために怒り、嘆くのか             
                                       
イザヤ書第5章1〜7、16〜17節
          

 預言者は人々の前に立って、ただ叫んでいただけではありませんでした。神からの預言の言葉、メッセージを伝えるために、彼らは時に特別な行動や 振る舞いを行ったのでした。エゼキエルという預言者は、1年以上もの間横になって寝ていろと、神様から言われました。またある時は、家の壁に穴をあけて、 夜そこから逃げ出せと言われました。ほかの預言者たちも、様々な行いによって神のメッセージを伝えました。時には歌を歌い、また時には踊りを躍ることさえ したかもしれません。
 ここで預言者イザヤは、一つの歌を歌います。それは、期待と失望の歌、喜びと大いなる悲しみの歌です。「わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑に ついてのわが愛の歌を歌おう。」それは、預言者の「わが愛する者」、一人の大切な友のために歌う歌です。その「友」が持っていて、極めて大切にした「ぶど う畑」の歌を歌おうとするのです。「わが愛する者は、土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑を持っていた。」その「友」が愛した「ぶどう畑」とは、その 「友」にとっての、大切な愛する人をも暗に指しているのです。彼「友」は、そのぶどう畑のために最善を尽くし、世話をし、「ぶどうの木」を育てようとしま した。「彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望ん だ。」まさに「丹精を込めた」という言葉がぴったり合うような、愛情と配慮と労苦に満ちた世話をしたのです。「友」は、それだけ愛の労苦をしたのですか ら、それにふさわしい実、まさに結果、「良いぶどう」が実るのを心から期待し、喜ばしい期待をもって待ち望んだのでした。
 ところが、実際はどうだったでしょうか。それは、期待とは裏腹、全くもってひどい結果、失望と落胆に他ならなかったのです。「良いぶどうの結ぶのを待ち 望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。」「野ぶどう」というと、何か「素朴な」とかいうイメージが湧くかもしれませんが、ある他の翻訳では「腐 れぶどう」となっています。つまり、「腐って」、全く食べられない、それどころか嫌悪と失望を自ずから招くような、そんなひどい実が結んだのです。預言者 イザヤは、今この「友」のために、この「友」に代わって、この「友」と共に嘆き、歌ってあげようとするのです。「わたしはわが愛する者のために、そのぶど う畑についてのわが愛の歌を歌おう。」

 このイザヤが歌う「ぶどう畑の歌」は、いったい何を伝えようとしているのでしょうか。預言者にとって「友」とは、主なる神、彼が愛と忠実をもって仕えて いる方でしょう。ならば、その「友」、主なる神が愛してやまない、そのためには様々な骨折り、労苦をもいとわない、「ぶどう畑」とは何でしょうか。それ は、この文脈では、神が選ばれ愛された民「イスラエル」にほかなりません。「万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物 は、ユダの人々である。」そして、発展的にさらに言うならば、このイスラエルに代表される、すべての人、私たちは一人一人をもそこに見ることができます。
 主なる神が、愛をもって選び、愛情を注いで様々な労苦をし、丹精を込めて育てた「イスラエル」。神が彼らに心から期待し、望んだものは「良いぶどう」、 「公平」「正義」でした。それは、イスラエルが神と社会の隣人との間に、正しい関係を結んで、正しく共に生きて行くことを意味しています。神とイスラエル との関係が、互いの隣人同士、さらには社会における人と人との関係の中に映し出され反映して行くことを望まれたたのです。神が求められる「公平」「正義」 とは、神がイスラエルに対して行われたように、慈しみと愛がこもったものです。弱い者を助け、倒れた者を起こし、罪を犯した者を救い出す、そんな「正義」 であり「公平」なのです。後に「第三イザヤ」と呼ばれる預言者はこう語ります。「わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、し えたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入 れ、裸の者を見て、これに着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどのことではないか。」(イザヤ58・6〜7)
 ところが、実際に「イスラエル」が結んだ実は、「野ぶどう」「腐れぶどう」、「流血」と「叫び」だったのです。「主はこれに公平を望まれたのに、見よ、 流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。」「流血」とは、単に「暴力沙汰」や「争い」という意味ではないと思います。それは、人の「血」、つまり人の命が ないがしろにされ、踏みつけにされ、人が「生きる」ということが損なわれ、傷つけられ、倒されて「血が流され」、ついには命が損なわれ死に至って行くとい う事態が、表されています。そして「叫び」とは、そのために起こって行く、人々の「叫び」、特に貧しい人、弱い人たちが倒されて、ついには死に至って行く 際に起こされる「叫び」、うめき、さらには、だからこそ救いと裁きを求めるその「叫び」をも意味していると思います。
 実際には、この時代、イザヤが生きていたユダの国では、経済活動が盛んになるにつれて、階層分化が進み、貧富の差が拡大してしていました。その中でこう いうことが起こっていたのです。8節以下の部分です。「わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、田畑に田畑をまし加え、余地をあまさず、自分ひとり、 国のうちに住まおうとする。」そこでは、「家に家を建て連ね」「田畑に田畑をまし加え」というように、資産を次々に自分たちのところに集中させ、経済成長 をどこまでも推し進めようとする経済的富裕層、彼らを支える支配者層の欲望と策動がありました。それは、「自分ひとり、国のうちに住まおう」という、自己 利益のあくなき追及が目指されていたのです。それが、貧しい者、弱い者たちへのさらなる収奪と抑圧を生み出し、これらの人々はそのためにますます窮乏し、 苦しみ、悲しみのうちに損なわれ、傷つき倒れ、時には死んで行ったのでした。それは、ただ古代イスラエルだけの話ではありません。『中日新聞』の9月29 日号に、最近始まった新しい税制度「インボイス」制について、こんな言葉が記されていました。「『弱者狙い撃ち』悲鳴」。「悲鳴」、それが「叫び」にほか なりません。今、現代も、私たちの間でも、同じようなことが起こされているのではないでしょうか。預言者の「友」主なる神は、この「ぶどう畑」の期待外れ の結果に、失望と悲しみを隠すことができないのです。「主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。」

 そしてここから、調子が急に変わります。今までは、預言者が「友」神のために、「歌を歌おう」という、それでも一定の「距離」を取った仕方で歌われ、語 られて来たのが、ここからは、その「距離」がぐっと縮まって、預言者に、あたかも「神が乗り移った」かのように、イザヤは神の思いと訴えを、「神の代理 人」として語り出すのです。「それで、エルサレムに住む者と、ユダの人々よ、どうかわたしとぶどう畑との間をさばけ。わたしが、ぶどう畑になした事のほか に、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。」どうなのか、私(神)に不足や怠慢があっ たのか。そうではないだろう、私は最善・最良のことをあなたがたに対して行ってきた。それなのに、「野ぶどう」「腐れぶどう」を結んだのはどういうこと か。あなたがたに、何か弁明や言い訳があるのか、成り立つのか。そんなものは決してないだろう。
 そうして、預言者はついに「裁き主」「裁判官」のようになって、この「ぶどう畑」、イスラエルに対して、ひいては私たちすべての者たちに罪を示し訴え、 裁きを下すのです。「それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、あなたがたに告げる。わたしはそのまがきを取り去って、食い荒されるにまかせ、そ のかきをとりこわして、踏み荒されるにまかせる。わたしはこれを荒して、刈り込むことも、耕すこともせず、おどろと、いばらとを生えさせ、また雲に命じ て、その上に雨を降らさない。」

 けれども、皆さん、預言者は、神の厳しい容赦のない裁きの向こうに、いつも神の救いを見ていました。ですから、色々な預言者たちの書を読むと、裁きの宣 告の後に、たいてい救いの預言が語られて行きます。これは時間的にそういう経過をたどるというよりも、彼ら預言者たちが、同時に神の裁きと救いとを見てい た、見させられていたということではないでしょうか。預言者イザヤも、この神の「ぶどう畑」イスラエルに対する裁きと同時に、その向こう側にはるかに神の 救いを見、それを待ち望んていたのだと思います。イザヤはこう語るのです。「人はかがめられ、人々は低くせられ、高ぶる者の目は低くされる。しかし万軍の 主は公平によってあがめられ、聖なる神は正義によっておのれを聖なる者として示される。こうして小羊は自分の牧場におるように草をはみ、超えた家畜および 子やぎは荒れ跡の中で食を得る。」来たる後の救いの日に、イスラエルには、そして私たち人間たちにも決して期待することも、実際に得ることもできない、 「公平」と「正義」を、主なる神ご自身が持ち来たり、実現し、ご自身の働き・業として示し、ご自身があがめられ、ご自身を「聖なる者」として表わし、示さ れるのだというです。これは要するに、私たち人間が罪のためにできないし、やる気もないことを、神ご自身が引き受け担い、代わりに行い、それも見事なまで に行い、そうして神ご自身の「聖なる者」としての栄光を表されるということではありませんか。
 そのような働き、そのような道を、今私たちはイエス・キリストの言葉として聞いているのです。「わたしはまことのぶどうの木」(ヨハネ15・1)。「良 いぶどうの木」となることができず、「腐れぶどうの木」としてしか、自分たちを表わし示すことのできないイスラエル、また私たちのすべての者に代わって、 神はイエス・キリストにおいて、ご自身が「まことのぶどうの木」となって、ご自身とその「公平」「正義」を表し、行われたのです。そうして、この「良いぶ どうの木」である神、イエス・キリストご自身に、私たちを結び付け、つなぎ合わせることによって、私たちを創り変え、私たちの中にも神の「公平」と「正 義」そして「慈しみ」と「平和」を行わせようとする、神の恵みの業が今イエス・キリストによって始まっているのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたは その枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」(ヨハネ15・5)
 渡辺英俊という方が書かれた『わたしの信仰Q&A キリスト教って何だ』という本があります。色々なことを学ばせていただいている本です。そこから二つの問答を紹介して終わります。
 「Q99 キリストの生涯と十字架は、収奪と抑圧の仕組みに安住し、それを利用して弱い者から奪い、苦しめている者たちにとって、どのような意味がありますか。
A99 奪って富み栄えている者たちは、十字架につけられたキリストの姿によって、自分たちのあり方がどのような悲惨を生み出しているかを、目の前に突き つけられます。そして、その苦しみを担っておられるのが神ご自身であることを知り、畏れと悔い改めに導かれます。神は、富む者や抑圧する者たちも、そのよ うにして良心を呼び覚まされ、人間の心に立ち返ることを求めておられるのです。」
「Q102 解放への歩みの中で、キリストを信じることはどのような意味を持ちますか。
A102 キリストを信じる人は、キリストの生と死の姿の中に、この世界に対する神の関わり方が示されていることを知り、キリストに従って神の解放の働き に参加することを望むようになります。それによって、神に造られた本来の自分を取り戻す歩みを始めることができるのです。」(渡辺英俊『わたしの信仰 Q&A キリスト教って何だ』より)
 「主はだれのために怒り、嘆くのか」、それはこの世のすべての者たちのため、罪と悪によって嘆き苦しむ私たちすべての者、とりわけ弱く、貧しくされてい る者一人一人のために、です。このお方が歌われるその歌に聞き、そのリズムとメロディに促され、動かされ、共に歌い、共に生きて行く、そのような私たちの 道、この一週間の歩みとなりますよう、切にお祈りします。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべての者を極みまで愛された神よ。
 預言者イザヤは、あなたの嘆きの歌を共に歌い、共に聞き、共に語りました。あなたはイスラエルに対して、また私たち一人一人に対して、「神のぶどう畑」 「ぶどうの木」として大いなる喜びと期待を抱かれましたが、私たちはそれを徹底的に裏切り、あなたを失望させ、悲しませました。
 そんな私たちに代わって、あなたは救い主イエス・キリストを私たちの世に送られ、イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と語られました。このイエスを 信じ、このイエスにつながり、このイエスに従い、このイエスと共に生きることによって、私たちも新しく創り変えられ、もう一度あなたの「ぶどう畑」として 生き直し、あなたの「公平」と「正義」、また「慈しみ」と「平和」とを目指して、共に生きて行く力が与えられると信じます。どうか私たち一人一人と教会を この歩みこの道へと招き、歩ませ、導き、ゴールまで至らせてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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