主はだれと共に立つか             
                                       
イザヤ書第3章12〜15節
          

 今月から、『聖書教育』に基づいて旧約聖書の「イザヤ書」を12月半ばまで取り上げます。「イザヤ書」は、大きく三つの部分に分かれます。第1 章から39章までは、「第一イザヤ」と言い、その背景・舞台はイスラエル・ユダの王国時代です。次の40章から55章までは「第二イザヤ」と言い、国が滅 んで人々がバビロンへ連れて行かれた「バビロン捕囚」の最中が舞台・背景となっています。さらに、55章から最後の66章が「第三イザヤ」で、「バビロン 捕囚」後が舞台となっています。今回は、「第一」と「第二イザヤ」を取り上げます。今月は「第一イザヤ」です。

 さて今月取り上げる「イザヤ書」の四つの箇所には、それを貫くキーワードがあります。それは「ぶどう畑」「ぶどう」です。「ぶどう」、それはイスラエル では特別な果物でした。「イスラエル地方のぶどう畑は、特別に扱われていました。獣の侵入を防ぐために垣根や防壁で囲まれ、搾り場が掘られ、見張りのやぐ らが立てられました。ぶどう畑には、ぶどう以外の種は蒔かれませんでした。またぶどう畑には、地面を耕して良好な排水状態に保つこと、雑草を取り除くこ と、枝の手入れと刈り込みなど、たくさんの手が必要でした。」(『聖書教育』2023年10月号より)
 今、この「ぶどう畑」をめぐって、一つの裁判、裁きが行われようとしています。聖書には、裁判の場面や裁判のイメージ・たとえが多く出て来ます。ある人 によれば、「聖書はその全体が、一種の裁判形式によって書かれている」とさえ言えるそうです。ここに始まる「ぶどう畑」をめぐる裁判は、独特の、前代未聞 の裁判です。なぜならば、ここで裁判のために立ち上がるのは、主なる神御自身だからです。「主は言い争うために立ち上がり、その民をさばくために立たれ る。」「言い争う」「さばく」という言葉は、すべて「裁判」を表しています。主なる神御自身が、この「ぶどう畑」をめぐる裁判を起こそうとして、今立ち上 がられるのです。
 それは、どんな立場・役割をもってでしょうか。一つ考えられるのは、「裁判官」としてということです。これは一理あります。それは、私たちが一般に思い 描く「裁き主」としての神様のイメージによく合います。でも今回、もっと有力だと思わされたのは、「裁判を起こし、訴える人」、つまり「原告」として神は 立たれたのだ、という解釈です。裁判を起こすのには、何よりもまず「訴える人」「原告」がいなければなりません。「私は、これこれこういう不利益を受け た。こういう人権侵害をこうむった。だから、相手『被告』としてだれだれを訴える。どうか、私の訴えを取り上げ、正当に裁いてほしい。」神様は今、そうい う立場において立ち上がっておられるのではないでしょうか。
 こうして今、主は訴え始められます。「主はその民の長老と君たちとをさばいて、『あなたがたは、ぶどう畑を食い荒らした。貧しい者からかすめとった物 は、あなたがたの家にある。なぜ、あなたがたはわが民を踏みにじり、貧しい者の顔をすり砕くのか』と万軍の神、主は言われる。」主なる神が「原告」として 訴える相手「被告」は、誰でしょう。それは、「その民(イスラエル)の長老と君たち」です。それは、イスラエルの国、民の上に立てられ、彼らを導くべき宗 教的・政治的指導者たちです。その究極の上には、王がいます。主は今彼らを「被告」として立ち上がり、訴えを起こされるのです。その訴えはこうです。「あ なたがたは、ぶどう畑を食い荒らした。」

 この「ぶどう畑」とは、いったい何を言い表しているのでしょうか。それは、まさに「イスラエル」そのもの、何よりもそこに暮らし生きる民、人々を表して います。また彼らが生き暮らすための、土地、畑、そして国土です。「イスラエルは神のぶどう畑として表されます。神がイスラエルの民を選び、外敵から守る ために防壁を張り巡らし、見張りやぐらを立てられました。またぶどう畑を耕し、良い実がなるようにと手入れをし、神が大切に守り導いてくださいました。神 がイスラエルの民をご自身のぶどう畑とし、こよなく愛し、手をかけて育ててくださった。」(『聖書教育』、同上)
 だから訴えは、こう続くのです。「あなたがたは、ぶどう畑を食い荒らした。貧しい者からかすめとった物は、あなたがたの家にある。なぜ、あなたがたはわ が民を踏みにじり、貧しい者の顔をすり砕くのか。」とりわけ神様が、ご自分を置かれる立場・位置は、「民」であり、「民」の中でも「貧しい者」たちです。 「貧しい者」とは、もちろん経済的意味での「貧しい者」でもありますが、それと共に、すべての社会的・経済的・政治的弱者を、代表して言い表しています。 孤児、寡婦、寄留者(外国人)、そして障がい者・病人、その他の者たちです。事実上、一番この訴えを起こしたかったのは、その人たちだったと思います。主 なる神は、この彼ら「貧しい者」たちとご自分を同一化して、彼らのために、彼らに代わって、そして彼らと共に、今立ち上がり、訴えておられるのです。
 その訴えはこうです。「貧しい者からかすめとった物は、あなたがたの家にある。なぜ、あなたがたはわが民を踏みにじり、貧しい者の顔をすり砕くのか。」 そこでは、「民」、特に「貧しい者」たちへの搾取と圧迫が訴えられ、責められています。当時、西アジア地域では、最大の大国アッシリアが支配権を握り、他 の国々を攻め、支配し、あるいは脅かしていました。イスラエルまたユダの国も例外ではありません。「アッシリアの脅威をどう避け、どう守るか」、それが 「長老や君たち」、さらには王の最大の関心事だったのです。だから彼らは、「大国アッシリアに対抗するためには、少なくともそれに負けない力を、こちらも 持たなくてはならない、そうして抑止力を高めなければならない」と思いました。そのためには、もう一つの大国エジプトと軍事同盟を結ばなくてはならない。 そのためには、エジプトに大量の貢物を持って行かなければならない。今は、民の生活よりも軍事だ、国の威信を守ることだ。そういう方針で営まれる国の政治 では、「民」の生活、まして「貧しい者」たち、社会的弱者を助ける政策は、おろそかになります。それどころか、そのためには「取れるところから取る」とば かりに、「民」から、とりわけ「貧しい者」たちから搾り取ることが平然となされて行きます。その結果が、これだというのです。「あなたがたは、ぶどう畑を 食い荒らした。」それは、「貧しい者」だけを弱くし、損なうのではありません。それは、彼らが生きる社会を壊し、国土を荒らし、国をも亡ぼすのです。
 だから今、主なる神は「貧しい者」と共に立ち、訴えるのです。「主は言い争うために立ち上がり、その民をさばくために立たれる。」その上で主は「裁き 主」となって、イスラエルを裁き、その裁きを宣告されます。「大国と同盟を結ぶな。軍事力をはじめとする力に頼るな。イスラエルを守られる主なる神に頼 り、神をこそ信頼し、貧しい者たちを助けて、社会に正義と憐れみの業を行え。」この神の訴えと裁きをこそ、預言者イザヤは語り、伝えるのです。
 そして神は、そのようにイスラエルを責め、裁くだけではありません。彼らを支え、導くべき、将来の神の御計画、ビジョン、約束を告げられるのです。それ は「平和の幻」であり、約束です。「終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべ て国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、『さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる。われわれはそ の道に歩もう』と。―――彼はもろもろの国のあいだにさばきをおこない、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきと し、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国に向かって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。」(イザヤ2・1〜4)

 主なる神は誰と共に立たれるのでしょうか。「貧しい者」たちと共に、です。それは、聖書全体の一貫した、一つの大きなメッセージです。私たちの救い主イ エス・キリストも、いったい誰とご自身を同一化されたでしょうか。それは、やはり特にこういう人たちなのです。「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べ させ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。」 「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」(マタイ25・ 35〜36、40)「かくして主は『貧しい者』と共に、『貧しい者』のために行為される。青年イザヤのこの予言の前に立って、我々は選ばなければならな い。自分の肉体をどこに運び、どこに据えるべきかを。そして我々はイザヤの予言に優って鮮明に、その選択を促す言葉を主キリストから聞いているのであ る。」(関田寛雄、『説教者のための聖書講解 釈義から説教へ イザヤ書』より)
 そのキリストとは、私たちの罪とこの世の悪のためにあの十字架にまで歩み、その十字架で神と人を愛してご自身が死ぬことによって罪と悪を克服し、そして 三日目に復活させられ、今も私たちと共に生き、共に歩まれる主なのです。「彼(注 韓国の詩人金芝河)はその作品の中で―――イエスは虐げられた民衆自身 であると訴えるのです。虐げられた民衆自身がイエスだと言うのです。イエスに従うということは彼らに従うことであり、イエスに出会うということは彼らに出 会うことであり、イエスを愛するということは彼らを具体的に愛することなのだ。それ以外にない。いまイエスはこの世のどん底におられる。―――すなわちイ エスはいま、私たちの前に立つこの人、あの人、また、ここに倒れている人の姿となって生きておられる。彼は宗教的人間ではないかもしれない。もちろんクリ スチャンであるとは限らない。イエスは虐げられ、差別され、苦しめる民衆である。このうように考えることが許されるとしたら―――隣人の存在は信仰の付録 ではなくなるのです。愛の業は『できたらしましょう』という領域をとびこえて、できるできないの点数さえも粉砕していくのです。もはや、なにができるでは なく、この目でイエスを見、この手でイエスの手を握り、イエスを目の前に具体的に感じ、イエスと語り合うのです。」(加藤潔『イエスを探す旅』より)今週 もこのイエスと共に歩んでまいりましょう。そしてこのイエスに出会い、そうして私たちも共に生きてまいりましょう。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 あなたはイスラエルの民を、御自身の大切な「ぶどう畑」として選び、愛し、育て、導かれました。とりわけその中の「貧しい者」たち、孤児・寡婦・寄留 者、そして障がい者や病人を愛し、彼らのために立ち、彼らのために訴え、語り、共に生きられました。そして御子イエス・キリストも、いやイエスこそ、ご自 身を「最も小さい者」と同じくされ、私たちの罪のために死に、そして今も復活の命を生きておられます。
 どうか私たち教会とその一人一人もまた、この復活の主と共に生き、歩むことができますように。その私たちが、この世において、どこに身を置いて、どのよ うな誰と共に歩み、どのように生き、働くべきかを示し、教え、お導きください。私たちが自らの働きと業、その歩みに疲れ、行き詰まり、かがみ込むとき、エ マオの途上と同じく、復活の主が私たちに伴い、私たちに聞き、私たちに語りかけ、私たちにご自身を恵み豊かに分け与えてくださいますように。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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