神に散らされて、様々に生きる             
                                       
創世記第11章1〜9節
                    ピリピ人への手紙第2章4〜9節

          

 ノアから再び始まった人間の歴史は、神の赦しと忍耐の中、進んで行きます。そのことの中で、新しい人間の歴史は、大きな発展を遂げました。まず何より、 数多くの人々が再び生まれ、増えて行きました。それだけではありません。著しい技術と文化の発展があったのです。今日の所にも、こんな記述があります。 「彼らは互に言った、『さあ、れんがを造って、よく焼こう』。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。」これは 「大いなる技術革新」なのだというのです。「れんがを焼く」という工法を用いることによって、れんがの強度が増し、今まで以上に丈夫で、高い建物を建てる ことが可能になったということです。それで、その結果どうなったのでしょうか。
 残念ながら、ここでも神のあの判断は正しかったようです。「人が心に思い図ることは、幼い時から悪い」(創世記8・21)。またしても人間は、愚かで悪 しきことを考え、計画し、実行し始めてしまったのです。「彼らはまた言った、『さあ、町と塔を建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げ て、全地のおもてに散るのを免れよう』。」この計画と業の、どこが悪いのでしょうか。
 それは、まず何より、「神への反逆」であるということです。「天に」町と塔を届かせようと言っていますが、「天に」とは、「神の領域に」ということで す。「山を見ていると、山のすぐ上は天に見える。が、山にのぼったからといって、天には手が届かない。天は限りなく高いのだ、天とは、人間の手の届かぬ高 いところを指すのであろう。つまり、神の域を指すのではないか。このバベルの町をつくろうとした人々は、神の域に迫ろうとしたのだ。人間でありながら、人 間の領分を越え、神の領分に踏み込もうとしたのだ。」(三浦綾子『旧約聖書入門』より)まさにそのことを裏付けるようにして、彼らは「われわれは名を上げ て」、「名を上げよう」と言っています。宗教改革者カルヴァンの神学・信仰の中心は「神の栄光」、「神のみに栄光を」ということであったと言われます。そ れを今日の所に引き付けて表現すれば、「神の名を上げよう」、「神の名が上がるように」ということであったのです。しかしバベルの人々は、「神の名を」で はなく、「われらの名を上げよう」と言ったのでした。「それは、アダム以来ずっと同じ問題、ずっと同じ罪にかかわること。世界の主人公は神さまじゃなく て、自分たちだと思い込む。自分たちが主人公になろうとします。―――大きなものを作るんだ。そうしたら、その塔を見る人々が、『このすばらしい塔を建て たのは、誰か。このバベルの人々だ。彼らこそがこの世界の主人公だ』、そういうふうに誉めそやしてくれるかもしれない。」(大頭眞一『アブラハムと神さま と星空と』より)だから彼らは、「散るのを免れよう」とするのです。後の展開を見ると、また振り返って「天地創造」のことを思うと、神の御心は、創られた ものたちが「生まれ、増えて、地に満ちる」こと、そうして「全地のおもてに散って行く」ことだったと思わされます。ところが、彼らはこの御心に逆らおうと したのです。「散らされることがないように、バベルにとどまって、バベルで永遠に自分たちの名をとどろかせる。」(大頭、同上)
 そして「バベルの塔建設」はまた、「力による強制」であったということです。多くの人々が、ここに政治権力、国家権力による強制を読み取ります。「全地 は同じ発音、同じ言葉」などということが、自然にできるわけはないからです。「ここに一つの思想統制の匂いを感ずるのは、うがちすぎであろうか。―――わ たしはどうも、この権力者の登場から、尾を引いて、バベルの塔に至っているような気がしてならないのである。―――戦時中、わたしたち日本人は言語思想の 統制を受けた。身ぢかなことでは、レコードを『音盤』、パーマネントウェイブを『電髪』と言わねばならなかった。―――こんな言葉の上のことだけならまだ いい。天皇を生ける神として、これに異を唱える者はたちまち投獄され、或いは命さえも奪われた。だからわたしは、国家が思想を統制し、戦争に狂奔する姿 と、バベルの塔を築く姿に、共通点を感じないではいられないのである。特に、神ならぬ人間を神としたことは、そのままバベルの塔の建設の動機にあてはま る。」(三浦、前掲書より)「全体主義の国家が、いかに人間の尊厳をないがしろにするか。一人の皇帝のもとに、一人の天皇のもとに、一つの思想のもとに、 みんなを一つにしようとする時に、一つになることを強制する時に、大きな苦しみが起こる。」(大頭、前掲書より)
 その結果、「バベルの塔建設」は、「多様性の抑圧と排除」、また「人が人を抑圧し排除する」ことにまで至ったのだと思われます。もともと神は、人と生き 物を多様に、様々に、色々に創られたのです。しかし、バベルの力ある者たちは、その多様で様々な人々を、その言葉、その働き、その生き方を縛り、誘導し、 操作し、無理やり「一つ」にしようとしたのではないでしょうか。「強大な力のもとでは違いが失われ、人々は一つにまとめられます。―――一つになるといっ ても、それはみんなが同じになることではなくて、誰かに力を集めていくことです。違いをもった人々を取り込んでいって、同じようなものにしていくことで、 より大きな力をもつことができます。たとえば北海道にはアイヌの言葉があり、沖縄には琉球の言葉があり、台湾には台湾の言葉があり、朝鮮半島には朝鮮の言 葉がありました。しかし戦前の日本は欧米列強に対抗する力をもつために、北海道、琉球、台湾、朝鮮と次々に日本の中に取り込んでいき、日本語を使うことを 強要しました。言葉だけでなく、様々な違いを無くして『一つの民』にしようとしたのです。」(金沢キリスト教会ホームページより)「古代に大きな建築物を つくるということは、どれほど大きな犠牲を伴うことであったか。人の命が失われるということだけでなく、莫大な費用が費やされ、人々の生活は苦しいものと なり、労働者や材料は強制的に集められる。―――もともと多様であった―――ことばが、強力な支配者によって、統一させられた。人びとは自分たちのことば ではなく支配者のことばを使うように強制された。そのとき、人びとは一つの身勝手な目的を強制され、ひとにぎりの人びとのために奴隷のように重労働にあえ ぐことになりました。」(大頭、前掲書より)

 このようなバベルの人々に代表される、人間たちの計画と業に対して、主なる神はすぐさま対抗し、反対し、挫折させる行動に出られました。
 まず神は、そのために「下って」行かれました、「時に主は下って」。これは、実に皮肉な言葉です。あれほど人々が「高く、もっと高く」と建て上げようと したバベルの塔でしたが、それすら神にとっては、わざわざ「下ら」なければならない程度のものでしかなかったのです。ここには、何ものも及ぶことができな い、「神の至高性」が表されています。同時に、人間の悪しき業、それがために人間自身が自滅していくほかはない道を裁き、阻むために、なんとかして、たと え神自らの場所を離れ「下って」でも、それをなさろうとする神の、さらなる憐れみと忍耐が表されているのではないでしょうか。
 次に神は、「言葉を乱され」ます。「さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう。」そこで全地は色々な言 葉に分かれるようになったというわけなのですが、実はもうその前から、人間同士の間で既に崩壊の兆しが起こっていたのではないでしょうか。「バベルの塔を つくりはじめた人々は、初めのうちこそ協力した。だが、そのうちに、ある者はあのことを思い、かの者はかのことをねがい、自己の主張を通そうとしてゆずら ない。―――いわゆる言葉がわかっても、わがまま勝手になり、喧嘩になり、果ては全く意志が通じなくなり、てんでんばらばら、他の国に散って行ったと考え られなくもない。」(三浦、前掲書より)
 こうして神は、彼らを「全地のおもてに散らされ」ました。「こうして主が彼らを全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てることをやめた。」このこ とは、何よりも「神の裁き」でしょう。しかし同時に、実は「神の救い」であり、「神の祝福」につながるようなことではなかったか、と言われています。それ は、「神に散らされて、様々に生きる」、自由と力が与えられたからです。「神さまはそれ(注 バベルの塔建設)をとどめるために、ひとつであったことば を、多様なことばに、解き放った。人びとがただの労働力とだけ見なされて、こき使われるのではなく、人びとが持っている多様性を解き放つ。人びとが住む場 所を選び、生き方を選ぶ自由を、言葉を解き放つことによって、神さまが与えてくださった。」(大頭、前掲書より)「一つであること、違いを認めないこと、 それはだめだと言ったのです。だから違いをつくり出し、全地に散らしたのです。―――同じだから神の意志に適わなかったのであって、神は違うことを祝福 し、良しとしたことを示しているのではないでしょうか。違うことが大事なのだ、それが人間の救いなのだ、と。どういう救いかといえば、違いがあってよいと いう救いであり、違うことが祝福されるということでしょう。―――人間というものは、いろいろ異なる言語があってよいし、いろいろ異なる民族がいてもよい し、いろいろ異なる文化があってよいということです。そういうお互いに違いを大切にしていくことこそが、人間にふさわしいということです。多様性を認め 合って、お互いが相対的であることを認め合って、そして共存していくことが、神の意志に適うことであり、神はそれを祝福されるということなのです。」(高 柳富夫、ブログ「なんちゃって牧師の日記」による)

 この「バベルの塔」の物語は、よくペンテコステ、「聖霊降臨」の出来事と比較対照されます。あの時、イエスの弟子たちの間に神の霊、聖霊が降った日、不 思議にも弟子たちは、いろいろな他国の言葉で話し始めたと言われています。それを聞いた様々な地域の、様々な言葉の人たちは、口々にこう言ったと言われて います。「わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どういうことか。」それはこういうことではなかったでしょうか。 「その言葉が、聞く一人一人の心にまるで『生まれ故郷の言葉』のように響いたのです。『アットホーム』という言い方があるでしょう。『ひどくほっとする言 葉、懐かしい言葉、私が本当に帰るべきところへと導く言葉。心の底からの平安と慰めを与える言葉。私がずっと心の底から聞きたいと求めていた言葉』。」そ れは、それぞれが全く違う言葉を話していても、「一つとされる」ことができるのだということの、まぎれもない「しるし」ではなかったでしょうか。
 このことは、バベルの人々とは対照的な、一つの生き方、一つの道、一人の方によって、開かれ、導かれ、実現されて行くのではないでしょうか。バベルの人 々は、「高く、高く、上に、上に」と生きようとしました。しかし、この一人の方は、それとは全く反対の、実に対照的な道を選び、歩み、生きられたのです。 「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿にな られた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(ピリピ2・6〜8)このお方イエス・ キリストによって開かれた、この新しい道、新しい生き方、新しい命によって、私たちも、神が私たちを超えて高く愛と恵みに満ちておられることを受け入れ、 神によるすべてのものに向けての祝福と多様性を受け入れ、自分自身もそれによって生かされ、同時にすべての他者の多様性を喜んで受け入れて、共に生きるこ とができるようにされて行くのです。私たちは、神に散らされて、様々に生きるのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 あなたは私たちを、多様に、自由に、様々に生きることができるものとして創り、豊かに祝福されました。しかし、私たちはあなたの愛と恵みの力と導きを信 じ受け入れることができず、それがために他者の違いを喜べず、喜ばない者となりました。その結果、無理やりに、力をもって「一つになろう」「一つとなれ」 という動き、促し、強制に引きずられ、振り回され、負けてしまって、他者お互いを縛り、抑圧し、苦しめることに加わってしまいます。
 そんな私たちのために、あなたは「下って」、私たちを裁きつつ、しかし豊かに助け、救ってくださいます。その「神によって下る方」イエス・キリストに よって、私たちも、あなたと隣人に向かって開かれ、変えられ、全く違うお互いを喜び、赦し、また受け入れて、共に生きる道へと導かれ、至らされますから、 心から感謝し、御名を賛美いたします。どうか私たち一人一人とその教会を、このあなたの道における証し人また奉仕者として、送り出し、導き、豊かにお用い ください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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