失望と幻滅から立ち上がって生きる             
                                       
創世記第9章18〜28節
             ローマ人への手紙第3章10〜12、21〜23節
          
 「失望と幻滅」、それがこの箇所を読んだ時の偽らざる感想ではないでしょうか。あのノアが大失態をさらしてしまっているのです。
 ノアとは、大洪水によって、他のすべての人々、またすべての生き物が滅んだ中で、ただ一人神に恵みをいただいて生き残った人なのです。またノアの恵み を、たまたまいただいて生き残ることが許された、彼の家族たちなのです。ならば洪水後は、このノアこそは、さぞ良い、すばらしい生き方をし、それによって 新しい世界を導いて行っただろうと思うかもれません。作家の三浦綾子さんも、このように書かれています。「このように神に祝福されたほどの、高潔な信仰の ノアとその家族八人だけの世界である。さぞや、天国のように清く平和に生きたにちがいないと、誰しも想像したくなるのは当然であろう。人類が滅亡するとい う神の予告に恐れおののいて、心を合わせてあの大きな箱舟を作り上げたからなのだ。生き残った八人は、いよいよ神の前に正しく、清く、平和に生きるはずで ある。」(三浦綾子『旧約聖書入門』より)
 ところが実際は、そうではなかったのです。まったく違っていたのです。「さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、 天幕の中で裸になっていた。」なんとノアは大酒を飲んで酔っ払い、裸になって寝ていたのです。このノアの姿それ一つで、「もう失望、幻滅した」という人も いるでしょう。それは、「ただ一人生き残った義人」というイメージからは懸け離れた、「醜態」と言ってもよいような姿ではないでしょうか。それでも、「そ れは一時の過ちで、人間そんなに完璧に生きられないよ」という「優しい人」もいるかもれません。でも、それは本当に「一時のこと」で、ノアの「正しい」本 質は変わっていないと言えるのでしょうか。先の三浦綾子さんは、もっと厳しい見方をしておられます。「おそらく、この世に自分たちが生き残ることができた ことを、つい誇りたくなったのではないかと思う。『自分たちを嘲笑したあの男も女も、みんな滅びたじゃないか。やっぱり自分たちは、あの滅ぼされた人間ど もとはちがうのだ。選ばれた家族なのだ』という傲慢な思いが、ぐいと頭をもたげなかったと断言できるであろうか。わたしはとても断言できないと思うのであ る。―――飲酒をすべて罪とか不信仰とは言えないが―――こんな酔い方をしたノアは、決して洪水前のノアではなかったとわたしは思う。」(三浦、同上)
 それだけではありません。これにさらに輪をかけて、ノアの顔に泥を塗るような行為が、彼の息子によって引き起こされるのです。「カナンの父ハムは父の裸 を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」ハムとは、ノアの三人息子の二番目の人です。「父の裸を見たハムは、たぶんいやしい笑いを浮かべて、『おい、兄 弟たち、おやじさんがまっ裸で寝ているよ。来てみろよ』と言ったにちがいない。」(三浦、同上)ハムの行動の「いやしさ」と罪は、他の二人の兄弟の振る舞 いと比べると、よくわかります。「セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかっ た。」確かに父の振る舞いはほめられたものではないが、それでもそれをあからさまにさらして、辱めるのは間違っている、そう思って、父をかばい、その罪を 覆おうとしてくれたのではないでしょうか。そこには、遠慮があり、礼儀があり、思いやりがあります。しかしそのハムもまた、実は「失望と幻滅」の中にあ り、だからこそあんな行動に出てしまったのかもしれません。「なぜそうしなかったか。それは、洪水以前のノアでなくなっていた父を、ハムは尊敬できなく なっていたのではないか。そして、父を尊敬できないハム自身も、そのあり方が変わっていたのであろう。」(三浦、同上)不信がさらなる不信を呼び、軽蔑が さらなる軽蔑を呼ぶ、そんな悪循環が、もうこの新しい人間たちの世界に起こり、始まってしまっているのではないでょうか。

 ここを読むとき、改めて思うのです。「神は正しかった。神の洞察はまさに正しかった。」「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い 図ることは、幼い時から悪いからである。」(創世記8・21)「人が心に思い図ることは、幼い時から悪い」。まさにそうなのです。人間が「心に思い図 り」、そして実行し、生きて行ってしまうその生き方は、「幼い時から」、物心付くより前に、誰に教えられることなく、そもそも悪いののだ。それは、どうし ようもなく、人間の心と体と生き方に「刻み付けられ、染み込んでしまっている」というほどに悪いのだ。それは、どうしようもないほどなのだ。そしてそれ は、このノアのような人でさえも、例外でないのだ。「正しい人である」と認められ、神の恵みを受け、ただ一人大洪水から救われ生き残ったような人でさえ も、この悪と罪の力、その鎖から逃れられないのだ。そのようにして人は、どんなにしても、またしても罪の世界を作り、罪の歴史を刻んで行ってしまうよりほ かはないのだ。パウロは、まさにこのことをこう言い表しました。「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての 人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(ローマ3・10〜12)
 ではこれに対して、神は再び「悔いた」のでしょうか。「ああ、やっぱりこんなノアなんか助けるべきではなかった。もう後悔した。もう一度人間たち世界を 滅ぼしてしまおう」と思われたのでしょうか。いいえ、決してそうではなかったのです。主なる神は、もはや決して「悔いる」ことなく、「悔いる」よりも、 もっとはるかに良いことを考え始められたのです。もっと違うこと、もっとはるかに優れたことを、神は考え、模索し、実行しはじめられたのです。それは何よ り、まず「受け入れる」ことだったと思います。この人間、こんな人間、「失望と幻滅」を生み出すしかない人間、でもまさにこの人間を受け入れ、そこから新 しく始めること。「失望と幻滅」から立ち上がり、こんな人間であるということを受け入れ、この人間を相手にし、この人間から始めて、この人間をこそ救い、 導き、変えて、それによってこの世界をも新しく創り、変えようとすること、そのことを神はここから全く新しく始めて行こうとなさるのです。
 では神は、結局どうなさったのでしょうか。どんな道を選び、どんな歩みと業を成されたのでしょうか。きっと神は、「脅しや励ましによって人間を導いて、 人間を、神が要求されるレベルまで引き上げる」というやり方を捨て、やめられたのだと思います。「人間を引き上げる」のではなく、全く逆、「神が人間のと ころまで降りて行き、神が人間と共に歩み生きて、その中から人間を導き、救おうとする」、この道を神は選ばれたのではないでしょうか。それが、イエス・キ リストの道であったのです。神は、御子イエス・キリストを、全く一人の人間としてこの世に送り、イエス・キリストが「真の人」として、神を愛し人を愛して 生きたその「真実」、この「真実」によって、私たち人との関係を全く新しく結び直し、その新しい関係を通して私たちを一歩一歩創り変えて行く。そのように して全世界を、一歩一歩創り変えて行く。そうしてついに神の国を来たらせ、新しい天と新しい地を来たらせる。まさにこの道を、神は選び、歩み、生きておら れるのではありませんか。「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯 したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。」(ローマ3・ 22〜24、聖書協会共同訳)

 それが「神の道」であるなら、それに答えて行く私たちの道は、どんなものとなるのでしょうか。
 私たちもまた同じです。神が、こんな人間、「失望と幻滅」の人間から始められるのなら、私たちもまた、いや、私たちこそ、この人間から始めるのです。私 たちも、わたしたちこそ、このような現実の人間、罪ある人間の悪なる現実を受け止め、そこから始めて行くほかはありません。ある方は、「罪ある人間の現実 を、自分たちの内に受けとめない」、そういうあり方こそ、戦争、つまり究極の罪の業の根源となっていくのだと言っておられます。「戦争における人間の認識 は二つしかない。一つは、戦争を起こそうとしている『悪の存在がどこにいる』という認識である。もう一つは、その悪を撃退しようとしている『善なる存在が 必要である』という認識である。この二つの認識が私たちを戦争へと向かわせる。」(奥田知志『いつか笑える日が来る』より)それは、「私たちは悪くない、 罪は私たちの内にはない。悪いのは、彼らなのだ」と、悪や罪を自分たちの「外」に置き、捉える見方、考え方、生き方です。その「彼ら」とは、時に「ロシ ア」であり、「北朝鮮」であり、「中国」であり、「ISIS(イスラム国)」であり「テロリスト」なのです。「悪なる彼らを防ぐためには、軍事力が必要、 ミサイルと戦闘機と軍事基地が必要」となるのです。けれども、イエス・キリストによる神の道を知らされるとき、私たちは変えられます。「本当の宗教なら ば、人間をそのまま受けとめねばならない。人間を英雄としてのみとらえ、『罪』や『悪』を隠蔽し、栄光化するのは人間に対する侮辱だと思う。人間とは罪人 のことである。―――イエスがこの世界に来られたのは、罪を贖い、私たちに希望や愛を与えるためである。さらに、『悪』を外在化し、自分を『善』の側に置 く私たちに、『いや、あなただ』『あなたの中に悪がある』ことを指摘するためである。―――『いや、あなただ』と告げるために、イエス・キリストは世に来 られた。―――今日この時代において、このイエスのことばにさらされることが、平和への道のスタートになるように思う。」(奥田知志、同上)
 そして私たちは、その「失望と幻滅」の中に留まるのではなく、そこからイエス・キリストの神によって立ち上がらされて行く、立ち上がらされて生きること がゆるされるのです。私たちが実際に、現実にしばしば経験するのは、まさに「失望と幻滅」です。どんにいい人であっても、どんなよいこと、すばらしいこと であっても、それはいつか終わる、「失望と幻滅」に終わってしまう。しかしそんな私たちのために、「イエスさまが与える新しいいのち、私たちがいただいた イエス・キリストの新しいいのちには力があって、その御霊の力が私たちを解き放つ。罪と死の力から私たちを解き放つ。―――あなたがたは生きる。御霊に よって。あなたがたは生きる、愛に生きる。罪に死に、愛に生きる。そのように私たちは御霊によって日々造り変えられています。神さまの愛を深く知るのと同 時に、私たちは自分たちの罪にさらに深く気づかされます。でも、深い所からまた癒されて行く。そういう歩みがもう私たちのうちに始まっています。ノアに賭 けた神さまは、イエス・キリストの十字架と復活においてその賭けに勝たれた。」(大頭眞一『アブラハムと神さまと星空と』より)
 そのようなイエス・キリストによって、イエスと共に生きる、私たちの歩みは、あの「父の裸を見ようとしなかった」、二人の息子と似たものとなるのではな いでしょうか。それは、赦しと配慮、そして尊敬と尊重とをもって、他の人々と共に生きようとする道です。「これは恥を見ないふりをしたとか、うやむやにし たという意味ではないと思います。『父の裸を覆った』(23節)というのは、父を赦した、ということではないかと思うのです。なぜ、そうできたのか?セム とヤフェトは自分たちが赦されて生きてきたことを知っていたからです。父に愛され、赦されてきた・・・。愛と赦しを受けてきたことを知る人は他者を愛し、 赦すことに努めるのです。―――父ノアの恥、それは人間的な弱さと言えるものかもしれません。彼らはそういう父を愛し、赦し、受け入れたのです。言い換え るならば、一人の対等な人間として受け入れたということです。私たちの生涯においての課題は愛と赦しに生きるということです。そしてそれは私たち自身が真 の親父、つまり、父なる神に愛され、赦された者だからこそ、そのように生きることに導かれているのです。」(石堂雅彦、赤塚バプテスト教会ホームページよ り)「失望と幻滅」から立ち上がって、私たちもまたそのように生きるよう、招かれ、呼びかけられているのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 ノアとその家族の現実は、まさに私たちの罪と悪の現実そのものです。しかしあなたは、そのような私たち人間を、裁き罰することによってではなく、またお だて持ち上げることによってでもなく、このままの人間、この罪と悪の人間、またその人間たちによるこの世界を受け留め、受け入れて、そこから新しく出発さ れました。そのあなたは、ついにイエス・キリストにおいて私たちのところまで来たり、どこまでも徹底的に私たちと共に歩み、共に生きることを通して、私た ちと関わり、私たちを導き、私たちを創り変え、この世界をも創り変える道を歩んでおられます。
 どうか、このあなたの道を、呼びかけられ招かれた私たちもまた、あなたと共に、復活の主イエス・キリストと共に歩み、生き、互いに助け支えて共に生きる 者としてください。教会とその一人一人が、このあなたの道の証人またしもべとして生き、仕え、働くことができますように。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



戻る