神の大きな祝福の上で生きる
創世記第9章1〜17節
マタイによる福音書第10章29〜30節
大洪水は終わり、ノアとその家族、またすべての動物たちは箱舟を出ました。そこで主なる神は、彼らに向かって厳かに語り始められます。8章の終わりから
です。「ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥のうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。主その香ばしい香りをかいで、心に言わ
れた、『わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度
と、すべての生きたものを滅ぼさない』。」そして、9章に入り、8節以下でこう言われます。「神はノア及び共にいる子らに言われた、『わたしはあなたがた
及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、箱舟から
出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水に
よって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起こらないであろう』。」「『すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。―――こうして、わたし
は、わたしとあなたがた、およびすべての肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべての肉なる者を滅ぼす洪水とはなら
ない』。」それは神がノアと彼から再び始まる新しい人間たち、またすべてのありとあらゆる生き物と結ばれる、新しい契約であり、主なる神の新しい決心で
す。またそれは、あの天地創造の初めに語られ与えられた祝福の確認であり、さらにその完全な更新です。「もはや、人の罪とこの世の悪のゆえに、このような
大洪水によって地を滅ぼすことは、決してない」との堅い約束なのです。そしてその理由は、「人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである」だという
のです。人間はもともと悪い、罪が彼らの中に入り込んだがために、幼い時から「悪を行わざるを得ない」ような性質を抱え込んでしまうっている。そんな人間
の罪や悪を、いちいち大災害を起こして責めても埒が明かない、だからもうこんな「大洪水」だとか「大災害」などというやり方は、今後一切取らないことにす
る、そう言われたのです。
ここで私たちは、抑えようもなく疑問が湧かないでしょうか。それなら、最初からそう「悟って」くださっていたらよかったのに、なぜ? 「人間は幼い時か
ら悪い、生まれながらにして罪人、だから洪水なんて起こさない」、そう初めから人間について、あきらめ半分にも悟り切ってくださっていたらよかったのに。
そうすれば、あんな大洪水は起こらず、数え切れない人たちが死なずに済んだのに。思わずそう問いたくなるのではないでしょうか。
しかし前回特に強調して申し上げたのは、「神様は、『悟り切る』ことなんてできない」ということです。「神は『悟り切る』なんておできにならない」。な
ぜなら、人間の罪と悪は、神にとってあまりにも重く、諦めるとか、「悟り切る」なんて、とてもできない事柄だからです。皆さんは、どう思われますか。私た
ちも、不十分ながら、この世界が決して完全ではないこと、それどころか、主に私たち人間の罪に基づき由来する、はなはだしい罪と悪に満ちているということ
を、おぼろげながらでも、いや、かなりの程度感じ取り、わかっているのではないでしょうか。でも、私たちの多くは、どこかのところで、半ば諦め、半ば「悟
り切って」しまっているのではないでしょうか。「世の中なんて、こんなものさ。人間はもともと悪い面もいっぱい持っているんだ。だから、こんな世の中を変
えようとか、良くしようとか、あまりやっても仕方がないんだよね。て言うか、ほとんど無駄なんだよね。それに私とか、弱く無力で、ほとんど何もできないと
思うんだよね。正直なところ、私は自分のことで精一杯だから、この世の悪をどうにかするとか、そんな大変で疲れること、ほとんど実を結ばないことは、やる
気も力もないんだよね。」それが、私たちの「本音」なのではないでしょうか。
しかし神は決して、諦めることも、悟り切ることもおできにならないのです。人の悪は、この神に対して恐るべき痛みと苦しみをもたらすのです。主なる神
は、人の悪、この世の罪を、とうてい受け入れることができず、絶対に我慢ができず、どうにも耐えることができないのです。神は、人の罪とこの世の悪のため
に七転八倒、はなはだしく痛み、苦しみ、さらには葛藤し、悩み、ついには「失敗」し、「後悔」までなさる方だというのです。その神の、驚くべき苦しみと葛
藤と悩み、そしてなんと「失敗と後悔」の末に、神は今はっきりと態度を決められ、最終の結論を下され、そしてそれを宣言し約束なさったのです。「今後決し
て、人の罪とこの世の悪のゆえに、あの大洪水のような災いや悪を起こすことは、絶対にしない。」
だから今日私がぜひともお伝えしたいことは、「大切なのは今なのだ」ということです。過去にどのようなことがあったか、起こったかということは、もはや
問いますまい。そして皆様にも、問わないでいただきたいと思うのです。今、まさに今、私たちはこの神の新しい決心の上に立ち、新しい契約の上に立ち、新し
い祝福の約束の上に立って、生かされ、生きることができるということなのです。色々と私たちには分からないことがあり、それは多いけれども、少なくとも、
いや、絶対に確実にこれだけは言えるということです。それは、私たちは、この神がノアとの間に立てられた新しい契約の後に生きている、生かされているとい
うことなのです。だから今や私たちは、この神の決心、神の契約、神の祝福を信じて生きることが許されるということなのです。
それは、改めて、どんな契約、どんな祝福なのでしょうか。
それはまず何より、神は「起こさない」と言われたということです。「人の罪のゆえに、それに対する裁きと罰のゆえに、あの大洪水のようなことは、一切、
決して起こさない」と言われたのです。と言うことは、確かに今なお様々な災害や悪は起こっており、確かにそれは私たちの気持ちや心を挫いてしまうほどに度
々起こっているけれども、それらすべては、決して「神の裁き、罰ではないのだ」ということです。様々な災害や悪が起こるたびに、私たちの多くは責められ、
苦しめられる思いになることがあります。また他者から、「それは神の裁きであり、罰であり、呪いなのだ」と決めつけられ、やるせない思い、ただでさえ苦し
いのに、それをさらに「鞭打たれる」ような思いになってしまうことがあります。多くの宗教者がそういうことを言います。「あなたの罪、先祖の罪によって、
その罰としてあなたはそんなに苦しんでいる。」さらには政治家までもがそんなことを言って、自分たちの責任を逃れようとするかもしれません。現代では、そ
れが非宗教的な形で、「自己責任論」として起こり、言われるかもしれません。要するに「あなた自身のせいだ。あなたの罪、過ち、失敗のゆえに、それに対す
る正しい見返りとして、罰、裁きとして、あなたにはこの悪がやって来、あなたは苦しまなければならないのだ」というわけです。しかし、神は言われ、約束さ
れたのです。「それは決して裁きや罰、呪いではない。あなたがたが、あなたが悪いから、その罪のせいで、悪にあい、苦しむのではない、決してない。」
次に神は、このノアとの契約の中で、一つの大きな原則を置かれました。それは、すべての命の尊厳、そのかけがえのない尊さ、大切さです。「あなたがたの
命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を
流すものは、人に血を流される。神は自分のかたちに人を造られたゆえに。」私たちは、この世の大きな悪、人間のはなはだしい罪の業に直面すると、諦めと共
に、半ば絶望し、半ば「慣れて」行ってしまうかもしれません。「災害で何千人が亡くなった。戦争で何万人が殺され、死んだ。それも、もうしかたがない。」
しかし神は、どこまでも「人の命」に、徹底的なこだわられるのだというのです。神は「ご自分のかたち」に人を創られたゆえに、一つ一つの人間の命、その存
在、その尊厳、その価値を決して忘れないし、ないがしろにはしない。もし万が一、その命が損なわれ、さらには失われたならば、決してゆるがせにはしない、
その損なわれ失われた一人一人を覚え続け、その一人一人のために、正当なしかるべき措置を取るのだと言われるのです。
そしてそれはさらに、神の永遠の祝福の意志の再確認です。「再確認」というと、あまり大したことではないかのようです。「ああ、そうだね」と言うだけの
ように。けれども、決してそうではありません。神は、この契約の確認として、その「しるし」として、「空に虹を置く」とおっしゃいました。神は御自身の祝
福の意志の「しるし」、その確認のために、空に大きく、あの七色の虹を描かれ、置かれたのです。神の祝福の意志は、あの大空に、大きく、鮮やかに描き、記
されたのです。「わたしはあなたがたを祝福する、そのためにわたしは、決してあきらめず、見捨てない。その祝福と救いのために、わたしはあらゆることを行
い、試し、そして選び、実行する。そしてわたしは、その祝福と救いを完成し、成し遂げるまで、絶対にことをやめず、どこまでもあなたがたと共に歩み続け
る。」そう言われたのだと思います。そして、その約束は今もあの大空に大きく描かれ、語られ続けているのです。このことを信じて生きる、この神の大きな祝
福の上に、私たちは生かされ、生きるのだということを信じて生きることが、今や私たちにはゆるされているのです。
でもやはり、私たちには疑問が湧き、残ります。でも、やはりこの世には、人間による酷い罪と悪があるではないか。あるいは、人間には必ずしもよらないは
なはだしい悪と苦しみが存在するではないか。先ほど、それらに対して、主なる神は決して「諦めた」わけでも、「悟り切った」わけでもないと、申しました。
では、神はどうなさるのでしょうか。神は、あの約束の通りに、必ず人の罪とこの世の悪に対して、何事かをなさろうとするのです。それが、この後聖書がずっ
と描き、語り続けて行くことなのです。
その果てに、神がどういう決断をなさり、どういう業をなさり、どういう道を歩まれたのかということを、私たちは知らされ、知っています。神は、イエス・
キリストにおいて、私たちの世に来られ、私たちと共に生き歩み、私たちを愛されたのです。それは、はたしてどんな決断であり、どんな御業であり、どんな道
であったのでしょうか。それは、「どこまでも、徹底的に、私たちと共にある」という道であり、決断だったのです。
イエス・キリストは、こう言われました。「二羽のすずめは1アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地
に落ちることはない。」(マタイ10・29)1アサリオンというのは、当時の最も小さいお金の単位だそうです。だから、「一羽のすずめ」は、1アサリオン
にも満たない、最も小さい、そして「価値が低い」とされるものでしょう。しかし、イエス様はこう言っておられるのだというのです。「そのうちの一羽さえ
も、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。」(岩波書店『新約聖書1』より、佐藤研訳)これはこういう意味だと言われます。一羽のすずめが「地に
落ちる時は神が支えつつ、共に落ちてくれる」!
(同上)「地に落ちる時は神が支えつつ、共に落ちてくれる」、なんと大げさなと思いますか。いいえ、私は「これが神の愛だ」と思います。なぜなら、神はこ
のイエス・キリストにおいて本当にその通りに、御自身の愛を表されたからです。神は、御子イエス・キリストにあって、御自身の命をすら投げ出して、「最も
小さい者」を愛し、徹底的に共にいてくださるからです。「あの日(注 「三・一一」東日本大震災の起こった日)、神はおられませんでした。ただし、私たち
の想定したその場所には、です。しかし、十字架のイエス・キリストの神は、あの津波のただ中で(注
共に)流されておられたのです。吹き出す放射能に(注 共に)されされ続けておられたのです。三・一一という十字架のただ中に神は(注 共に)おられたの
です。」(奥田知志『いつか笑える日が来る』より)ある方はこの愛を「ぶっちぎりの愛」と言いました。この「ぶっちぎりの愛」をもって、イエス・キリスト
の神は私たちと共におり、共に生きて、「あなたがたの頭の毛までも、みな数え」てくださっている、それほどに私たちを知り、心にかけ、愛していてくださる
のだというのです。
「にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう。」大空に、でっかく描かれた、神の永遠の祝福、この祝福の上で、今も私たちは生かされ、生きるのです。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
大洪水の後、あなたはノアと、また彼に続くすべての人間たち、またこの世に生きるありとあらゆる生き物との間に、全き祝福の契約を立て、そのしるしとし
て天に虹を置いてくださいました。あなたは、私たちとこの世界に住む者たちへの祝福のために、決して諦めず、捨てず、どこまでも働き、行動し、歩もうとさ
れます。その果てに、あなたは救い主イエス・キリストを送り、私たちとどこまでも、徹底的に「共にある」ことを選び、生き、貫かれました。このあなたのゆ
えに、私たちも生かされ、生き、共に生きることができますように、教会と一人一人を祝し、導き、お用いください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。