悔い、変わる神と共に生かされ、生きる             
                                       
創世記第6章5〜8節、第8章13〜19節


 今日と来週、そしてもう1回、計3回、「ノアの箱舟」のお話をいたします。実は、『聖書教育』では、なんと合計5回もこの話が取り上げられていたので す。ですが、この間夏の休暇が入りまして、私は内心「ああ、良かった」と思いました。5回もこの話を続けてやったら大変、そう思っているのです。なぜな ら、この話について、あるメッセンジャー、説教者はこう言っているからなのです。「これは難解な物語であります。」(E.シュヴァイツァー『神は言葉のな かへ』より)いったい何が難解、難しいのでしょうか。別の方はこう言います。「このノアの箱舟の箇所は、私は必ず一年に一度語ることになっている箇所。 ―――でも、東日本大震災の後のころには、ここを語るのはとても難しかった。あの東北を襲った津波とこの洪水がかぶって見えます。ですから、参加なさるご 近所の方がたにしてみれば、『神さまはあのノアのときに大洪水を起こされた。今度の大震災も神さまが起こしたんですか。そんなにひどい神さまなんですか』 とそういう風になります。」(大頭眞一『アブラハムと神さまと星空と』より)この真剣な問いかけにどう答えればよいのでしょうか。最初の説教者はこう考 え、こう答えました。「これは難解な物語であります。私たちがこの物語を理解できるのは、ただそれが神話の形式をとって私たちに伝えられているということ を、私たちがはっきりさせる時のみでありましょう。つまりそれは、かつて何千年もの昔に何が起きたのかということを、またそれゆえに、神は何百万人もの人 間を死ぬままにさせておかれ、たった八人しか救われなかったというようなことを、単に歴史的に正確にそのまま繰り返して語ろうとするような物語では、決し てないのです。」(E.シュヴァイツァー、同上)
 つまり、聖書を、何か新聞記事や歴史・科学の教科書のように読んではいけない、ということなのです。聖書は、何千年も前の古代の書物であり、それはその 時代の人々、古代人の目と考え方を通して書かれています。古代にも、洪水、地震をはじめとする様々な災害、時には大災害というようなことがたびたび起こり ました。今よりもはるかに科学や技術が発達していませんでしたから、よけいにそれらの災いを予想・抑制することは難しかったでしょう。ただ今は、その科学 や技術の進歩の「しっぺ返し」を受けて、よけいに「大災害化」しているのかもしれませんが。古代の聖書の信仰者たちは、そうした災害の経験の中で、その経 験を踏まえて、「こういうことがあった」というのとは別の一つのことを記し、伝えようとしたのです。

 それははたして何でしょうか。それは、驚くべき神様の姿、あり方です。私たちにとって驚くべき、神の生き方、神の道について語っているのです。こう書い てあります。6章の5節からです。「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人 を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったこと を悔いる』と言われた。しかし、ノアは主の前に恵みを得た。」「主は悔いて」と語られます。また、神御自身の言葉としてもこう語られます、「わたしは悔い る」。「悔いて、悔いる」、つまり「後悔した」ということなのです。ここから、神は大洪水を起こしてすべての人などを滅ぼすが、基本的にただ一人ノアとい う人だけは、箱舟を造りそれに乗り込むことによって助けられる、というストーリーが展開していくわけです。
 「主は悔いた」、これは驚くべき言葉です。また、極めて大胆な表現です。「悔いた」「後悔した」ということは、過ちを認める、失敗を認めるということだ からです。「神は悔いた、神は後悔した」、驚くべき言葉ではないでしょうか。もし神様という方を、「何でもできる方、完璧にできる方、間違えることのない 方、絶対に失敗をしない方」といういう風に捉え、理解し、信じているならば、こんなふうに言えるものではありません。神学の言葉に「神の全能」というのが ありますが、その「神の全能」というのを、そんなふうに捉えているのならば、こんな言葉はどこからも出て来はしません。
 ではいったいこの言葉を、どう理解すればよいというのでしょうか。ある方から大きな示唆を受けました。「はっきりしているのは、目に映る悪に、ヤハ ウェ、『ある』という人は耐えられない。それくらい苦しんでいるということです。ヤハウェは自分がやったことを後悔しているわけですね。だからその責め は、全部自分に向かって行っている。ここに豊かさがあるのです。『一回しかだめ。』テストに合格する『万能さ』を持っているのではなくて、神の万能さとい うのは後悔すら含む。『しまった、間違えていた』ということをも、そういうことを考えることができる『万能さ』なのです。つまり、失敗を抱擁して行くよう な、そんな大きな力がここに描かれているのです。私たちは後悔がないようにしたいと思って、いつでも正しくありたい、いつでもベストでありたい、確実であ りたいということが、今私たちのテーマになっています。私は買い物をする前に、衝動買いをしないようということで、他社ではどれぐらいの値段なのかとか、 比較サイトにまず行くわけですよね。ーーーでもそれが「だめ」と言われたら、私の買い物は失敗です、すべて。そしてこんな失敗者はだめなのだという世界 が、今のこの地上です。神は、そんなピリピリした、必ず絶対であれと迫る力のことではない、というのが今日の話です。」(渡邊さゆり説教「後悔後」より、 2023年8月23日)
 むしろ、失敗や過ちを認めることができないのは、罪ある人間の方です。先日の平和主日礼拝で触れました、「関東大震災時の朝鮮人虐殺」について、日本政 府は「政府内において事実関係を把握する記録が見当たらない」ということを理由に、その歴史をできる限り触れない、さらには否定しようとしているようで す。(『中日新聞』2023年8月31日号より)日本が戦争に敗北しした時には、数多くの公文書が焼かれたと言われています。またつい数年前には、公文書 の改竄ということが大きな問題になりました。そういうことがあるのを知っているはずなのに、「記録がない」ということで歴史の出来事までも否定しようとす る。しかし神は、聖書の神という方は、「悔いる」ということがおできになるのです。
 パウロと同じように、大変「人間的な言い方」をしていますが、「神が悔いる」というのは、「神は変われる」ということでもあります。「神は悔いて、変わ れる」とは、神はとことん向かい続けるということです。人間の終わりのないかのような罪と悪に対して、それによって引き起こされる数えきれない悲惨と苦し みに対して、神はとことん向かい合い、向かい続け、「体でぶつかり」、御自身苦しみ、悩みながら、時には「後悔」までして、新しい道を探り、進んで行かれ る。「これでだめなら、これ。それでもだめなら、これ」と、試行錯誤を繰り返しながら、「今まで自分はこうしてきたのだから、絶対に変えられない、変わら ない」とは言われずに、「悔いて、変わる」。どんなふうにでも変わる、変われる、そういうふうにして、どこまでも人間とこの世と共にある、あろうとする。 神はそのようにして、この世を、私たち人間を見捨てない、あきらめない。どこまでも、神はこの世と共にある。
 そのような神が、この物語の中で、「悔いと悩み」の末にたどりついたのが、「大洪水と、正しい人ノア一人の救い」であったわけだ、聖書は語るのです。

 では、そういう神様が、これをもって「よし」とされたのでしょうか。「これでよかった、これがベストだ」と、満足されたのでしょうか。私は、決してそう は思いません。なぜなら、主なる神はまさに「そんな方」だからです。またしても、神は「悔い、変わろう」とされたのではないでしょうか。
 なぜなら私たちは、この同じ神様が後に御自身の御子イエス・キリストを、私たちのこの世界に送り、私たちを救おうとされたことを知らされ、知っているか らです。神はあの時、「ノアという一人の人だけを救い、残りのものたちはすべて滅ぼしてしまう」という仕方で、この世の罪と悪を裁き、解決しようとされま した。神はそれで満足し、「これでよし」と思われたのでしょうか。いいえ。神はまたも「悔い、変わる」ことにされたのではないでしょうか。あのノアと時と は、正反対のやり方と道を選ばれたのではないでしょうか。「ノア一人を救う、それでは残りの多くの者たちは滅んでしまう。まったくの逆ではどうだろうか。 この一人によって、残りのすべての者たちが救われ、生かされる、こっちの方が断然いい。」
 そのようにしてイエス・キリストは、私たちのところに来られました。ただ一人の人イエスは、神と人のために生き、愛し、そして愛のゆえにすべての人のた めに死なれました。それによって、すべての人が救われ、命を受け、生かされ、生きるようにとされたのです。「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわ し、彼によってわたしたちを生きるようにしてくださった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」(Tヨハネ4・8〜9)
 そしてそれは、私たちが何か「犠牲」という言葉で理解しているようなことではありません。「一人の人が犠牲となって、苦しみ、場合によっては死んでくれ れば、それで私たちは生きられる」ということではないのです。神と人への愛に生き、死なれたイエスは、罪と死に打ち勝って復活されたからです。イエスもま た生かされ、生きられたのです。愛をもって神の前に人と共に生きること、それは神による命であり、それこそが命、神の前に共に生かされることだからです。 神は「悔い」、そして「変わられ」ました。「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。―――そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿っ た。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ1・4、14)

 「主は悔いて、心を痛め」、この神、聖書の神、イエス・キリストの神によって、私たちも生かされ、生きるのです。その私たちの生き方は、それもやはり、 まさに「悔い」、そして「変わる」ことです。「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷 になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。律法の下にある人には―――律法の下にある人のようになった。―――律法のない人には―――律法のない 人のようになった。―――弱い人には弱い者になった。―――すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。」 (Tコリント9・19〜22)「悔い、変わる神によって生かされ、生きる」!

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 「主は悔い、心を痛め」、それはあなたの愛のゆえなのだと、私たちは信じます。あなたはとことん、私たちと共にあり、私たちのために、私たちの罪と悪に とことん向き合われ、私たちを救い生かすために、なんとかしようとされます。そのために何度でもチャレンジし、何度でも「悔い、変わり」、やり直し、そし て全く新しい道を探し求められます。
 そのようにしてあなたは、ついにイエス・キリストにおいて私たちのところに来られました。そしてイエスの、どこまでも行く愛と真実によって、私たちは救 われ、あなたによって命を得、生かされました。この恵みを信仰によって受け止め、それにふさわしく私たちもあなたと、また隣人と共に生きる道を、あなたと 共に歩ませてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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