神に赦されて生きる、生かされる           
                       
創世記第4章13〜16節
             ルカによる福音書第23章32〜34節


  今日はこの礼拝を、「平和」を覚え、祈り、その実現のために決意と献身を新たにする、「平和主日礼拝」として献げております。この日には毎年色々なことを お話ししているわけですが、毎回何をお伝えすればいいのかと悩み、考えます。今回思わされたのは、「平和主日礼拝」では「平和の尊さ」を説くということよ りも、「戦争の罪を覚える」ということの方が大切なのではないか、ということです。戦争というのは、何か「災難」のように突然天から降ってくるようなもの でなく、まぎれもなく私たち人間によって犯された罪であり悪なのです。特に私たち、この日本に住む者たちにとって、特にこの時、過去に日本国家また「日本 人」とされた人たちが犯した様々な罪を覚えることが大切なのではないでしょうか。戦争に先立つ台湾、朝鮮をはじめとする植民地支配によって、他国の国土と 人民また文化や価値を蹂躙した罪、いわゆる「従軍慰安婦」をはじめとして、多くの人々の人生を破壊した罪、そして戦闘によって他国・自国の多くの人命を死 に至らせた罪。そのような数々の罪を覚え、それによって戦争の恐ろしさ、おぞましさを知り、知らせることが、本当に平和につながって行くのではないか、と 思わされたのです。
 しかし近年、この「過去の自らの罪を覚える」ということが、年々薄まって来てしまっているということがあります。「先の大戦を巡って毎年多くの追悼式・ 慰霊式が行われるが―――今日の日本社会における国のかたちの原点が第二次世界大戦の反省に立つことを表していることに間違いはなかろう。―――この一年 半に遠い国での戦争報道が日常化したのに反比例するように、身近なはずの戦争体験は希薄化し、加害や被害の歴史を伝える記事や番組が―――報道現場でも疎 まれる傾向にある。―――式典に関する関心も薄まっており、いつ公の主催でなくなるともわからない。あるいは積極的に戦争に関与する『普通の国』を目指す 中で、あえて負の体験をクローズアップすることを嫌がる政治家が出てきてもおかしくない。実際今年が百年を迎える関東大震災時の朝鮮人虐殺の事実さえも、 歴史の上書きが現在進行形で進んでいる。大きなきっかけは、事件現場の首長である東京都知事が追悼文を送らないという不作為である。―――東京大空襲の記 憶と記録も、積極的な伝承の手当てをあえてしないことで、自然に消えていくことを待っているかのようだ。こうした『消極的な加担』が、声高な『積極的扇 動』により大きな力を与えている。」(山田健太、『中日新聞』2023年7月23日号より)あえて、わざと、「罪を認めたくない」「罪を忘れたい、忘れて ほしい」と思っているかのようです。なぜでしょうか。多くの日本に住む人たちは、「罪はあってはならない」「罪を認めることは恥ずかしい」「罪を反省する ことは、自分の弱みを認めることになる」と思っているかのようです。
 しかし聖書は、「罪を認めること」「罪を悔い改めること」の大切さをずっと語り続けています。先週からの続きですが、弟アベルを殺してしまった兄カイン は、主なる神の働きかけ、語りかけ、その粘り強く忍耐深い対話を通して、弟に対する罪を認めさせられるに至りました。「カインは主に言った、『わたしの罰 は重くて負いきれません。あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたし を見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう』。」しかし聖書が語るのは、こうして自らの罪を認め、神の前に赦しを願うことこそが、神の赦しと恵みを受け る、またとない唯一の機会となり、また新しい人生と歩みの出発点となるのだということです。神は、自分の罪に恐れおののくカインに向かってこう言われまし た。「主はカインに言われた、『いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう』。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼 を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。」この「カインのしるし」こそが、神のカインに対する赦しと恵みのしるしに他ならないので す。

 さらに先週も申し上げましたが、今私たちは、カインが殺した「アベルの血にまさる血」、「アベルの血」よりも力強く、すぐれて語る「血」があることを知 らされ、知っています。それは、「アベルにまさる血」、それは「救い主イエス・キリストの血」です。「イエス・キリストの血」、それは生涯をかけたイエ ス・キリストの叫び、イエスの祈りそのものです。それは、あの十字架のイエス・キリストの祈りに凝縮されています。「父よ、彼らをおゆるしください。彼ら は何をしているのか、わからずにいるのです。」「アベルの血」、裁きと復讐を求めて叫びましたが、「イエス・キリストの血」は罪人の赦しと新しい命また生 き方を求めて祈り、叫んでいるのです。
 「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」この言葉を、私たちはどう聴くでしょうか。この言葉は、私は「いい 言葉」だとは思いません。むしろこの言葉は、私たちを揺り動かす言葉です。私たちに問いかけ、私たちを落ち着かなくする言葉です。これは私たちの中に投げ 込まれて、次々に波紋を引き起こして行く言葉です。なぜなら、このイエスの御言葉は、私たちに挑戦するからです。「罪」と「ゆるし」をめぐる私たちの考え や思い込み、「常識」や偏見に、真っ向から挑むからです。
 まずイエスは、「知らなくてしたことは罪ではない」という考えに挑戦されます。イエスは言われます。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らを何をしてい るのか、わからずにいるのです。」イエスは、「彼らはわからずにいるのです、だからそれは罪ではなく、ゆるされる必要もありません」とは言わず、「わから ずにしたこと、それもまた罪なのです、だから父よ、おゆるしください」と言われるのです。
 私たちの世では、「知らなかったから、罪ではない」「記憶にないから、罪ではない」「善悪を問い、言える立場になかったから、罪ではない」ということ が、あちこちで語られ、まかり通っています。でも、そうなのではないでしょうか。このイエスを十字架にはりつけにした兵士たちも、事の善悪については知ら ず、ただ上官からの命令でやったから、罪ではないのではないでしょうか。また、私たちの国日本がかつての戦争中にしたことが罪に問われた時、多くの役割や 責任を持っていた人たちはこう言ったそうです。「その時私たちは、事の善悪を問える立場にはありませんでした。善悪については知らず、ただ上からの命令で したのです、社会の要請によってしたのです。だから、それは罪ではないと思います。」しかしイエスは言われるのです。「それは罪なのだ。だからこそ、父 よ、彼らをおゆるしください。」「このことこそ言い逃れにならず、それが罪なのです。優柔不断と転倒と自分の関心事に目を奪われること―――これらすべて によって、確かに多くの人が神をうち殺し、あらためてキリストを十字架につけて来たのです。―――無知は罪です。」(ゴルヴィッツァー、同上)「それは罪 なのだ。だからこそ、父よ、彼らをおゆるしください。」そして、その赦しのために、イエスは今この十字架の道を行かれるのです。

 またイエスが挑戦されるのは、この私たちの考えです。「知っていて、わざと犯した罪は、ゆるされない」。イエスの言葉の表面を取るなら、そう考えてもお かしくありません。「知らずにしたのだからゆるしてください。だけど知って犯したのなら、だめでしょう。」しかし、そんなことならば、イエスは「世の罪の 半分くらいしかゆるせない方」になってしまいます。
 そんなことはありません。イエスは、たとい「知って」、あえて、わざと罪を犯したのであっても、それは「何もわからずにしたことなのだ」と言われるので す。何を「知らない」というのでしょうか。それは、神の前での本当の罪の姿です。私たちは、本当の罪の姿を知らないのです。神の前で、隣人に対する罪がど れほど重く、どれほど恐ろしいことであるか、どれほどあるべきところからはずれ、ねじれ、かけ離れているか、どれほど私たちへの愛に背き、愛と希望を踏み にじり投げ捨て行為であるか、自分自身をも裏切り投げ捨てだめにしてしまうものであるか、それを私たちは知らないのです。もし知っていたなら、決してこれ らの隣人に対する罪を、あの戦争をはじめとする数々の罪を犯しはしなかっでしょう。神を知らず、神の愛を知らず、「何をしているかわからない」からこそ、 こんな愚かな、そして恐ろしい罪を犯し続けているのです。しかし、イエスはそれを知っておられます。罪の重み、罪の恐ろしさ、罪の底知れなさを知っておら れ、その上で、あえてこの罪を引き受け、この罪をあえて担って、この罪を神の前に贖い、償い、克服しようとされるからこそ、今こう祈られるのです。「父 よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」

 さらにイエスが挑戦されるのは、次の私たちの考えです。「いくらそうでも、ひどい罪はゆるされない」。私たち人間は、どこかで「もうこれ以上はゆるされ ない罪」というものを設け、その限界を設けているように思います。個人的な価値観や気持ちの中で、また社会の法や制度の中で。だからこそ、私たちは、時に 他の人を徹底的に否定し、排除し、死刑を許容し、報復を支持し、戦争を受け入れるのではないでしょうか。「もうこれ以上はゆるされない、人や集団や国があ る」と思うのではないでしょうか。
 でも、もしそうだとしたら、主イエスはここでこの祈りを口にすることがおできになったでしょうか。ここに現われ、行われているのは、最悪・最低の罪だか らです。イエスの十字架を取り巻く人間の罪とは何でしょう。それは、すべてです。ここには、どんな罪もあります。それは、今私たちの社会で、この世界で行 われていることと全く何の違いもありません。裏切り、陰謀、無責任、バッシング、弱い者いじめ、DV(兵士たちによるリンチはそうです)、スケープゴート (一人や一部の人に罪を着せて、自分たちは責任逃れをすることです)、合法的に人を社会的に抹殺し葬り去ること、自己保身、自己利益の追求・・・。あらゆ る罪の限りを尽くしてイエスを陥れ、イエスを苦しめ、イエスを貶め辱めて、ついにはイエスを殺そうとしているのです。そんな時に、そんな人々のために、こ の祈りができるでしょうか。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」
 しかしイエスは祈られました、この祈りを確かに祈られたのです。「神は赦してくださいます、でもあまりにひどい罪は赦されません」、そうイエスが思って おられたなら、こんな祈りはあり得なかったはずです。しかし、イエスは祈られました。「これほどの罪、これほどの悪、しかし父よ、あなたはそれを赦すこと がおできになります。だからこそ父よ、彼らをおゆるしください。」イエスは、ご自分のすべてを懸けて、ご自分のすべてを注ぎ出して、こう祈り、こう願い、 こう求められたのです。「父よ、彼らをおゆるしください。」これこそ、「アベルの血よりも力強く語る血」、その祈り、その叫びです。
 だから、この祈りは聞かれます。イエスを愛し、愛し抜かれる父によって、父なる神によって、この祈りは受け止められ、受け入れられ、聞き届けられるので す。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」(Tヨハネ3・16)「神は愛である。神は そのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」 (同4・8〜9)今日も、今も、この世のために、私たちすべての者のために、私のために、あの人のために、戦争とそれに関わるあらゆる罪に苦しみ悩むこの 世のために、イエスが祈っておられます。「父よ、彼らをおゆるしください。」

 この「イエスの血」、イエスの祈りによってはじめて、私たちは「平和に至る出発点」に立ち、そこからもう一度新しい歩みを始めて行くことができるのでは ないでしょうか。「人類は軍事や軍事基地や莫大な戦闘機やミサイル、核爆弾などにお金を使うような時代ではありません。それこそ時代遅れそのものです。今 こそ垣根を越えていかに共に生きることが出来るかが課題です。イエス様は垣根を越え、垣根をこわすことにより、新しい教え、福音を伝えてくれました。どこ にも敵はいません。いるのはそれぞれ違った国、違った環境、違った価値観によって育てられた人間です。互いの靴を履いてみて、互いのことを理解し、尊重で きるようになること、そのことを平和聖日の今日、改めて確認しましょう。相手を変えようとするばかりでなく、私たち自身が変わることが求められているので はないでしょうか。」(島しず子『沖縄・辺野古通信』より)

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 カインは、あなたの前にきょうだいアベルに対する罪を認め、それを神の前に嘆き、恐れる告白にまで至らされました。しかしそのゆえに彼は、あなたから赦 しと恵み、そして守りと導きの言葉をいただくことができました。主よ、あなたの前に罪を認め、赦しを乞うことは、「恥」でも「弱さ」でもありません。あな たから、まことの赦しと、赦しから始まる新しい命を生きること、あなたによって生かされることです。
 今私たちの前には、「アベルにまさる血」、イエス・キリストの血が流され、その祈りと叫びが挙げられています。このイエスの祈りと叫びによって、私たち も様々な罪、とりわけ戦争と隣人への罪から赦され、解放されて、共に生きる新しい道へと歩み出し、進み行くことがゆるされますから、心から御名をあがめま す。どうかこの道を、私たち一人一人また教会が、イエスと共に、あなたが出会わせてくださる隣人一人一人と共に歩み行くことを与え、お導きください。
平和の主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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