私のきょうだいと共に生きる、生きて行く           
                       
創世記第4章1〜12節


 先の「創世記」第2章で、「人間というのは、他者である他の人間たちと共に生きて行く存在なのだ」とお話ししました。今日この第4章では、その「他者と共に生きる」ということが、具体的には、現実的にはどうなのか、ということを語っています。
 一言で言って、それは「困難」です。「他者と共に生きること、それは困難、極めて困難なことでもある」。もちろん、以前に申し上げた通り、そこには「幸 い」がある、神による大いなる幸いがあるのですけれど、同時にまた大きな困難もまたある。この創世記4章が語るところによれば、「他者と共に生きる」と き、実際には、そこに葛藤が生じ、矛盾が生じ、さらには妬みが生じ、憎しみが生じ、さらに時にはそれが相手を傷つけ、殺すということさえも起こってしまう ことがあるのだ、というのです。事実ここで、最初の人間たちであるアダムとエバから生まれた、二人きょうだいのうち兄のカインは、弟のアベルを妬みと憎し みの末に殺してしまったのでした。

 「他者と共に生きることには、大きな困難がある」、なぜなら私たちは人は、それぞれ違うからです。私たち人間は、それぞれ違う。生まれた環境が違う、生 まれた国や地域また家庭が違う。性格が違う、能力が違う、好みが違う。そこから実に様々な違い、多様な違いというものが生じてきます。このカインとアベル のきょうだいもまた、同じ親から生まれ、かなり共通したものを受けて育ったはずですが、結果として全く違うような二人となったようです。そもそも職業が違 いました。兄のカインは「土を耕す者」となり、弟アベルは「羊を飼う者」となったと言われています。性格も、これは推測ですが、カインは積極的で活発な 人、アベルは内省的でおとなしい人というイメージです。そういう全く違う者同士が、「共に生きる」ということ、それはただでさえ、何がなくても大変なこ と、著しく困難なことではないでしょうか。
 それに加えて、その人と人との違いが、時には「不公平」「不条理」とさえ思えてくることが起こります。そのことをこの4章は語っているのではないでしょ うか。「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供 え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。」聖書の信仰によるならば、私たちは神に よって創られた者たちです。とするならば、先に見た私たちの間の様々な違いは、かなりの部分、神様によっていることがあるのではないでしょうか。「私たち の生涯を考える時に、なぜかわからないけれども、あの人と私との間に何か取り扱いに差があるように感じられるということはよくあること。そもそもわたした たちが生まれてくるときに、豊かな家に生まれてくる人もいれば、貧しい家に生まれてくる人もいる。健康に生まれてくる人もいれば、弱い体で出てくる人もい る。」(大頭眞一『アブラハムと神さまと星空と』より)この神の前で「受け入れられた、受け入れられなかった」というのは、そうした諸々の違いの果ての、 ある意味で「究極の個々人の違い」というものを表しているのではないでしょうか。ではなぜ、アベルは受け入れられ、カインは受け入れられなかったのでしょ うか。それは、古来色々と言われてきましたが、結局のところは「わからない」というのが結論のようです。「なぜかわからない」、だから「不公平」と感じる のです、「不条理」と思われるのです。
 ここで念のために言っておきますが、聖書は、「そうした色々な違いを、ただ黙って受け入れ、甘受し、我慢せよ」と語っているのではありません。例えば、 この世界には多くの差別というものがあります。差別は、いつでも「不当」なものです。「不当でない差別」などというものは決してありません。この差別に対 して、またその他の諸々の人権侵害に対して、「違いを受け入れよ」というのが聖書ではありません。それらに対しては、はっきりと抗議し、反対し、それが改 善され、変革され、ついには一切なくなるように努力し、働いていかなければならないと、逆に聖書から教えられるのです。

 ただそれでも、違いはある。「耐えられない、許せない」と思えてしまうような違いもある。その時にどうするか、ということが問題なのです。カインは、こ のことでアベルを妬み、憎しみを募らせ、それをアベルに向かってぶつけ、ついには弟を殺してしまうという仕方で行動してしまいました。そんなカインに向 かって、主なる神が関わりを持とうとされるのです。神はカインに問い、語り掛けます。「なぜあなたは憤るのですか。なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をし ているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなた はそれを治めねばなりません。」この神様の姿勢を、ある方はこんなふうに描き出します。「顔を伏せたカインに神さまは語り続けます。顔を伏せたカインの目 を見ることは出来ないですから、神さまはまるでかがみ込むようにして、伏せているカインの顔を下から見上げるようにして、そんな風にへりくだって語りかけ てくださった。」(大頭眞一、同上)こんな神様の姿勢を思うとき、「カインは神から顧みられなかった」なんて嘘ではないか、むしろ「神に顧みられ」ている のはカインの方ではないかとさえ思えてきます。神はカインに問いかけているのではありませんか。「アベルとの違い、他の人との違いを、別の仕方で別のよう に受け止め、行動し、生きることができるのではないか。あえて、その違いを受け入れ、受け留めつつ、それでも『共に生きる、生きて行く』ということを願 い、模索し、努力して生きて行こうとすることはできるのではないか。」

 そのような神様の様々な問いかけの中で、ひときわ私たちに迫り、胸を打つ問いかけがあります。「弟アベルはどこにいますか。」それは実はカインがアベル を殺してしまった後の問いなのですが、本質的に言えばそれは、最初からずっと、一貫してまた繰り返して問われてきた問いかけではなかったでしょうか。「あ なたのきょうだいはどこにいるのか。」「きょうだい」とは、私たちに近いすべての存在を象徴する言葉ではないでしょうか。「私たちに近い」という意味は、 「血縁がある」とか「親しい、仲がいい」「気が合う」といったことを超えて、むしろ「私たちが神の前で愛すべき人」「違いを乗り越えて共に生きるべき存 在」という意味合いを指し示している言葉なのではないでしょうか。「あなたが愛をもって共に生きる、違いを乗り越えて共に生きるべき、あなたのきょうだい は今どこでどうしているのか。あなたはその人をどう思い、どう向かい合い、どう生きようとしているのか。」カインはこの神の問いかけに答えることができま せんでした。あえて答えようとしませんでした。だから、カインはアベルを殺してしまったのだと思います。
 作家の三浦綾子さんが、こんな方との出会いを語っておられます。「肺結核とカリエスで札幌医大に加療中のわたしを、たびたび見舞ってくださった一人に、 西村久蔵という立派なキリスト信者がいた。―――この多忙な先生が、わたしに対して示してくださった肉親以上の細やかな愛を、私は、先生の死後二十年を経 た今も決して忘れることができない。ある時、西村先生はこんなことを言われた。『知り合った人は、みな自分の責任範囲ですよ。神から託された人なのです よ』この一言が、入信したばかりの私の胸をどんなに激しく打ったことであろう。この言葉は、先生にとっては単なる言葉ではなく生活に如実に生きていた。」 (三浦綾子『旧約聖書入門』より)「知り合った人は、みな自分の責任範囲」、それは言い換えるなら、「知り合った人は、みな自分が共に生きるべき『きょう だい』なのだ」ということだと思います。「西村先生」は、この生き方をどこから知り、どこから受けられたのでしょうか。それは、あのイエス・キリストから に他ならないと思います。「西村先生」の生き方は、イエス・キリストを語り、指し示すものだったのです。
 そのイエス・キリストは、だれを「きょうだい」と呼び、どんな人を「きょうだい」とされたでしょうか。いみじくもイエスは語っておられます。「あなたが たによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわちわたしにしたのである。」それは、「マタイ25章」のお話で す。そこでイエスは、「最も小さい者の一人」、すべての「空腹である人」「渇いている人」「旅人であり、住むところのない人」「裸であり、着るもののない 人」「病気の人」「獄に囚われている人」を、「これは自分のきょうだいだ」と呼び、語っていらっしゃるのです。このイエス・キリストから、イエス・キリス トの神から、私たちもまた問いかけられています。「あなたのきょうだいは、どこにいるのか」、「あなたが愛をもって共にいきるべきその人は、どこにいるの か」、「あなたはその人に対して、どのように思い、どのように語りかけ行動し、どのように生きようとしているのか?」

 しかしこの問いかけの前に、私たちとは、はたしてどのような者なのでしょうか。先の三浦綾子さんは、こう自らを振り返っておられます。「わたしは、自分 がとうていアベルの側に立つ者ではなく、むしろカインの側に立つ人間だと、思わずにはいられない。現実には、他の人の生命を奪ったことはない。殺人を犯し たことはない。いつか他に書いたことがあるが、何とわたしは加害者タイプ、殺害者タイプの人間かと思う。わたしの感受性の鈍さは、わたしの語調の強さにも 現れている。真に感受性の鋭敏な人間は、わたしのように、強い言い方はしない。このものの言い方の強さによって、わたしはどれほど人を傷つけてきているか わからない。だから、本質的には、わたしはアベルの末裔ではなくカインの末裔だと思う。それゆえに、カインのその後に、わたしは人ごとならぬ関心を持つの である。」(三浦、前掲書より)
 カインは、その後どうなったのでしょうか。彼は、神から「お前は地上の放浪者となる」との裁きの宣告を受けます。それについて詳しくは、来週またお話し たいと思います。今日は、カインについて語られているこの一言に注目したいと思います。「あなたの弟の血の声が土の中からわたし(神)に叫んでいます。今 あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。」カインの弟アベルの血が、土の中 から神を呼び、訴えている。それはどんな訴え、どんな言葉だったのでしょうか。「それは正義を求める叫び。不当な扱いを受けて不当に殺されたアベルが、 『神さま、わたしにこのようなことをした者を正しくさばいてください』、そういう叫び。」(大頭、前掲書より)ある意味で、無理もない叫び、訴えです。
 しかし新約聖書は、この「アベルの血」よりも力強く叫ぶ「血」があると語るのです。「しかしあなたがたが近づいているのは―――新しい契約の仲保者イエ ス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。」(ヘブル12・22〜24)「アベルの血」よりも力強く語る血、それは「イエス・キリス トの血」です。その「イエスの血」は、はたして何を語るのでしょうか。「イエスさまが十字架の上で流された血は、アベルの血よりもすぐれた血。すぐれたこ とを語る血。なぜならアベルの血は復讐を求める血。復讐を求めて叫ぶ、正しい裁きを求める血。しかしイエスの血は罪人の赦しを求めて叫ぶ血。イエスさまが 十字架の上で『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです』―――と叫んでくださった。そして私たちのために死 んで下さった。それがイエスさまの血。イエスさまの血が何を叫ぶのか。私たちに(の)赦しを求めて叫んでいる。私たちを赦し、私たちに新しい命と生き方を 与えることを、父に願ってくださった。―――ですから私たちは主イエスのみ足の後に従っていく。」(大頭、同上)
 このイエスは、今私たちにも新しい命と生き方、道を開き、与えてくださいます。それは、「私のきょうだいと共に生きる、生きて行く」という道です。他者 との違い、様々な違い、時には葛藤と困難を引き起こすような違いを受け留め、引き受け、乗り越えて、それでも「共に生きる」、このイエスの後から、イエス と共に、「共に生きて行く、生きて行こうとする」という道です。救い主イエス・キリストは、そのための力、愛する力、「新しい命」、「永遠の命」を日々に 与えてくださるのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 「他者と共に生きる人間」として、私たちは皆あなたによって創られました。しかしその私たちは皆、あなたから離れ、あなたの定めと幸いとを捨てて罪に落 ちました。それによって「他者と共に生きること」が重荷となり、葛藤となり、悪になるような道に歩むこととなってしまいました。
 しかし、そんなカインのような私たちのために、あなたは救い主イエス・キリストを送ってくださいました。イエスこそは、すべての「他者」を「わたしの きょうだい」と呼び、その一人一人ために生き、死に、そして復活されました。この「イエスの血」が、あの「アベルの血」よりも、今力強く語り、私たちの赦 しと、私たちの新しい道と生き方を叫び求め訴えていてくだいます。どうか、このイエスによって、このイエスと共に、私たち一人一人と教会もまた、「私の きょうだいと共に生きて行く」道をここから歩み出し、歩み行き、ついに全うすることができますよう助け、お導きください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



戻る