いのちを選び、幸いを選んで生きる、か           
                       
創世記第3章1〜15節


  今日の題には、「か」が付いています。「いのちを選び、幸いを選んで生きる」「か」?疑問文なのです。「問いかけ」なのです。「いのちを選び、幸いを選ん で生きる」ことは、決して当たり前のことではないのです。だから、あえて問いかけているのです。「いのちを選び、幸いを選んで生きる」の「か」、どうか? 私たちの前には、「問いかけ」があるのです。大切な「問いかけ」があるのです。主なる神からの「問いかけ」があるのです。

 この創世記第3章の物語は、私たち人間が罪に落ちて、神から離れ去ったことを物語るものだと言われます。その人間が神から離れ罪に落ちるきっかけを作 り、媒介となったのが、「蛇」だったと聖書は語ります。この「蛇」は、いわば「象徴的表現」「シンボル」です。何のシンボルかと言えば、この聖書から語る ところによれば「人間に問い、問いかけをもたらすもの」の象徴です。「蛇」は人に問うのです。「へびは女に言った、『園にあるどの木らからも取って食べる なと、ほんとうに神は言われたのですか』。」「問いを発するもの」、私たち人間に問いかけるもの、それが「蛇」なのです。この「蛇」の問いかけに関して、 実際のところはどうだったのでしょうか。神様は、最初の二人の人、アダムとエバに命じられました。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよ ろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」園の中央には、その「善悪を知る木」のほかにも う一本の木があって、それは「いのちの木」と呼ばれていました。全般的に園のどの木からも取って食べてよい、けれどもその中央にある二本の木のうち「善悪 を知る木」からだけは、決して取って食べてはいけない。この神の命令に疑問を発し、問いを投げかけたのが「蛇」だった、というわけです。「神の命令、神の 言葉とは、まっとうで正しいものなのか、それは聞き、従うに足るものなのか」ということが、そこでは問われていたのです。そしてこの問いこそは、その結果 によって、それにどう答えるかが、時に破滅的なもの、最悪のものであり得るがゆえに、この問いをもたらす「蛇」が、後に悪の象徴、シンボルとなり、さらに は「悪魔」とか「サタン」とか人格的な悪の存在であるように呼ばれるようにさえなったのです。

 でも、そもそもこの問いこそは、「蛇」とか「悪魔」とかによってではなく、実は神様ご自身によって最初から投げかけられ、問われていたものではなかった でしょうか。「神さまは、最初の人に対してだけではない、すべての人に二つの選択肢を置いている。エデンの園で言うならば、食べることが許されている命の 木の実、もう一つは禁じられている善悪の知識の木の実。『あなたはどちらを選ぶか。いのちを選びなさい。いのちを選んで神さまを愛し、たがいを愛し、その 愛がいつまでも続くほうを選びなさい』―――私たちの前にもいつも二つの道があります。片方はいのちの道。神さまを愛し、神さまに従い、神さまのみこころ を願って生きる生き方。もう片方は、神さまを愛さず、神さまに従わない生き方。自分の力で知識を手に入れ、神さまを押しのける生き方。―――自分が神にな ろうとする生き方。いのちに背を向けるならばそんな滅びを刈り取る生き方を選ぶことになってしまう。神さまは私たちが選択の余地がないからいのちを選ぶの ではなくて、自分から進んでいのちを選ぶことを望んでおられる。―――神さまは、私たちが神さまを愛することを選ぶことによって、この世界を完成させよう とした。それは神さまにとって大事なことだった。」(大頭眞一『アブラハムと神さまと星空と』より)

 この問いかけに、はたして人間はどう答えたのか。「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その 実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」彼らは、あの二本のうち、厳しく禁じられた「善悪の知識の木」の方をあえて選び、そして食 べたのでした。その結果は、まさに破滅的、最悪のものだったと、聖書はこの後ずっと語って行きます。
 この「善悪を知る」知識を得た後、人間とその歩み、その歴史はどのようになったのでしょうか。「人間はまた極めて速やかに、他のものを生産することをも 学びました。人間は家を建て、道を作り、そしてそこに自動車を作り、さらに鉄道や飛行機を作り、その飛行機の中に爆弾を製造しました。なぜならば、人間は 絶えず自分が無防備のまま裸で立っているのではないかという不安を持っていたからであります。それゆえに人間は、さらに大きな爆弾を製造し、さらに恐るべ き破壊兵器をも造り出さねばなりませんでした。それによって私たちは、私たちの不安が常に駆り立てるあの狂奔へと陥っていくのであります。私たちは何が良 いことであるかを知っていると主張しながら、その実少しもそれを知ってはおりません。私たちは神のごとくになっていると言いながら、事実は決してそうでは ないのであります。」(E.シュヴァイツァー『神は言葉のなかへ』より)そして現在は、このようになってしまっているというのです。「最近シリアでずっと 内戦が続いています。(注 これはこの先生がこのメッセージを語られた当時のことで、今の私たちなら、真っ先に、ロシアによって引き起こされたウクライナ における戦争を思うべきでしょう。)化学兵器がまた使われたとの疑いが持たれ、対抗してそれを止めさせるために、米英仏の三か国がミサイル攻撃を行った。 こういうニュースを聞くと、私たちはやっぱり知識の使い方を間違えていると思う。シリアが悪いとか攻撃した方が悪いとか、じゃない。みんな間違ってしまっ た。いろいろな知識を持っている。その知識を用いて非道をなし、その非道を止めるためにまた非道がなされる。―――いのちに背を向けて知識を手に入れたら どうなるか。知識は良いもの。けれども神に背を向けた人びとの手に知識があるならば、災い。」(同上)そしてそれは、私たち人間一人一人の生き方そのもの となってしまっているのではありませんか。古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、こう語り問いかけたと言われます。「この世の優等生よ、君は、知力において も、武力においても、最も評判の高い偉大な国家の民でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいということばかりに気を使っていて、恥ずか しくはないのか。評判や地位のことは気にしても思慮や真実のことは気にかけず、魂(いのち)をできるだけ良いものにするということに気を使わず心配もして いないとは」。(日本基督教団鶴川北教会ウェブサイトより)

 まさにこの時に、神がそこにやって来られます。「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。」彼ら最初の人は、神を恐れ て逃げ、身を隠します。もう既に、彼らが選び取った「知識」が、彼らと神との間を隔て、裂き始めるのです。けれども、神はそれを知って、人に問いかけられ ます。「あなたはどこにいるのか。」こうして人間のあの選択、それを聖書は「罪」と呼ぶのですが、この人間の罪は明らかとなり、暴露されます。けれども、 それはまた、神が人間に機会、チャンスを与えられたということでもあると思います。「罪を認め、悔い改めるチャンス」、自分のしたことを振り返り、反省 し、謝罪し、改めるチャンス、自分の生き方を再び変え、最初のあるべき所に立ち帰ることのできるチャンス。しかし、このところで人間は、責任のなすり合い をしました。自己正当化をしました。男は女を責め、自己を正当化しつつこう言いました。「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたの で、わたしは食べたのです。」すると女は、今度は「蛇」のせいにして、自分の責任から逃れようとしました。「へびがわたしをだましたのです。それでわたし は食べました。」それなら、仕方がありません。神は、そのような人間に、罪の宣告と裁きをされました。男と女に神は言われます。「あなたがたは生れた時か ら一生の間、ずっと苦しんで生きなければならない。あなたがたの生涯は呪われ、その最後は虚しく、悲しい死に至る。」
 そして神は、あの「蛇」に対しても言われました。まずは「蛇」自身に対する裁きの言葉。「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣 のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。」続いて神は、この「蛇」と人間とのこの後の関わりについても語られま した。これが、まさに今日のテーマとなる言葉です。15節「わたしは恨みをおく、おまえと女との間に。おまえのすえと女のすえとの間に。」この「恨み」と いう言葉を、今日私は「緊張」「葛藤」というように取りたいと思います。それは常にずっと「蛇は人に問いかける」という緊張であり、葛藤です。人間の立場 から言うならば、それはずっといつも「問いかけられる」という関係です。人はいつも、この「蛇」によって、あるいは常に何かから、何ものかから絶えず問い かけられている。「あなたはどちらを選ぶのか、あなたは何を選ぶのか」。そしてそれは、絶えずその問いかけに正しく答えられず、間違ったものを選んで失敗 し、自分が苦しみ、また人を傷つけ、傷つけ合って互いに苦しませなければならないという苦しみであり、裁きであり、呪いなのです。人は、だれもそれを正し く選ぶことができなかったし、今もできない。それは、時に敗北的・破滅的・悪魔的な選択と結果にまで至るような裁きであり、苦しみなのです。

 厳しくも重い、神の裁きの言葉、宣告です。私たちは、これをまさに真正面から受け止めなければならないと思います。「これはまさに私の現実、私たちの現 実なのだ。」しかしながら、ここに、この言葉に、実はイエス・キリストを読み取る解釈が成立するのです。それは古代教会の中で「原福音」、「一番最初の福 音」と呼ばれていました。「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかか とを砕くであろう。」人間は誰一人として、この「蛇」の問いに正しく答え、正しく選ぶことができない。人はいつもこの「蛇」に負け続ける。しかし、「女の すえ」、人間のうちの一人、ただ一人の者が、「おまえ、へびのかしらを砕く」。そのただ一人の人イエス・キリストが、あの「蛇」の問いを真っ向から受け、 それに正しく答え、本当に幸いな方を選び、その緊張、葛藤、さらには争いと不和、呪いと破滅までをも自らが引き受け、担い、克服し、乗り越える。正しくい のちを選び、神を選び、神を信頼し、神に聴き従い、神と共に生きることを幸いとして選び取り、担い行き、貫き通す。「絶望が私を破壊しそうになるとき、私 はいのちを選ぶ。神はいったい何を考えておられるのかと、と思う時、私は信じることを選ぶ。厳しい現実に苦しみ、逃げ出したくなるとき、私は忍耐を選ぶ。 失望と悲しみに押し潰されそうになるとき、私は弱さを打ち明けることを選ぶ。自分の思い通りに進まぬとき、私は、手放すことを選ぶ。人に向かって指をさし たくなるとき、私は赦すことを選ぶ。諦めたくなるとき、私は目的を持って行動することを選ぶ。」(大頭眞一、前掲書より)イエス・キリストは悪魔に向かっ てこう答えられました。「人は、神の口から出る一つ一つの言で生きる。」イエス・キリストこそ、「蛇のかしらを砕く方」なのです。
 その過程で、「おまえ(蛇)は彼のかかとを砕くであろう」、この「すえ」、この人イエス・キリストは「蛇」によってかかとを砕かれ、ひどい苦しみを受 け、打撃を受けるだろう。これは、あの「十字架の苦難」を告げているのだというのです。そうです。まさに十字架の苦難、恥、呪いさえをも受け、担いつつ も、このお方は正しくいのちと幸いを選び、正しく生き、そして正しく死んでくださいました。それゆえにこそこのお方は勝利し、復活し、今も私たちと共に生 き、歩まれるのです。

 「いのちを選び、幸いを選んで生きる、か?」この問いかけ、最も大切な、究極の問いを前にして、私たちだけなら、間違って選び、誤って歩んでしまうこと でしょう。しかし、この問いかけに対しては、もう既に正しく選ばれ、正しく答えられました。イエス・キリストが、私たちに代わって、私たちのために、私た ちと共に、まさに「いのちを選び、幸いを選んで」生き、死に、そして今も共に生きていてくださるのです。このお方と共に、このお方の後から、私たちも励ま され、力づけられ、強く促されつつ、「いのちを選び、幸いを選ぶ」方へと、そちらへと向かう道を歩み出し、歩み続け、歩み通すことがゆるされるのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 「いのちを選び、幸いを選んで生きる、か?」この最も大切な問いに、アダムとエバは誤って選び、間違って生きてしまいました。私たち人間、一人一人もま た同じ誤りの道を選び続けてきました。しかし、「まことの人」、救い主イエス・キリストこそは、私たちのために、御自身正しい道を選んで生き、死にそして 復活してくださいました。そして、この幸いの道へと、私たちをも招き、引き寄せ、御自身と共に歩ませてくださいます。
 どうか私たち一人一人教会が、このイエスと共に、神の前にいのちを選び、幸いを選んで生き始め、生きて行くことができますように。そして、このいのちと 幸いの道を、広くこの世に向かっても示し、行い、生きることを通して、あなたの愛と恵み、それを受けて生きる幸いを証しすることができますように。
まことの道、真理また命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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