神の息を受けて生きる
創世記第2章4〜17節
聖書という書物は、時代と状況、また語る相手に応じて、全く違う語り方をします。同じ事柄、前回までの「人間は神によって創られたもの」ということについ
ても、またそうなのです。先の第1章では、「人間は神のかたち」に創られた、皆が、誰もが尊い、価値ある者として創られたと語られました。それは、バビロ
ン捕囚の最中、人間の尊厳が損なわれ、失われている時でした。
この第2章では、全く違った響きが鳴り渡ります。7「主なる神は土のちりで人を造り」とあります。「人間は土のちりで造られたもの」であり、「人は土の
ちりにすぎないのだ」と語られるのです。人間の弱さ、はかなさ、限界について、そしてなにより死に、滅び行くものであるということが強調されるのです。時
はソロモン王の時代でした。イスラエルの国は栄え、富は集まり、人々は自信を持ち、このように言い合っている時でした。「私たちはすばらしい、私たちには
何でもできる、富さえあれば何でもできる」。この状況と相手に向けて、聖書は神の創造の真理を語り告げるのです。「人間はちりに過ぎない」、吹けば飛ぶよ
うな、弱く、はかなく、死すべきものに過ぎない。人の尊厳が損なわれ人々が絶望のどん底にいるときには、聖書は「あなたがたは神のかたちだ」と語り、世の
中とその人々が富み、力を持ち、傲慢の高みに闊歩しているときには、聖書はまた「あなたがたは土のちりに過ぎない」と語り抜くのです。
「主なる神は土のちりで人を造り」、「人間は土のちりに過ぎない」。この言葉を、今もまた、いや今こそ聞かねばならないと思います。キリスト者で作家の
三浦綾子さんはこんな言葉を書いていらっしゃいます。「そんなにこの世は、科学が発達しているだろうか。人間はそれほど賢いだろうか。人間なんて、自分自
身の体の中さえわからないのに、何もかもわかったようなつもりでいる。科学なんか人間の考えだしたものに過ぎないじゃないか。たとえ飛行機が飛び―――や
がて月世界までロケットを飛ばしたとしても、この無限の宇宙が、どれほどわかるというのだろうか。」(三浦綾子『道ありき』より)これは、もう五十年も前
に語られた言葉です。でも、いまだその正しさを失っていない、いやむしろ今、より一層真に迫って来る言葉ではないでしょうか。歌手のさだまさしさんは、今
の日本社会は「金が『神』になった」と嘆いておられました。(中日新聞2013年9月26日朝刊より)そんな時代の中で、私たちもまた今この言葉を聞くべ
きなのです、「神は土のちりで人を造られた」のだ、「人間は土のちりに過ぎない」と。
では、その「土のちりから造られた」に過ぎないものが、なぜこのように生きることができるのでしょうか。現にこうして生きることができているのでしょうか。
聖書は語ります。それは、ただ一つによる、ただ一点によるのです。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた
者となった。」私たちを創ってくださった、主なる神様が「命の息」を、命の息吹、生かす力を私たちの「鼻」に吹き込んでくださったのです。それは、一つの
イメージとして、横たわっている者の上に屈みこんで、ちょうど溺れた人などに人工呼吸をするように、屈みこんで口から鼻へと息を吹き入れる、そんな光景な
のです。
神様の息吹、それは神の愛が溢れ出てきたものです。この弱いものを力づけ、このはかないものを支え、この死すべきものを生かそうとする、神の熱い思いが
溢れ出て、それが息となってほとばしり出たのです。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」
この後も一貫して、人は、神の愛と配慮と導きのうちに置かれ、生かされていくのです。「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、こ
れを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、『あなたはそのどの木からでも心のままに取って食べてよろしい』。」
こうして神の愛と守りのうちに置かれることは、同時に恵みに基いて制限と禁止を与えられることでもあります。「しかし善悪を知る木からは取って食べては
ならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」人間の親子の間でも、食べると危険なものを、親は愛ゆえに子どもに禁止します。それと同じよう
に、神は人に「食べてはいけない」ものを示して、人を守ろうとされたのです。それは「善悪を知ること」です。これはすなわち「すべてを知ること」の意味だ
とも言われます。「善悪を知り、全てを知って」、正しい価値判断を下すこと、それは人間だけではできないのです。このことを、私たちはあの東日本大震災と
それに始まる一連の出来事の中で、とりわけ原子力発電所の爆発と放射能漏れの事故の中で、改めて痛いほどに知らされたのではないでしょうか。どんなに慎重
に、どんなに細かく、「もしも」の場合に備えたとしても(実はそんなにちゃんと備えていなかったということもありますが)、「すべて」の場合を想定するこ
とは人間にはできなかったのです。必ず考えが漏れていた状況が起こるのです。生きることそのものだけでなく、どのように生きるか、その価値判断をも神に依
存してはじめて、人間は本当に自由に、また真に責任を負って活きることがゆるされるのです。
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」この真理を知らされて生きる感謝と喜びについて、高
齢者の福祉に携わる方がこのように語っておられます。「『人間の体は土の器である(中略)。体は朽ちても、きれいな水を入れれば、器は壊れてもその水が地
にしみ込んで、草木を成長させる。人間にとってはその水である『命』が大切なんだ』―――私たちのからだは遅かれ早かれ、痛み、老い、やがては土に還って
いく、もろい土の器です。特に要介護者のからだは老化に伴い、ひび割れ、欠けて、朽ちていきます。―――外側のからだはひび割れても、それで終わりではあ
りません。大切なのは、その器に入れる水である『いのち』なのです。(注 それを言い換えて、「その土の器に吹き入れられる神の息」と言ってもよいでしょ
う。)朽ちていく器からしたたり落ちる水が大地を潤すように、欠けた器だからこそ、そこからこぼれる『いのち』が人や社会にしみ込み、豊かさを生み出しま
す。」(佐々木炎『人は命だけでは生きられない』より)
しかしながら、人はやがて、この「神の息を吹きいれられて」、「ただ神によって」ということから脱し、離れていきます。神から離れ、自分自身で生きてい
こうとするのです。創世記第3章です。あの神が禁じられた「善悪を知る木」の実を食べてしまうのです。それが「罪」ということなのだと聖書は語ります。そ
れは、神様が封じ込めてくださった「闇」の扉を開き、死の力を呼び入れ、破滅に至ってしまう道であったのです。
しかし、聖書はそれで終わりではありません。神様の道は決して終わりではありませんでした。その人間を、もう一度生かそうとする、神の息吹、神の愛が
あったのです。先ほど、人間の創造の情景は、人工呼吸の時のようだと申しました。あのイメージが、ここでいっそう強く迫ります。倒れ伏した人間、死の危険
に陥っている人間、破滅の淵に沈んでいる人間の上に、あえて自分が屈み込み、その口を直接人間の鼻に触れさせ、そこから命の息を吹き込んでくださろうとす
る神のお姿です。それは、救い主イエス・キリストのお姿です。それは、イエスがお話しになった、あの「善きサマリア人」の姿です。強盗に襲われ道端に倒れ
伏し、今まさに死に行こうとしている旅人を「見て、気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いで包帯をしてやり、自分に家畜に乗せ、
宿屋に連れて行って介抱」する、その姿です(ルカ10・32〜34)。罪と死に脅かされている私たちのすぐ隣にまでまで来て、どこまでも私たちと共におろ
うとし、遂には十字架の死にまでも至る、神の御子のお姿なのです。
聖書の「息」という言葉は、同時に「風」という意味であり、さらには「霊」をも意味します。イエス・キリストは、「風は思いのままに吹く。―――霊から
生まれる者もそれと同じである」(ヨハネ3・8)と言われました。神の命の息、愛の息吹が、神の思いのままに吹いている、それが人を生かし、神の霊によっ
て新しく生まれさせるのです。このイエス・キリストについて、バプテスマのヨハネはこう言いました。「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を(つ
まり神に従い、神によって生きる者を)起すことができるのだ。」(マタイ3・9)だからもう一度この言葉をご一緒に聞きたいと思います。「神は土のちりで
人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」それは、自分を「ちり」のように感じている者にとって福音です。自分たちは
「石ころ」でしかないと思わずにいられない者たちにとっては、恵みと奇跡の言葉なのです。
復活のイエス・キリストに出会い、その人生が一新されたパウロは、こう語っています。「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れな
い力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」私たちはまさに「土のちりから造られた」「土の器」です。いつか
は欠け、やがては割れ、ついには壊れてしまう「器」に過ぎません。その私たちに、創造主なる神は、御自身の息を吹き入れ、愛の息吹を吹き込んでくださった
のです。この「宝」、この神の息、神の愛の息吹によって、私たちは生かされ、生きるのです。
「神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」「神の息を受けて生きる」、この福音の言葉を、私たち自身
がもう一度確かに受け、それをお互いの間で語り合い、喜び合いましょう。それと同時に、この言葉をまだ聞いたことのない人々に向けて開き、語り、その人た
ちと分かち合ってまいりましょう。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
「神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」まことに私たちは皆、「土のちり」から造られた者、「土の
器」に過ぎません。弱さと限界を持ち、衰え、滅び、死に行く、はかなく空しい存在です。しかし主よ、感謝いたします。そのような私たちに、あなたは御自身
の「息」を吹き入れ、愛の息吹を注ぎ入れてくださいました。そのことによって、ただ一つこのことによって、私たちは生かされ、生きることがゆるされます。
どうか、日々にこのあなたの「息」をいただきつつ、私たち一人一人もまたあなたの前に、あなたと共に生きることができますように。また、共に「神の息を吹き入れられた者」同士、私たちお互いも愛と共感と尊敬とをもって共に生きて行くことができますように。
またどうか、この福音によって生かされ、互いを生かし合い、また出会いの中でこれを表し、喜びと希望のうちにこれを分かち合って行くことを得させてください。この時代、この社会、この地域の中で、私たち教会の奉仕と証しを豊かに導き、用いてください。
すべての人、あらゆる人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。