神のかたちとして生きる
創世記第1章26節〜第2章4節後半
私たち教会は、何を語り、何を宣べ伝えるのでしょうか。色々な言い方、語り方があるでしょうが、今日はこのように言いたいと思います。今日私たちが語り、
伝えたいこと、それは「人間は神のかたちだ」、「あなたは神のかたちだ」ということです。まだ教会の外にいる方々にはもちろんですが、教会員お互いにも伝
え合い、確認し合い、喜び合いたいと思います。「あなたは神のかたちだ。」
私たちは先週から聖書の第一の書「創世記」を読み始めました。そこで、「はじめに神は天と地とを創造された」と私たちは聞きました。神が「天地」この世
界と、そこに生きるすべてのものを創造された、愛をもって、意味と価値をもって、そして目標と希望をもって創られました。そして今日の所で、その「すべて
のもの」の最後、締めくくりとして、神は私たち人間をお創りになったのです。「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、
これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべて這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたち
に創造し、男と女とに創造された。」だから、今日共に聴き、共に語り合いたいのです。「人間は神のかたちだ」、「あなたは神のかたちだ」。なぜ、このこと
を言わなければならないのでしょうか。それは、「人間である」ということは、決して当たり前ではないからです。また、なぜこのことを今日わざわざ言わなけ
ればならないのでしょうか。人間が「人間」として扱われていない現実があるからです。人間が自分の存在の意味と価値を感じ取れない現実があるからです。
「人間」として生きることが苦しい、「生きづらい」という現実があるからです。ある方はこう言っておられます。「私たちはすでに、生存の権利すら奪われて
いる。―――人間の命よりも経済が優先される社会のなかで。」「だからこそ、私のもとには中高生からも悲鳴のような声がよせられる。『どうしてかわからな
いけど生きづらくて仕方ない』『こんな世の中で生きていたくない』。」「そしていま、生きることそのものが、現実的に脅かされている。過労死も過労自殺
も、失業や就職のプレッシャーによる心の病からの自殺も、そして私の周りに多くいる、生きづらさから自らの命を絶ってしまった人々も、こんな狂った社会の
犠牲者であることは明白だ。」(以上、雨宮処凛『生きさせろ! 難民化する若者たち』より)
イスラエルの民も、そんな危機を経験しました。バビロン捕囚という出来事です。今から二千六百年前、かれらは自分たちの国が外国バビロニアの侵略によっ
て滅び、多くの人々は故郷から、家族や愛する人々から断ち切られ、遠い異国の都バビロンに連れて行かれました。人と人との関係はずたずたになり、人間とし
ての誇りも希望も地に投げ捨てられたようになり、神への信仰すら失ってしまう人々が生まれました。バビロンにおいては、王様こそが「神のかたち」とされて
いました。それに倣う形で、バビロン人が「神のかたち」のおこぼれをもらい、イスラエルの人々は人間として扱われない「奴隷」としての毎日を送らなければ
なりませんでした。
そんな中において、そんなイスラエルの人々に向かって、神の御言葉が臨んだのです。「神は言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって、人を
造り―――』神は自分のかたちに人を創造された。」すべての人がそうなのです。すべての人が、何の例外もなく、一切のどんな条件もなく、「神のかたち」に
創られたのです。何かを持っていなければ、何かができなければ、何か業績をあげなければということでは、決してないのです。どの人、どのような人であって
も、神によって、「神のかたち」に創られているのです。人間は、人間としてあることだけで、もうそれだけで、「神のかたち」としての意味と価値と大切さを
与えられて、持っているのです。
この神の言葉は、イスラエルの民に告げたのです。あなたがたは、捕らわれの身であっても、外国で不安定な寄留者や難民の身であっても、バビロンで一段も
二段も低い「奴隷」であるとされ、「人間」扱いされていなくても、実際に財産も地位もなく、また自信や誇りや希望さえも奪われて、今は持っていないとして
も、あなたがたは神に創られた「神のかたち」なのだ。
ところで、この「神のかたち」とは何でしょう。それは、どんな「かたち」なのでしょうか。神御自身が「われわれのかたちに、われわれにかたどって」と
言っておられます。それは、つまり「神様に似ている」ということではないでしょうか。ちょっと待ってください。神様と人間とは、全然違うのではないでしょ
うか。日本やギリシャの神話では、神様と人間はとても良く似ています。ところが、聖書の伝統では、神と人とは全く違うはずなのです。神様は大きく、人間は
小さい。神様は力ある方であり、人間は全く弱くはかない者である。神は完全に正しい方であり、人間はすぐに罪や過ちを犯す者である。いったいどこがどのよ
うに「似ている」というのでしょうか。
私はいろいろ考えてみましたが、一つのたとえを思いつきました。人間は「鏡」のようなものなのです。鏡に映った私の顔は、実は全然私の顔ではないので
す。それは、正反対に映ります。だから本当は全然違うのです。それでも、「似ている」のです。だから、鏡を見れば、「ああ、こんな顔なのか」とおぼろげな
がらも、大体はわかるのです。
それと同じで、神様と人間は全然違います。でも、人間は、神様のお姿、神様の言動を、全然違いつつも、時には正反対かもしれなくても、おぼろげながら、
大体のところで映し出すことがゆるされるのです。その意味で、人間は「神のかたち」とされ、神に「似ている」ものとされたのです。これだけでも、いやこれ
こそは、大変な恵みです。
「神のかたち」、それは例えば具体的にどんなことでしょうか。
まず何よりも、神様は人間に対して「愛の決意」によって、それに基づいて生きておられます。人間を創ろうとする前にこうおっしゃったのです。「われわれ
のかたちに、われわれにかたどって人を造り―――治めさせよう。」神様はここに至るまでに、いろいろなものを創ってこられましたが、こんなふうにわざわざ
「何々をつくろう」と決意を述べられたことはありませんでした。ここには、言葉の上でも「堅い熟慮と決断」を表す言い方がなされているそうです。それは、
堅い愛に基づいているのです。神は一番大切なものを、一番最後に取っておかれました。そして今、その愛をもって、心を込めて、私たち人間を創ってくださろ
うとするのです。「われわれのかたちに人を創ろう」と。私たち人間は、この神の愛と決意を受け、「神のかたち」としてそれを映し出します。私たちは毎月の
ように「君は愛されるために生まれた」という歌を歌っています。私たちはまさにそのように生きるのです。「私は神に愛されるために生まれ、神に愛されて生
きている」。そしてそれをお互いに対しても言い合うのです。「あなたは神に愛されるために生まれ、神に愛されて生きている。」
また、神様は人間に向かって、期待と信頼をもって呼びかけておられます。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。」この箇所で神様が相手として呼
びかけておられるのは、やはり人間だけです。神様は人間に呼びかけられます。神は、人間を、ただひたすらかわいがるだけのような「愛情」をもって創られた
のではありませんでした。神は、すべての人間に対して、私たちすべてに向かって、意味と価値を与えつつ、創ってくださったのです。だからこそ神は、人間に
対する期待と信頼を込めて、人間が果すべき課題と使命を与えながら呼びかけてくださるのです。この神の呼びかけを映し出す、それが「神のかたち」です。人
間は神様に答え、その呼びかけと期待に答えて生きるのです。「神様、ありがとうございます」、「神様、あなたを信頼し、あなたの期待と求めに答えて、喜び
と誇りをもって、課題を果たし使命を生きていきます。」また私たちは、人間同士お互いに向かっても、期待と信頼そして尊敬をもって呼びかけ合うのです。す
べての人は、それぞれ固有の、かけがえのない意味と価値を与えられています。また、皆それぞれに、その人でなければ果たせない課題と使命が与えられている
のです。そのことを信じつつ、私たちもお互いに対して、期待と信頼そして尊敬をもって呼びかけ合うのです。
さらに、神様は人間と共に生きようとされます。これで、この箇所で、聖書は終わりではないのです。「わたしはあなたを創った。あとは、あなたの自己責任
だ。自分で生きていきなさい」とは、神様は言われませんでした。神は人間と共に生き、人間に対して責任を持ち、どこまでも共に生きようとなさいます。それ
が、聖書であり、神の人と共なる道なのです。この神の共に生きる道を映し出す、それが「神のかたち」です。人間も、神様と共に生きようとするのです。同時
に、神様が共に創ってくださった、他者である人間たち、隣人である人間たちと共に生きようとするのです。「共に生きる」、これが「神のかたち」なのです。
「人間は神のかたち」。でも、これと共に、聖書はとてもショッキングなことを告げます。この「神のかたち」、こんなに大切なはずの「神のかたち」を、私
たち人間は忘れ、投げ捨て、失ってしまったのだというのです。聖書のこの後の展開は、この「罪」の道を描くものでもあるのです。その証拠に、私たちは他者
の「神のかたち」を認めません。「人でなし」と平気で他の人を思い、言い、扱ってしまうのです。「神のかたち」としての人間を著しくおとしめ、そこなう差
別の行為は、歴史の中で、社会の中で絶えることがありません。また、「神のかたち」である人間を破壊する人間最大最悪の罪は、戦争です。戦争もまたこの世
に、そして今も絶えることがありません。他の人の「神のかたち」を信じず認めない、だからこそ自分自身の「神のかたち」をも知ることができません。「自分
は愛されていない、自分には価値がない、自分には生きる意味がない」と思ってしまうのです。そのようにして、「人を人として思わず、扱わない」、このよう
な社会、こんな世界、こんな世を作り上げてしまうのです。
では、「神のかたち」は、本当に、完全に失われ、忘れられてしまったのでしょうか。いいえ、決して。「神のかたち」、それを神様は、神だけは忘れてはお
られませんでした。神様はそれはをしっかりと御心の内に留め、覚えておられて、それをなんとかして取り戻そう、回復させようとして来られました。そしてつ
いに救い主イエス・キリストが来られたのです。イエス・キリストこそ、「神のかたち」だと聖書は語ります。投げ捨てられ、失われ、忘れられてしまった、私
たち人間の「神のかたち」をもう一度取り戻し、回復し、新たに完成させるためにイエス・キリストは来られ、その業を成し遂げてくださったのです。「人の子
がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。」
名古屋で牧師をされ、今は沖縄で働いておられる島しず子さんという方がおられます。島さんのお嬢さん陽子さんは、重い障がいを持って生きられました。
「私の娘は百日咳脳症から一ヶ月以上の意識不明の状態を過ごし、奇跡的に生還しました。が、病気の後遺症で体の自由を失いました。娘の友人たちもそれぞれ
厳しい生命のたたかいをして、奇跡的に生き延びてきた人たちです。忍耐強く、素晴らしい人たちですが、話せない彼らは『何もわからない人』と見られま
す。」島さんに大きな転機が訪れたのは、1987年のことでした。ジャン・バニエという、「ラルシュ共同体」という、知的障がいを持つ人たちの生きる場を
世界的に作り展開しておられる方が来日されて集会を持たれたのです。「集会の最後に陽子が集まった人を代表して、バニエさんにお礼のプレゼントを渡す役目
になりました。―――車椅子で出て行った娘を迎えて、バニエさんは自分の手で娘の膝からプレゼントのラジオを取り、もう一つの手で娘の手を握り、じっと娘
を見つめて微笑みました。握手され、見つめられて、娘がにこにこと笑いました。無表情で何も感じないと思っていた子が笑ったので集まっていた人々はびっく
りしました。私は感動しました。それはバニエさんの姿から声が聞こえたのです。バニエさんはその姿全体でこう言ったのです。『陽子さん、一生懸命生きてき
ましたね。私はあなたを尊敬していますよ。神様もあなたを大事に思っていますからね。』(注 それは「あなたも、『神のかたち』なのですからね」というこ
とではないでしょうか。)この言葉を聴いたとき―――私の鎧はぱらぱらと落ちました。―――重度の障がい児である娘といると、生きている価値があるのかと
いう視線にさらされるばかりでした。そういうどん底にいるような私たち親子に対して『尊敬している』と接しられた時に、本当に解放されるのを感じました。
それからは生きることが楽になりました。―――ラルシュ・ホームが障がい者中心の生活であり、障がい者が世界を導く力を持ち、健常者を助ける人々だと理解
している思想にも感動しました。―――『尊敬をもってメンバーに接すること』これが願いであり―――これは全ての人が望んでいることだと気づきました。私
たちは自分がおろそかに扱われたこと、ばかにされたこと、尊厳が踏みにじられたことに傷ついてきました。―――神様はそれほどに、私たち人間が大切に扱わ
れるように創ってくださり、そのように扱われないときには、『これは不当だ。間違っている』と思うようにしてくださったからでしょう。」(島しず子『尊敬
のまなざし』より)
人間は「神のかたち」として創られ、私たちは「神のかたち」として生かされ、生きるのです。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
「神は自分のかたちに人を創造された」。感謝いたします。私たち皆、その一人一人が、まさしく「神のかたち」として創り出され、生かされました。どう
か、この福音を、私たちもあなたから聞き取り、それに答え、またお互いに対しても語り合い、分かち合ち、喜び合うことができますように。
すべての、あらゆる人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。