神に「よし」とされて生きる           
                       
創世記第1章1〜25節


 今日から三か月間にわたって、『聖書教育』に合わせ旧約聖書の「創世記」を共に読み、そこから神様の語りかけを共に聞いて行きたいと思います。 「創世記」には大きな特徴があります。それは、「聖書の最初の書物、一番前にある書」であるということです。これは、とても大きな特徴です。最初にあれば 大変目立ちますし、聖書をあまり知らない方でも、開くのに全く苦労せずに済みます。
 そして、「創世記」で語られている内容も、この「一番初め」ということにふさわしいものです。それは、まさに「初め」を語っているのです。「初めに神は 天と地とを創造された。」「初め」を問う問いが、私たちにも時折やって来ます。「私の初めはなんだろうか、私たちの世界の初めは何だろうか」。「私はなぜ ここにいるのか。わたしはどこから来たのか。またどこへ行くのか。わたしの人生の意味は何か」。それは、多くの場合、「危機の時」です。ある方は、こうし た根本的な問いを私たちはいつも発しているわけではないけれども、それは折に触れて私たちに迫ってくると言います。「しかしこのような問いは、危機に陥っ たとき、わたしたちをとりわけ苦しめるものである。―――またときには、このような問いは、決まりきった日常の生活を繰り返す中で、予期しない形で、ふと 心の中に湧き起こってくることもある。―――わたしたちには、幸福なときと落胆のとき、挫折のときと成功のとき―――が交互に訪れる。しかしときに、あの 問いがやって来て、眠れない夜を過ごすのである。わたしはなぜここにいるのか。どこから来て。なんのために。わたしいったい何者なのか。わたしはどのよう に生きたらよいのか。」(ガスリー『一冊でわかる教理』より)私たちもまた、まさにそうではないでしょうか。

 聖書は、この問いに、たった一節で答えを与えるのです。「初めに神は天と地とを創造された。」「わたしはなぜここにいるのか。」神があなたを創られた。 「わたしはどこから来たのか。」神から、神から由来して、あなたは来た。「わたしはどこへ行くのか。」神へと、あなたは向かい、帰るのだ。「わたしはなん のために生きているのか。」神がそれを定め、導いてくださるのだ。聖書は、その冒頭、わたしもあなたもこの世界も、神がそれを創造、創られたのだ、と語り ます。神が積極的な意志をもって、愛をもって、はっきりとした意味と目的をもって創り出され、それらすべてを存在させられたのだと、語るのです。
 新島襄をご存知でしょうか。京都にある学校同志社の創立者ですね。その新島襄が18歳の頃だといいます。当時はまだ江戸時代で海外へ行くことは、禁止さ れていました。でも、渡航の思いも抑えがたく、どうすればいいかと悩み考えていた頃、彼は漢語訳聖書に出会うのです。その開巻劈頭、この言葉に出会ったの です。「はじめに神天地を創りたまへり」。それは、彼に衝撃を与え、同時にこれからの彼の人生を照らし導く言葉となったのです。「『私はその本を置き、あ たりを見まわしてからこう言った。「誰が私を創ったのか。両親か。いや、神だ。―――そうであるなら私は神に感謝し、神を信じ、神に対して正直にならなく てはならない」』。新島はもっとちゃんとした聖書を読みたいという気持ちが大きくなっていくのです。そして彼が超えられなかった一線、家族思いで家族を残 しては国を捨てることかできないという新島を最後に一押ししたのが、まさに創造主なる神との出会いであったということです。」(小原 克博同志社大学神学部教授奨励より)

 「初めに神は天と地とを創造された」、それは聖書の歴史、イスラエルの歴史の中で与えられ、作り上げられてきた信仰です。この天地創造の前はこのような 状態であったと語られます。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり」、それは「混沌」であり「闇」であったのです。それは、まさに、後にイスラ エルの人々が経験したことでもありました。預言者エレミヤは、この創世記と全く同じ言葉を使って、民そのものの中に甚だしい罪と悪があり、そのゆえに神の 裁きとして人々は苦しみ、国土は荒れ果てたと語りました。「わたしは地を見たが、それは形がなく、またむなしかった。天をあおいだが、そこには光がなかっ た。わたしは山を見たが、みな震え、もろもろの丘は動いていた。わたしは見たが、人はひとりもおらず、空の鳥は飛び去っていた。わたしは見たが、豊かな地 は荒れ地となり、そのすべての町は、主の前に、その激しい怒りの前に、破壊されていた。」(エレミヤ4・23〜26)その通りになりました。民は、バビロ ンに捕られて行き、そこで絶望と無力の中に沈んだのです。「混沌」「闇」、それは単に何もなかったというのではなく、むしろ神の御心に反する「やみ」が、 悪と無秩序と混乱ばかりがあったということなのです。人々の心と生き方は、まことの創り主なる神から離れ背き、人と人との間の関係も破れ傷つき、それがた めにこの世界のすべての創られたものが荒れ果ててしまっていたのです。そしてそれは、あの「初め」においてだけあったのではなく、またエレミヤの時代のイ スラエルにおいてあっただけではなく、実は今も私たちの間に、私たちの社会また世界に依然として存在してしまっているのではありませんか。

 しかし、神は、そのような状態を放っては置かれません。「神の霊が水のおもてをおおっていた」のです。そして決定的瞬間が来ます。「神は『光あれ』と言 われた」のです。神が御言葉を発せられたのです。神が御言葉を発せらるとき、神の業が起こります。神の出来事が始まるのです。「すると、光があった」。神 の御言葉には力があります。何もないところからすべてのものを創り出す力、いえ、それ以上です。闇と悪と混沌しかないところに、救いと秩序と平和をもたら すのです。「神は言われた、すると何々があった」と、この後も何度も繰り返されます。それが、神様の方法であり、道なのです。
 「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」「光」は、あの「闇」を制限し、退け、打ち負かし、克服する力を持つものです。神はその「光」があれ とおっしゃることで、御自身があの「闇」に立ち向かい、「闇」に勝利し、「闇」を克服なさろうとするのです。「光」は、私たちにとって生きる力、生きる喜 び、生きる希望を表します。「光あれ」、「すると光があった」。神は光を創り、光をもって「混沌」と「闇」を制限し、それに勝利し、それを克服されたので す。神の言葉は力ある言葉であり、出来事を起こし、救いを成し遂げていく言葉なのです。それはやがて御子イエス・キリストを世に送り出し、私たちの救いの ために十字架の道をも歩ませ、そして死の中から復活させる言葉となるのです。私たちがその生涯を、この世界において歩んでいく中で、実に様々なことが起こ り、私たちに出会い、ぶつかってくるでしょう。それは、決して「良い」と思われることばかりではなく、むしろ「闇」「悪」「混沌」「無秩序」と思わざるを 得ないことがあるでしょう。しかし、その「やみ」の中に、私たちの神、イエス・キリストの神は共にいてくださいます。そして、御自身の御言葉を私たちのた めに発してくださるのです。「光あれ」、この一言葉が闇を切り裂きます、混沌に秩序をもたらします、世の悪を克服し私たちを罪から救い出すのです。

 そしてここから始まって、神は次々とこの世に存在するものたちを創り出して行かれます。さらに、神はそれらを創っただけでなく、この世に存在するものす べてに対して、一つの決定的な評価を与えられるのです。「神はその光を見て、良しとされた。」神は存在することとなった「光」に向かって「よし」「これは 良い」と語られました。神様は、この後天地の中に生きるすべてのものを、同じように御言葉をもって創造し、存在させられます。そして、そのようにして存在 させられたすべてのものに向かって、「よし」と語ってくださったのです。「神は見て、よしとされた。」「よし」、それは愛の言葉であり、生かす言葉であ り、祝福の言葉です。神は初めに「よし」と語り、それから後もずっと「よし」と語り続けていてくださるのです。まさに、「君は愛されるために生まれた」の です。「愛されるために創られ、愛されるためにここにいる」のです。私たちは、「神が見て『よし』とされた世界」に生きているのです。「神は見て、よしと された」、これこそが、私たち聖書の神、イエス・キリストの神を信じる者たちが、すべてのことを見て、判断し、評価する、出発点であり、土台であり、大原 則なのです。
 まさにそのように宣言して礼拝を始める教会があるそうです。「『神様はどうでもいいいのちをお創りになるほどお暇ではありません。この事実を証明するた めに―――ひとりを大切にする教会になる』あらゆるいのち、あらゆる出来事、そして、すべての人生には意味がある。私たちの目には遠回りだ、無駄だと思え る道も、神様が備えた道だと信じて生きていこう、と呼びかけたのでした。毎週、このことばを司会者は宣言し、礼拝が始まります。―――神様は、どうでもい いいのちや意味のない出来事をお創りになるほどお暇ではない、と。『すべての人』は、神様が造られた意味のある存在なのだ、と。―――なぜ、そのようなこ とを教会は宣言しなければならないのでしょうか。それは、現在の社会が分断と排除の社会となっているからです。教会は、そんな社会に対していかなる福音を 語り、いかに福音に生きることができるかが試されています。『どうでもいいいのち』と『大切ないのち』の分断が進んでいます。」(奥田知志『いつか笑える 日が来る』より)

 しかし、ここで私たちはつまづきを感じ、不信を持つかもしれません。神が愛をもって創造し、「よし」とされたこの世界になぜ罪と悪が、病と災い、涙と苦 しみがこんなにもあるのか。ケセン語訳聖書を訳された医師山浦玄嗣さんは、こう語っておられます。「2011年3月11日。大津波が東北の太平洋岸を襲 い、万を持って数える人々が亡くなったり行方不明になりました。わたしのふるさとも甚大な被害を受け、陸前高田市は市街の全域が壊滅し、大船渡市も市街地 の半分が流されました。―――わたしの親友で、ケセン語訳聖書を世に出す夢を追い、二人三脚で頑張ってきた熊谷雅也氏のイー・ピックス出版も社屋をはじめ 一切を失いました。出版を間近にしていたあたらしい福音書も流されてしまいました。」(山浦玄嗣『イエスの言葉 ケセン語訳』より)それは、山浦さんたち にとって、突然あの「混沌」と「闇」が噴き出し、襲ってきた出来事であったと思います。
 しかし山浦さんは、救い主イエス・キリストの御言葉の中に、神の光と愛を見出されたのです。「この世は闇だなどとはいうなよ―――。闇だと思っているの は、君が目を閉じているからだ。さあ、目をよく開けて見てごらん。君を元気で幸せでピチピチ活き活き生かしてくださる神さまのやさしい思いがまぶしいほど の光となって君を照らし、つつんでいるではないか。」(同上)神の御言葉は、私たちの「混沌」と「闇」の中にも、いきなり差し込み、輝き始めるのです。こ の中で、山浦さんは再出発の希望と勇気を与えられたのでした。「でも、われわれの魂までは流されません。日本中のふるさとの仲間にイエスの言葉を伝えよう という望みはひとときも消えることはありません。熊谷氏は瓦礫の野に立ち上がり、生き残った社員を集め、わたしの書斎に眠っていた原稿からまたも新しい版 をおこす仕事をはじめました。津波でつぶれた倉庫の残骸の中から奇蹟的にケセン語訳聖書の在庫が見つかりました。泥にまみれた箱のなかから、ほとんど無傷 の三千冊が出て来ました。津波の洗礼を受けた聖書として有名になったケセン語訳聖書は、日本中の人びとの感動を呼び、数ヶ月で飛ぶように売れてしまいまし た。」(同上)「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らして くださったのである。」(Uコリント4・6)

 「神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。」こうして私たちとこの世 界の歩みが始まりました。それは、神がその祝福を語り続け、祝福をもたらそうと歩んでこられた歴史なのです。そして神は、やがて間もなく「新しい天と新し い地」を創り、来たらせてくださいます。そこにはこう約束されています。「そこには夜がない。」(黙示録21・25)もはや「夜がなく、闇がない」、その 時を目指しつつ、イエス・キリストの神は今も私たちと共に歩んでいてくださるのです。
 「初めに神は天と地とを創造された」、そのゆえに世界とその中のすべてのものは存在しています。「初めに神は天と地とを創造された」、そのゆえにあなた は存在し、生き、そして愛されているのです。「神は『光あれ』と言われた。すると、光があった」。神はあの時「光あれ」と語ってくださいました。イエス・ キリストの神は、「混沌」と「闇」に囲まれ、脅かされている私たちに向かって、今も「光あれ」と語り続けていてくださるのです。「神はその光を見て、良し とされた。」「神は見て、よしとされた」、そして神は私たちすべてに対して「よし」と語り、今も語り続けていてくださいます。この神による「よし」を共に 聞き、共に語り合いながら、それにふさわしく共に生きつつ、今週も歩んでまいりましょう。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを創り、愛し、全うされる神よ。
 「初めに神は天と地とを創造された。」主よ、本当にあなたは私たちすべてのものを創られました。御言葉と御計画をもって創り、愛をもって創り、「よし」 としてくださったのです。あなたはこの「よし」という御言葉と御意志とをもって、この世の「混沌」と「闇」に立ち向かい、それを退け、それに勝利されまし た。どうか私たち一人一人と教会が、「よし」というあなたの語りかけに共に聞き、それによって共に生き、それによって創り主なるあなたを指し示し、証しす ることができますように。
すべての人、あらゆる人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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