神が働き、宣べ伝える
ローマ人への手紙第15章16〜29節
これまで、この「ローマ人への手紙」をずっと共に読んで来ました。今日は、その一応の最終回になります。読んで来られたご感想はいかがだったでしょう
か。この「ロマ書」は、ある意味で「手紙らしくない手紙」だったかもしれません。何か、論文か講義のような、理屈っぽく、長々と続く、そんな印象だったか
もしれません。でも実は、これはまさに「手紙」だったのです。そこには、これを書いたパウロ自身の熱い、切実な思いが込められていたのです。
そして今日の部分は、そういう意味においては、一番「手紙らしい」所かもしれません。パウロが自分の伝道の働きと歩みを回顧し、またこれからの計画と展
望とを語っている所だからです。ローマ教会にいる信徒たちへの個人的な連絡や使信という性質が、一番強い所なのです。特に今日の前半の部分においては、パ
ウロが自分の伝道の「業績」を語っているように見えるかもしれません。悪いですけれど、いわば「自慢話」をしているように思えるわけです。「わたしはエル
サレムから始まり、巡りめぐってイリルコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。その際、わたしが切に望んだところは、他人の土台の上に建てることを
しないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。」確かに彼は、「誇る」という言葉さえ使っています。「わたしは神へ
の奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである。」
しかしここでも、行われ語られているのは、人間パウロの働きや業績ではなく、ただ神の業、イエス・キリストの恵みによる神の働きなのです。パウロは語り
ます。「このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり」。私がそのような者となり、広く異邦人の人たちにキリス
トを伝えるようになったのは、「恵み」だった、ただ「恵み」だったのだ。「わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、
しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。」私がこのように活発に力強く働いて来られたの
は、ひとえに「キリストがわたしを用いて」くださったからだ。だからそれは、まさしく神の働き、「聖霊の力」だったのだ。そう考えてみると、先ほどの「誇
り」の言葉も、違った響きを帯びてきます。「わたしは神への奉仕については、キリストイエスにあって(キリスト・イエスにあってこそ! キリスト・イエス
にあってのみ!)誇りうるのである。」
パウロは、何か「謙遜」をしているだけなのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。それは、パウロがかつてどういう者であったのか、どのように
してその彼がキリストのしもべ・働き人とされたのか、ということを振り返ってみれば、すぐに分かります。パウロは、キリスト教会の迫害者、さらにはイエ
ス・キリスト御自身に対する敵対者だったのです。「サウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら」、「この道の者を見つけ次第、
男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来る」ような者だったのです。(使徒行伝9・1〜2)そんな人間が、どうして自分から、自分の選択と決断
によって、イエス・キリストを信じ、伝え、キリストと教会に仕えるような人になるでしょうか。だから、パウロがこうしてイエス・キリストを宣べ伝える者と
なり、そのために当時の世界の隅々にまで働きをして行くようになったのは、ひとえに神の業・神の愛、ただただイエス・キリストの恵み、聖霊の導きと力とに
よるものだったのです。そしてそれは、ただパウロだけの特別な現象、彼だけの特別な例外ということでもありません。パウロの生涯は、私たちのための「しる
し」とされているのです。イエス・キリストの福音が宣べ伝えられ、またイエスに従いイエスにならうような愛の奉仕の働きがなされること、またそれによって
人が助けられ、生かされ、救われ、信じるようにされるということ、それは例外なく、全く何の例外もなく、神の働きであり、イエス・キリストの恵みであり、
聖霊の力なのです。私たちが今こうして行っている礼拝や伝道、奉仕や証し、教会の働き、一人一人の歩みと働きは、まさしく神の義の働きであり、神の愛と真
実の御業なのです。「神が働き、宣べ伝える」のです。
このことを特に指し示す「しるし」があります。それは、「思い通りにはならない」ということです。教会の働き、伝道の働き、奉仕や証しの働き、それは私
たちの思い通りにはならない、決してならない。それこそが、神が開き、神が働き、神が導いておられることのまぎれもない「しるし」なのです。
パウロが、ここでローマ教会の人たちに告げる希望と計画は、切実でしかも壮大なものです。彼は、何よりもまず「ローマに行きたい」と言います。手紙の最
初でもこう言いました。「わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。」(1・15)でも、ローマで終わ
りではありません。ローマを経由して、さらに「イスパニヤまで行きたい」というのです。「イスパニヤ」とは、今のスペイン、当時の地中海世界の西の果てで
す。そこまで行って、文字通り世界の果てまで、全世界に福音を満たしたい、それがパウロの大きなビジョンであり、展望であったのです。しかし、そのパウロ
の願いと計画は、「思い通りにはならなかった」のです。「わたしはあなたがたの所に行くことを、たびたび妨げられてきた。」色々なことが起こったのでしょ
う。パウロ自身の病気とか健康状態もあったでしょう。自然災害や人間による妨げがあったでしょう。とにかく「思い通りにはならなかった」のでした。
そんな中でもようやく、「ローマに行ける見通しがついてきた」のです。だから、パウロも期待してこの手紙を書いているわけですが、それでも「今からすぐ
にローマに行ける」というわけでもないのです。その前に、果たさなければならない仕事が生じ、別に行かなければならない場所ができたのです。「しかし今の
場合、わたしはエルサレムに行こうとしている。(エルサレムなら、全く逆方向です。)なぜなら、マケドニヤとアカヤとの人々は、エルサレムにおる聖徒の中
の貧しい人々を援助することに賛成したからである。」それは、エルサレム教会のために募金を募り、それをエルサレムに届けることでした。当時もしばしば飢
饉が世界を襲ったそうです。その被害は、エルサレム教会にまで及び、特にその中でも貧しい人々が苦しみを受けていたようです。そのように、隣人の困窮と必
要が、パウロや私たちを妨げるのです。そして、私たちの「思い通りには行かない」ようにさせるのです。それは、神の業であり、神の介入であり、神の導きな
のです。「神は、われわれに、要求と願いとをもった人々を送り給うことによって、常に繰り返して、日ごとに、われわれの歩みを停止し、われわれの計画を妨
げ給う。」(ボンヘッファー『共に生きる生活』より)そして、この募金の働きは、単に「困っている人を助ける」ということに留まるものでありませんでし
た。それは、パウロにとって、異邦人の教会がユダヤ人が主なエルサレム教会を助けるということ、「異邦人とユダヤ人が福音によって一つとされ、共に生きる
ことができる」ということのまぎれもない証しとなったのです。
そして結局、パウロのローマ行きの計画そのものが「思い通りには行かなかった」のでした。彼はこう書いています。「そこでわたしは、この仕事を済ませて
彼らにこの実を渡した後、あなたがたの所をとおって、イスパニヤに行こうと思う。そして、あなたがたの所に行く時には、キリストの満ちあふれる祝福をもっ
て行くことと、信じている。」ここには、「円満」なイメージがあります。「いろいろ紆余曲折はあったけれど、最後は円満にローマに行ける。」でも、結局
は、実際はそうはなりませんでした。そのように募金をもってエルサレムに行ったパウロを、敵意と迫害が襲います。彼はいわれのない罪に問われ、獄に捕えら
れ、そのままローマに上訴することによって、何と「囚人として」、囚われの身のままローマに護送され、そのような形でローマに行くことになってしまったの
です。そして、彼の「イスパニヤ行き」の夢は果たされなかったようです。パウロは、そのままローマで「殉教」、つまり信仰の証しのゆえに殺され、死んだと
伝えられています。
「思い通りはならない」、しかし、そこにこそ神が働いておられたのです。そこにこそ、神の業があるです。ここにこそ、神の愛、キリストの恵み、聖霊の力
が働いているのです。イエス・キリストのご生涯そのものが、まさにそのようなもの、「思い通りにはならない」ものであったのではないでしょうか。イエスは
語られました。「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればす
べて、子もそのとおりにするのである。」(ヨハネ5・19)そしてゲッセマネではこう祈られました。「わたしの思いではなく、みこころのままになさってく
ださい。」(マルコ14・36)そして事実あの十字架において、こう叫んで行かれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのです
か。」それは、「思い通りには行かなかった」ということでしょう。でも、このイエス・キリストの歩みを通して、私たちは知らされています。その「思い通り
に行かなかった」イエスの道を通して神は現われ、神は御業を成してくださった。だから信じる私たちもこう語り、こう生きるのです。「私たちの思い通りには
ならない。でも、ここにこそ聖霊の力が働き、イエス・キリストの恵みが与えられ、神の業が起こされている。神が働き、宣べ伝える!」
しかし最後に、私たちには疑問があります。「神が働き、宣べ伝える」、ならば私たちは何もしなくてよいのか。あるいは、こんなふうに思ってしまうこと
だってあるかもしれません。「神様が何もかもしてくださるなら、私たちは何もしんどいことをしなくてもいいのではないか。何と気楽で楽なことだろう。」違
います。まったく違います。「神が働き、宣べ伝える」、だからこそ私たちは熱心に、それこそあのパウロのように熱心に、全力で、行けるところまでどこまで
も、福音を宣べ伝え、隣人の困窮と必要に答えて奉仕し働き、イエス・キリストとその福音を行い、表し、証ししようとするのです。なぜなら、パウロに対して
現われ、働かれたように、イエス・キリストの神は、人を呼び出し、人を立て、人と共に働こうとされる神だからです。「神が働き、宣べ伝える」とき、私たち
もまたこの神から呼ばれ、この神によって送り出され、この神によって用いられるのです。それが神の働きであり、キリストの恵みであり、聖霊の力なのです。
また「神が働き、宣べ伝える」のなら、その働きは意外性と不思議さ、また豊かさに満ち、それだから広い展望と尽きない希望があるからです。私たち人間の
働きなら、ありきたりの考えと内容しかできずに終わるでしょう。でも神は、なんと「迫害者パウロ」を招き、創り変え、用いられました。神は、あっと驚くよ
うな道を道なきところにも開くことができるのです。
さらに、「神が働き、宣べ伝える」のなら、私たちは自分の非力や限界によって、最後まで縛られ、抑えられることはないからです。もし私たち自身の力、考
え、計画によってしていることならば、必ず限界が来、挫折が来、失望と終わりが来ます。でも、私たちの信仰の働き、教会の伝道と証しの働きはそうではな
い、決してそうではないのです。「神が働き、宣べ伝える」、ならば私たちは「もうだめだ」と思うところでだめではない、「もう終わりだ」とかがみ込むとこ
ろで終わりではない、「もうやめた」というところでやめるのではないからです。私たちは復活の主と共に、私たちのためにとりなし、祈り、うめてくださる聖
霊と共に、もう一度そこから新しく始めて行くことがゆるされるのです。
「モルトマンという神学者が言った言葉です。『永遠の命というのは使命に生きるということだ』と。永遠の命とは、死んでからもどこかで生き続ける命であ
りません。どんなに困難なことが時間の世界にあっても、そういう渦巻きの中をなお使命に生きる力を与えてくださる、それが永遠の命です。時間で終わるべき
命を突き抜けて生きる、時間を克服する永遠の命、それは使命に生きることです。使命に生きる者には死が相対化されます。死を超えて生きることができます。
キング牧師の生涯もそうでした。イエス様の言葉に従って生きようとするかぎり、死のほうがどこかへ行ってしまうのです。『死は勝ちにのみ込まれた』という
ことです。」(関田寛雄『目はかすまず、気力は失せず』より)「神が働き、宣べ伝える」のです。私たちも、パウロに続いて、この神と共に歩み、働き、生き
る道へと、喜びと希望とをもって今週も踏み出してまいりましょう。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
パウロは、力の限り世界の果てにまで、どんな者にでもなろうとする愛と熱意とをもって働き、福音を宣べ伝えて行きました。でもそれは、決して彼の熱心や
努力、彼の決断と計画ではなく、どこまでもあなたの呼びかけと召し、キリストの恵みと赦し、また聖霊の力と導きによるものでした。「神が働き、宣べ伝え」
られたのです。
私たち一人一人と教会の歩みと働きもまた、まさしくあなたが、「神が働き、宣べ伝え」られます。あなたが私たちを呼び招いてくださいますから、私たちも
働きます。あなたの宣教と御業には、最終的な挫折も限界もありませんから、私たちも復活の主と共に失望と挫折を乗り越えて、また新しく出発して行きます。
どうか私たちを助け、お導きください。
すべての人、あらゆる人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。