神の義はわれらの間で働く           
                       
ローマ人への手紙第12章1〜21節


 私たちは、この「ローマ人への手紙」「ロマ書」を共に読みながら、神の救いの働き、「神の働き」というところに重点を置いて、神の語りかけを聞 いてきました。「神は」「キリストは」「聖霊は」というように、いわば「動詞的」な表現を用いて読み、聞いてきたのです。では、ここからはどうなのでしょ うか。この12章以下の部分は、「倫理的・道徳的な部分」と言われます。私たちキリスト者、イエス・キリストを信じる者たち、またその教会の生き方と行い について語られているからです。それなので、ここからは、こんなふうに解釈するのでしょうか。「今までは、神、キリストの業が語られてきた。でもここから は、これからは、私たち人間の行いと業を語ることになる」、「神の業、キリストの救いは成し遂げられ、完成した。だからこれからは、私たち人間が努力し、 頑張って、それに応答し、正しい行いと生き方に励んで行かなければならない」と読み、解釈すべきなのでしょうか。
 そうではありません。違います。ここからもまた、神の業なのです。「ローマの信徒への手紙―――も、今日から12章に入ります。12:1〜15:13 は、ロマ書の主題である神の義がどのように日常生活に具体化されるかという問題を展開しています。ですから、この部分に、ケーゼマンは『キリスト教的日常 生活における神の義』というタイトルを付けています。『(神の義=イエス・キリストによる)救いは…われわれの生および教団を支配する力として自己を現 す』(ケーゼマン)というのであります。(北村慈郎、ブログ「なんちゃって牧師の日記」より)「神の義はわれらの間で働く」、神の救いの力、その御業が、 私たちのただ中で働いているのです。私たちの業、行い、生き方として、教会とその関わりの中で、また教会とその一人一人がこの社会またこの世界へと送り出 されて行われるすべての働きと道もまた、神の業であり、神の救いの働きそのものだというのです。

 そのことを端的に示すのが、この最初にパウロによって語られるこの言葉です。「兄弟たちよ(また姉妹たち、さらにすべての個性によって生かされている者 たちよ)。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。」パウロが、ここから語り出すすべてのことの、第一の、そして何よりの、唯一の前提 また土台、出発点は、これなのだというのです。「神のあわれみ」。「神のあわれみ」こそが、ただこれだけが、私たちがイエス・キリストを信じて生き始め る、すべての道の源であり、土台であり、出発点なのだ。
 それはまず、「神のあわれみがあったのだ」ということです。パウロはこの言葉で、今まで彼が語ってきたすべての言葉、イエス・キリストの福音そのもの を、たったこの一言で要約しています。「神のあわれみがあったのだ。神のあわれみは、イエス・キリストによってあなたがたに来たり、注がれ、与えられた。 神は、イエス・キリストによって、この世界に、この私たちのただ中に来られた。そして神は、イエス・キリストによって、私たちのすべての罪と悪、苦しみと 死を自ら引き受け、あの十字架に至るまで担い通し、そしてそれをすべて克服された。」「さらに神は、イエス・キリストによって、とりわけその復活によっ て、私たちに新しい命を与えられた。神と共に、また同時にすべての隣人と共に生きる、全く新しい命・生き方を、私たち一人一人と教会に与えてくださった。 兄弟たちよ、姉妹たちよ、またすべての者たちよ。これこそが、神のあわれみ、神の救いの働き、神の義なのだ。」
 しかしまたこの言葉は、単に振り返り、思い出しているだけのものでありません。「神のあわれみは、今も働いている」のです。「神のあわれみ、神の救いの 働き、神の義は、かつて、あのところで、イエス・キリストが生き、歩み、死なれそして復活された、あの時、あのところでだけ働いたのではない(もちろん、 間違いなく、この上なく力強く決定的に働いたけれども)。それだけでなく、神のあわれみ、神の義は今も働いている。今も変わらず、ますます力をもって、あ なたがたの間で、あなたがたのただ中で働いているのだ。神の業は、今も私たちのただ中で働き、私たちに働きかけ、問いかけ、私たちを促し、私たちを新しい 生き方、新しい道へと押し出すのだ。だから、神のあわれみによって、わたしはあなたがたに勧める。勧めずにはいられないのだ。」

 では、そのパウロが語る「神のあわれみ」「神の義」、神の救いの業は、どのように私たちの間で働くのでしょうか。
 まず何よりも、それは、まさに私たちを促し、勧め、押し出すのです、「自分自身をささげるように」と。「そういうわけで、神のあわれみによってあなたが たに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」それは、 まさに神の業、聖霊の御業です。私たち人間が自分で、自分の考えと力で、また自分の判断と選択で、「ささげる」のではありません。もしそうであるなら、そ れはきっと途中で行き詰まり、飽きたり、嫌気がさしたり、負担に感じたりして、止めてしまうことになるでしょう。イエスが語られた、「石地に蒔かれた種」 や「茨の中に蒔かれた種」のようになってしまうことでしょう。しかし、本当はそうではない、私たちに語りかけ、促し、招くのは、まさしく聖霊であり、神御 自身なのです。「神のあわれみ」こそが、私たちにこう呼びかけ、こう招くのです。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささ げなさい。」
 そして、「ささげる」ものは、あなた自身、私たち一人一人そのものです。「ここで捧げることが求められているのは、<あなた方の身体を>(=『あなたが た自身を』)であります。身体とは、この世と関連しているわれわれの存在であります。つまりわれわれの地上における日常生活の全体を供え物として捧げよと 求められているのであります。」(北村慈郎、同上)「単に内面的なこと、観念的なことでなく、自分のからだ―――なま身のからだ―――をささげるという全 人格的な応答なのである。このからだは肉体も精神も含んだいわばトータルなひとりの人間の応答を意味している」。(四竃揚、『説教者のための聖書講解 釈 義から説教へ ローマ人への手紙』より)
 それは、「キリストのからだ」の一つ、一人として生かされ、生きることです。「わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自 は互に肢体だからである。」だからそれら私たちの働きは、それぞれの人の個性と力とに応じて、極めて多様であり豊かなのです。「わたしたちは与えられた恵 みによって、それぞれ異なった賜物をもっているので、もし、それが預言であれば信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば 教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。」

 また「神のあわれみ」は、「私たちを変える」ようにと働くのです。「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、 造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」「神のあわれみ」を知らされる 前、私たちは「自分のために、自分で決めて、自分の力で」生きていました。それが、「この世の生き方と道」そのものであり、さらに言えば、それこそが聖書 が語る「人間とこの世の罪」であったのです。しかし、神の霊は、「神のあわれみ」によって私たちを全く新しく変えてくださるのです。
 「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。―――だれに対 しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」「パウロの語り方から推測 される一般常識(注 この世の生き方)とは、敵と味方に仕分けして、味方とは平和に過ごし、敵とは対立し、報復する生き方である。」「『すべての人と平和 に過ごす』ことが通常の社会通念から考えて、まったく異質であることを示唆する。キリスト教徒であるゆえに、他の人々の常識とは異なる生き方が(神に)求 められていることになる。」(石田学「怒りと報復から和解へ・・・・平和主義への道程」より、『戦争と平和主義』所収)そんな生き方へと、そんな人へと 「変わる」こと、それは私たちの考えや力では絶対にできません。ただ「神のあわれみ」が、「神の義」が私たちに働き、働きかけて、私たちを一つ一つ、一歩 一歩「変えてくださる」のです。

 さらに「神のあわれみ」は、私たちを、極めて具体的な一つの生き方、一つの道へと、私たちを導くのです。さらに言えば、それは「一人の方へ」です。それ は、イエス・キリストと共に、イエス・キリストの後に従い、イエス・キリストのように、変えられ、生きることへと私たちに呼びかけ、促し、押し出すので す。それは、この12章の最後の部分、これらの言葉に端的に表されています。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。」 「愛する者たちよ。自分で復讐しないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。―――むしろ、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ま せなさい。―――』悪に負けてはいけなさい。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」ここには、あのイエス・キリストの言葉と生き方とが響いています。 「あなたの敵を愛しなさい」、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」。「神のあわれみ」は、「敵を愛する」ことにまで私たちを導いて行こうとするのです。 もうこれでわかりました。本当に、これとは決して私たちの考えや力ではないのだ、ただ「神のあわれみ」「神の義」こそが私たちの間で働いて、私たちをイエ ス・キリストにまで、イエスの生き方と道にまで導き、至らせていくのだ! イエス・キリストは、今も御自身の「からだ」をもって、その復活のからだをもっ て、この世のただ中で生き、働き、「神の国」を目指して歩んでおられます。その「キリストのからだ」の一つとして、一つの働きを、私たち一人一人もまたい ただいて、イエスと共に生き、歩み、働くのです。

 そして、これらのことは、私たちがよくイメージするように、ただ私たちの中だけで、教会の中だけで起こることではありません。イエス・キリストの働きと 道は、すべての「われら」、すべてのあらゆる人々、そういう意味での全世界にまで及んでいます。その道において、私たち一人一人と教会もまた、様々な人々 との出会い、この世の様々な出来事のただ中で、イエス・キリストと出会い、イエスから問われ、働きかけられて、変えられ、また押し出されて行くのです。
 ある教会でクリスマスに、「靴屋のマルチン」の劇をすることになりました。拍手喝さいのうちに、その劇は終わりました。「私たちが劇を終え、片付けをし ていると、教会のドアが開きました。そこには、小さな女の子が息を切らしながら、お父さんの手を引いて立っていました。私が挨拶をすると、女の子が一枚の チラシを差し出しました。それはその日の午後、教会の最寄り駅で私が配った『子ども劇』のチラシでした。―――『今夜、教会でクリスマスの本当の意味がわ かる劇があるよ』―――『お父さんが一緒に行ってもいいって言ってくれた。お父さんと一緒に行くから、絶対に待っていてね』『わかった、待っているよ』そ の子の父親は事情を話しました。『昨年妻が亡くなり、私たちは父子家庭になりました。今年は二人きりのさびしいクリスマスになると思っていました。それ が、この子が私を教会に行こうと誘ってくれたんです。―――どうしても抜けられない仕事が入り、遅くなってしまったんです。―――どうかこの子のためにも う一度、劇をやっていただけませんか』―――子どもたちは『やろう』と言ったのですが、大人たちは『予定が詰まっているから無理だ』ということで大人の意 見が結論になりました。―――女の子は悲しそうな瞳で私を見つめ、父親は無言でその子の手を引き、立ち去って行きました。―――少しの沈黙の後でした。先 ほどキリストの役をした―――男の子が大きな声で劇のセリフをおとなに向けて叫んだのです。『貧しい人、悲しんでいる人、苦しんでいる人、困っている人、 そのような人たちの中にわたしはいます』そして泣きながらこう続けました。『本当のキリストが来たのに、大人は帰したんだ。教会がキリストを帰してもいい のか!』―――私は我に返り、急いで教会の外に飛び出し、キリストを捜しました。けれど、暗闇に父子は見つかりませんでした。―――どん底でクリスマスを 迎えた彼ら親子にこそ、キリストは救い主になるために命をかけて生まれてくださったはずなのに、その福音を、その希望の光を伝えるべき私は何をしたのか。 ―――私は人目をはばからず泣きました。」(佐々木炎『人は命だけでは生きられない』より)このことをきっかけとして、この方とこの教会は変わりました。 教会をこの時こうして訪ねてくださったキリストによって問われ、変えられたのです。「そこには今も絶え間なく、キリストはさまざまな姿でやって来ます。誰 かの手助けがなければ生きることのできない要介護の高齢者たち―――全財産が数百円の貧しい人たち、孤独を抱いている一人暮らしの人たち、そしてあの『絶 望を抱えて教会から無言で去った小さな女の子と父親』が教会にやって来ます。私はその度に『二度と小さな者を見捨てず、その人の尊厳を大切にして共に生き ること』を肝に銘じています。」(同上)「神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささ げなさい。」「神の義はわれらの間で働く」のです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 「神のあわれみ」は、今もイエス・キリストによって、聖霊によって、私たちのただ中で働いています。その呼びかけと問いかけ、促しと押し出しによって、 私たち一人一人と教会もまた、自分自身をあなたと隣人とにささげ、全く新しくされ、イエス・キリストと共に、イエス・キリストのように生きようと、歩み出 し、進み行くことができますように。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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