神が全てを全うする           
                       
ローマ人への手紙第11章25〜36節


 共にこの「ローマ人への手紙」「ローマ書」を読んで来ました。よく言われるのが、「ロマ書は難しい」ということです。先月の『聖書教育』誌の執 筆者のお一人が、いみじくもこう書いておられました。「ローマ書は私にはハードでした」。聖書を専門的に学ばれた牧師の方がそう言われるのですから、一般 の方にはなおさらそう思われるかもしれません。そこで、私なりに、「ロマ書が難しい理由」を二つ考えてみました。一つは、何と言っても「話が抽象的で。理 屈っぽい」ということです。そしてもう1つが、「話が大きすぎる」ということです。
 特にこの9章から11章の部分では、「イスラエル全体の救い」というテーマが、「異邦人、つまりユダヤ人から見た外国人(そこには、私たちの多くも入り ます)の救い」との関係で展開されているのです。それは、別の言い方をすると、「大きな神の救いの歴史」を扱っているのだと言えます。「イスラエル全体の 救い」とか、「大きな神の救いの歴史」とか、話が大きくなりすぎて、私たちの狭く、小さな視野や考えではなかなかイメージできない、ついて行けないという ことになります。
 それだけではありません。話がますます大きくなって、ついには「万物」などということが語られるようになるのです。「万物は、神からいで、神によって成 り、神に帰するのである。」「万物」とは、「世界中の、また歴史上のすべてのもの、すべてのこと、さらにはすべての人」という意味です。そんな大きな、気 の遠くなるような話、イメージも理解もできないというのが、正直なところではないでしょうか。

 でも、ここで一つ考えてみたいのです。こういう「大きな話」は、私たちには、何の関係も意味もないのか。私は今日こう考え、こうお伝えしたいのです。それは、実は私たちに大いに関わりがあり、また大いに私たちのためになると。
 それは、「スケールの問題」ということです。「スケール」とは、「物差し」のことです。時間的・空間的「物差し」。私たちの「スケール」は、しばしば 「小さすぎる」のではないでしょうか。私たちは、しばしば「小さなこと」、すぐ目の前のことだけに囚われてしまい、そのことだけで一喜一憂しがちではない でしょうか。そんな「小さなこと」と言っても、私たち本人にとっては、とってもとっても「大きなこと」でしょう。でもそれを、時に神の「大きなスケール」 で、その「大きなスケール」の中で見つめ直し、考えてみることが必要ではないでしょうか。その「大きなスケール」の中で見せられ、考えさせられて行くこと によって、新しく開かれ、見えてくることがあるのではないでしょうか。それが私たちにとって、救いとなることがあるのではないでしょうか。
 ある方は、こう言っておられます。「『スケール』は『秤・尺度』のこと、どんな『スケール』で生きるのか、何を『スケール』とするのか。それは、生きる うえでたいへん重要な事柄だ。信仰とは、この『スケール』に関わる問題だと思う。」そう語って、「エマオに向かう二人の弟子」の物語を引かれるのです。 「そこには『スケール』の問題があった。弟子たちは『近ごろ』起こったことを思い、悲嘆に暮れていた。―――彼らの『スケール』は三日間という実に小さな ものだった。これに対してイエスは、『それを言うなら、モーセから始めて聖書全体から考えるべきではないか』と言われる。―――両者には『スケール』の違 いがあった。―――十字架の出来事を『数日』でとらえるのではなく、『モーセから始まる神の歴史』から把握する。つまり、聖書全体、神の歴史、神の救済 史』という大きな『スケール』からひも解くことが大事だった。イエスは言われる。『そんな数日なんて、小さな「スケール」で勝負をしたらだめ。数千年に及 ぶ神の歴史という大きな「スケール」でとらえなさい』と。ときとして私たちは、小さな『スケール』に合わせて事柄をとらえ、考え、悩み、絶望する。――― 絶望している者の『スケール』は小さく貧しい。『スケール』が小さいから、すぐにわかったような気になり、その結果絶望する。でも、それは真実を根拠とし ているか。」(奥田知志『いつか笑える日が来る』より)

 パウロにとって、それこそ目下の大問題は、「多くのユダヤ人がイエス・キリストを信じない」ということでした。なぜなら、彼ら「ユダヤ人」は、パウロに とって愛すべき「同胞」であったからです。そのためパウロは、彼ら「ユダヤ人」が救われるためなら、自分のこの身が呪われ、神から引き離されても構わない といすら言っています。それだけでなく、パウロによれば、「ユダヤ人」は神から選ばれ、愛された特別な民であったのです。それなのに、神の御子である世の 救い主イエス・キリストを、彼らは退け、殺し、ついには信じなかったのです。
 いったい、この問題をどう捉え、考えればいいだろうか。パウロは、「スケール」を変えるのです。「目下の問題」「目の前の問題」ということではなく、 「聖書全体」、「モーセから」どころではない、「アブラハムから」始まるイスラエル全体に対する神の救いの歴史、さらに言えば「天地創造」から始まり「万 物」にまで及ぶ、気の遠くなるような神の愛と真実の歴史。そこにまでさかのぼり、そこにまで思いを及ぼして、彼はついに、神によって新しく目を開かれ、思 いを開かれ、道を開かれたのでした。
 それがこの言葉です。「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべ て救われるであろう。」「あなたがた(異邦人)が、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、彼らも今は不従順に なっているが、それは、あなたがたが受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。」イエス・キリストの福音、その救いは、彼ら の不信仰によって異邦人にまで届けられました。しかし、それはあくまでも一時的で、ついにその救いは、やがてユダヤ人へと帰って来るのです。なぜなら、そ こには、決して変えられることのない、神の愛と真実があるからです。決して捨てられることのない、神の堅い選びと約束があるからです。「神の賜物と召しと は、変えられることがない。」そしてそこには、人間の理屈と考え、あらゆる価値を超えた、神の愛と救いの歴史、イエス・キリストの道があるからです。だか らそれは、このように、極めて逆説的な表現によってしか言い表すことができないのです。「すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順 のなかに閉じ込めたのである。」そんなばかなことって、ありますか。でも、「そうとしか言えない」、神の不思議な愛と真実による救いがあるのです。

 そしてついに、話は「万物」にまで及びます。「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。『だれが、主の心 を知っていたか。誰が、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか』。万物は、神からいで、神によって成り、神 に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。」
 「万物」なんて、考えられない、イメージできない、ついて行けない。しかし、よく考えてみてください。「万物」なんだから、その中には私も、そしてあな たも入っているのではありませんか。そうです、あなたも私も、その「万物」の中に入れられている。また、あのこと、このこともまた、間違いなくこの「万 物」の中に入れられています。私を捕らえて離さないこのこと、あなたを悩み苦しみの中に縛っているあのこと、それらもまた確かにこの「万物」の中に含め入 れられています。皆さん、これが「神のスケール」です。この「万物」に及ぶ「神のスケール」によって、計られ、開かれ、変えられ、導かれることが、私たち の救いとなり、命となるのではないでしょうか。

 この「万物の救い」について、大変印象的な言葉があります。一人の精神科医のご葬儀が、トゥルナイゼン牧師によってなされました。そのお医者さんは、御 自分の葬儀のために、なんとこの「万物」の箇所の言葉を選んでおられたのでした。牧師は、彼の医者としての生涯と働きを振り返りながら、「万物」と神を語 るのです。
 「万物は、神からいで」。「自然においても歴史においても、あらゆる地上の存在はその大きな秘儀によってはじめて力といのちとを与えられます。神は万物 をもたらす根源であり、存在するすべてのものは神から出ます。―――地上にある物でこの方によって創造されたのでないような物は、なに一つとしてありませ ん。―――そのことは、神がわたしたちの助け主またあがない主として遣わされた、ひとりの方を通して生じます。イエス・キリストにおいて、わたしたちは神 が万物をもたらした方であることを知ります。―――万物でしょうか。混沌とした事柄、暗澹たる事柄もでしょうか。苦しみや痛みもでしょうか。―――わたし たち人間は混沌とした世界のただ中におかれていますが、それでも神によって一貫して担われている者として、したがって、救われている者として存在します。 ―――わたしたちには、気落ちしてはいけない、どんな事情におかれても気落ちしてはいけない、そうではなくて抵抗するのだ、という励ましがあるのではない でしょうか。―――混沌のなかにあっても、わたしたちを支えられる神の御手の内に自分をゆだねまつるのだ、という励ましがやってくるのではないでしょう か。故人となった友のことを思います。友は、明らかに、万物は神の御手によって支えられているという事情をご存知でした。そして、そのことを知ればこそ、 友は病気という暗い勢力にあえて立ち向かわれました。友は、助け主を、つまり、自身があらゆる苦悩の人々をいやす医師なのだと名のられた方のことを、ご存 知でした。それゆえに、故人みずからが医師となられました。」(トゥルナイゼン『御手に頼りて』より)「万物は、神からいで」、この信仰によって、それこ そすべてのものを創り支えておられる神と共に、闇と悪に立ち向かう勇気が与えられるのです。
 「万物は、神によって成り」。「わたしたち人間は神に背を向けました。しかし、神は、わたしたちのとがのために荒廃した世界に、背を向けられませんでし た。終始、わたしたちのもとにとどまってくださいました。―――神は愛である! そのことが、『万物は神によって成る』という、この表現によって考えられています。なぜ神は、一挙に、わたしたちの苦しみや悲しみすべてを取り去られない のか―――それは、神が偽りの呪術神ではなくて、世界を救うみわざのただ中にその子らをかかわらせてゆく、父なる神であられるからです。神は魔法をかける のではなく、ご自分が私たちを受け入れていく、そういう歴史を導かれます。―――イエス・キリストはやって来られて、わたしたちの世界の暗い事情の中にご 自分の身を置かれ、そして、わたしたちのために暗やみと死を克服なさいます。イエス・キリストによって、わたしたちは初めて完全に、万事がそれによって成 る神の御手の内に置かれます。再び、われらが友のことを思います。今申しましたようなこともまた、友はご存知でした。―――友は、神によって、苦しむ人々 に心から仕える献身の力を賜っていました。わたしはこれまで、友ほどに忍耐強い医師にお目にかかったことがありません。故人は、単に一マイルだけでなく、 幾マイルも患者の人々と共に魂の捕囚状態という葛藤のなかへ分け入ってゆかれました。」(同上)「万物は、神によって成り」、この信仰によって、イエス・ キリストと共に、私たちもまた愛をもって共に生きる勇気が与えられるのです。
 「万物は、神に帰する」。「神は、ご自分の世界に、最後の目標を立てておられます。すなわち、来たるべき御国、義と平和の御国という目標をもっておられ ます。―――キリストはその御国を完成してもくださいます、。そして、完成するということは、ここでは、あらゆる悲しみや叫び、また、あらゆる涙が終わる こことを意味します。そのときには、死の力もまた打ち破られてしまいます。―――わたしたちが行く着く最後の、その後ろには神の将来が開けています。神の 救いが、神のいのちがわたしたちのうえに到来するのです。もはや、死が最後の言葉ではありません。なぜなら、キリストがすでによみがえられているのですか ら。―――そのこともまた、友はご存知でした。ーーーやがて、友自身が苦しみによって試練を受ける者となられました。友は、医師として、自分の病が治らぬ ものであることをご存知でした。―――あのようにも多くの人々を助けられた方が、今は自分が救いようもなく沈みゆかねばなりませんでした。けれども、友は そこにおいても神に信頼なさいました。わたしたちに終わりを賜う神、ありとあらゆる死の悩みからの救いを待ち望むことのできる神に。」(同上)「万物は、 神に帰する」、この信仰によって、死と悪の闇にあっても、すべてを神に委ねる勇気、そして希望が与えられるのです。
 「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰する」、「神が全てを全うする」のです。そのことが私たちの救いであり、希望であり、また愛する力、共に生きる力なのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰する」。私たちの小さな、狭い「スケール」に換えて、時にあなたの大きく、長くそして高い「スケール」を 垣間見させてください。それによって私たち一人一人また教会が助けられ、慰められ、力づけられて、また新たにこの世界へと、それぞれの持ち場へと送り出さ れて行きますように。そのそれぞれの場において、あなたの証人、隣人のための奉仕者として生かされ、導かれ、用いられますように。
すべての、あらゆる人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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