神が道を開く           
                       
ローマ人への手紙第10章1〜13節


 皆さんの中には、山登りをなさる方がおられるかもしれません。山登りをする際に大切な一つのことは、「分岐」ではないでしょうか。「分岐」、分かれ道。 ここから、道が二つに分かれている。一つの道を行けば、めでたく山頂まで無事たどり着けるでしょう。でも、もう一つの道を行ってしまうと、道に迷い、思わ ぬ所に出てしまうか、最悪の場合遭難してしまうかもしれません。そういう意味で、とても大切な分岐、分かれ道。ここにもまた、いや、聖書のここにこそ、二 つの道が示されているのです。神が、パウロを通して、この二つの道を示しておられるのです。一つは行き止まりであり、もう一つは確かに目標にまでまっすぐ 通じているのです。それは、両方とも聖書の言葉で言えば「義」を目指し、「義」にたどり着こうとしている道です。「義」とは何か。「『義』なんて知らない し、興味ないよ」とおっしゃるかもしれませんが、私は全ての人が「義を求めている、義となることを願っている」と言ってよいのではないかと思います。
 「義」とは何か、一つの意味は「正しさ、価値」ということです。そう取るならば、まさに全ての人がこれを求めているのですす。だれもが「自分の正しさ を、自分の価値を認めてほしい、何より自分が、その自分の正しさ・価値というものを確かなものとして感じ取りたい」、そう願って生きていると言ってよいと 思います。だからこそ、勉強をしたり、仕事をして一生懸命努力をしているのでしょうし、またそれが不当にも認められないとき人は絶望したり挫折したり、ま た時には間違った道に踏み込んでいってしまうのでしょう。
 また、「義」とは何か。そのもう一つの意味は、「関係の正しさ」また「正しい関係の回復」ということです。これもまた、全ての人がこれを求めていると 言っても言い過ぎではない。私たちは「関係の破れた世界」に生きています。人間関係、親と子の関係、夫婦の関係、職場や学校の人間関係、また社会内の様々 な関係、そしてまた国と国・民族と民族の関係、さらには人間と自然環境の関係などなど、それらが深刻にも破れ、崩れてしまっている、それが私たち全ての悩 みです。だからこそ、それらの正しい関係の回復を願わずにはいられない、これが「義を求める」ということなのです。

 ここで、パウロという人は、この「義を求める」に当たって、まず一つの道を示します。それは、私たち多くの者が追い求めている道、「これしかない」と決 めてしまっている道です。5「モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。」別の訳ではこうです。「モーセは、律法による義 について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。」それは、「律法による義」と呼ばれる道です。それはまた3節にある「自分の義」と同じで す。「自分の義」による道。これを単純化して言えば、「自分で、自分の力で生きようとする」ということです。それは、どこまでも自分の力によって様々な 「掟」を守ろうとし、それによって自分で「自分の義」、自らの正しさと価値を打ち立て、証明しようとする試みです。自分の力、また人間的な努力だけで様々 な関係を正し、回復しようとする試みです。このパウロという人は、徹底的にそういう生き方をした人でした。ほとんど超人的な努力をし、極力誠実に真面目に 真剣に生きようとした。しかし、パウロは自らを振り返りながら言うのです。この道は行き止まりだった。それは、袋小路にはまり込み、ついには挫折するほか はないのだ。パウロは、かつての自分自身の歩みと、今もこの道に歩んでしまっている同胞ユダヤ人たちの歩みとを、共感的に見つめながらこう語ります。「彼 らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。」それは、今のユダヤ人の過ちであるだけでなく、まさに私自身の過 ちであり、間違った道であった。

 そのような挫折と共に、彼はキリストに出会いました。そして、もう一つの道を知らされたのでした。それが「信仰による義、神の義、神による義」の道だっ たのです。6〜7「しかし、信仰による義は、こう言っている、『あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな』。それは、キリストを引き降ろす ことである。また、『だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな』。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。」私たちは、「自分で」生きよ うとするとき、しばしば「天に上る」かのような傲慢と思い上がりや、また「底知れぬ所」「底なしの淵」のような絶望と自暴自棄の振る舞いに生きてしまいま す。パウロもまた、そうであったのです。その果てに、あのキリスト教会迫害の罪にまで至るのです。しかし、そんなパウロに向かって、復活の主イエス・キリ ストは現われ、こう語りかけてくださったのです。「パウロ、パウロ」よ、と。
 そのようにして、私たちにも、またすべての人に向かって聖書は語るのです。「もはや、そんな生き方はしないでいい。神があなたのために、救い主キリスト を通して、この世の救いに乗り出し、あなたに義を与えてくださる。神を知らず自分で生きようとした、ここにあなたの根本の間違い、罪があった。しかし、神 はそのあなたの間違った生き方を正し、神の前に、神によって生きるようにしてくださった。この神こそが、あなたの正しさと価値を認め、無条件で、どんな時 にもあなたを愛してくださる。また、この神こそが全ての関係を正してくださる、何よりも神御自身と私たちの関係を正しくし、回復してくださる。それによっ て私たち全てのものは、そのすべての関係を癒され、回復される。キリストこそが、私たち全ての者の罪のために底知れぬ淵に下り、私たち全ての者が救われる ために天にまで昇ってくださった。」パウロは語ります。「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。」この「律法 の終り」の「終わり」には、二つの意味があります。一つは、文字通り「終わり」です。キリストによって、「律法の道」、「自分による道」は、はっきりと本 当に「終わった」。そしてもう一つの意味は「目標」です。イエス・キリストによって開かれた、この「神の義」の道は確かに、必ず目標にまで至る。「この道 は、確かに通じている。まっすぐに、どんなことがあっても、その目標にまで、神にまで至る。」

 この「神による義」、どうしたらそのような道を歩み、生きることができるのでしょうか。それは、当然に「自分の力」とか、「自分の判断」とかによるので はありません。ただ神を信頼し、神の力に頼り、神に自分自身を任せて生きるのです。これを信仰と言います。だから、「信仰による義」なのです。8〜10 「では、なんと言っているか。 ―――すなわち、自分の口でイエスは主であると告白し、自分の心で神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人 は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」それは、神が救い主イエス・キリストを通してしてくださったその道、その業を受け入れ、そして 何よりこの神御自身を「このお方は間違いない」と信頼し、「ならば、お願いします」と自分自身を任せきって歩み出すことです。それは、単純簡単な道です。 それは、ただ「空っぽの手」を、神に向かって差し出すことだけなのです。またそれは、差別なく、そして磐石の道です。そこには、大いなる約束があるので す。11〜13「聖書は、『すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない』と言っている。ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であっ て、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。」

 最後に、この「神による道、神の義による道、信仰による義の道」に生きるとき、私たちはどのように生きるようになるのでしょうか。ここが、私たちプロテ スタントのキリスト教の「弱い所」かもしれません。プロテスタントの教会は「信仰のみ」と言って、どちらかと言うと、「信じなさい、信じればあなたは救わ れます」とだけ語って、人がキリストを信じたら、もうそれで「終わり」みたいに信じ、考えてきたように思います。それは、確かにその通りです。でも、聖書 が語っているのは、それで終わりではありません。信じた人のために、神が備え、開き、導かれる道があると語り、私たちをも招いているのです。
 「神による道」を生きる人は、「神だけを信じて、相対性・暫定性に生きる」のだと思います。この道に生きるとき、人は「神様だけが確かな方」であると知 ります。神だけが、すべてのものを創られた方であり、神だけがすべてのものを生かし支え続けている方であり、神だけがすべてのものを導き、やがてついに完 成にまで至らせる方なのです。この神の前では、すべてのものが相対化され、暫定的なものであることが分かります。前に「律法の義」を、「この世の正しさ」 と言い換えてみたことがありました。この「神の義」の前に、すべての「この世の正しさ」「人間的な正しさ」は、相対化されて行くのです。「この世の正し さ」「人間的正しさ」というものは、事実としてはあります、そしてあり続けるでしょう。でも、それは常に移り変わって行きます。またそれは、本当の意味で 人を救い、生かすことはできません。そしてそれは、時に人を過ちや罪へと誘って行くのです。歴史の中で、差別や戦争が、何度「この世の正しさ」によって正 当化されてきたことでしょうか。「あるものをあらしめる。一切のものはあらしめられているわけですね。(注 この「あらしめる」というのは、「神様が創 り、支えている」という意味です。)―――あらしめるものが、あらしめられているすべてを造られた。その時に、すべては相対化されます。根源的なものにつ ながる時、すべては相対化されていく。」「そのように見てきますと、暫定性は、今とここを謙虚に生きることに尽きるからです。大日本帝国は永遠の帝国と誇 りましたけれども、暫定性として終わりました。今の安倍政権も暫定性です。いつまでも続くわけではない。大事なことは、すべての暫定性を信じて、今生かさ れていることを大事にし、神の時を待つ。必ず出てくる変化を待つ。その中で私たちは今日という日を生き生きと生きることができるのです。失敗を恐れず、不 信仰に落ちることを恐れないで生き続けていく。」(関田寛雄『目はかすまず気力は失せず』より)
 また「神の義による道」を歩む人は、「すべての、あらゆる人に向かって開かれて生きる」のだと思います。なぜなら、この「信仰によって人を義とする神」 には、「ユダヤ人とギリシヤ人の差別はなく」、「呼び求めるすべての人」を愛し、恵み、救ってくださるからです。「自分の義」、「自分の力」によって生き ようするなら、必ずと言ってよいほどに差別と排除が起こってくるでしょう。なぜなら、それぞれの人はみな違うからです。そこには、「できる人」もいれば、 「できない人」も生まれてきます。そこから、様々な隔てが生じ、壁や溝が生じ、それがついには差別や排除につながって行きます。しかし、この「信仰による 義」の道を与えたもう神を信じるとき、私たちはすべての、本当に「すべて」の、そしてあらゆる人に向かって、神から問われ、そして開かれて行くのです。 「なぜ、そのようなことを教会は宣言しなければならないのでしょうか。それは、現在の社会が分断と排除の社会となっているからです。―――そのような時代 に私たちは、あるいはキリスト教会は、何を語り、行動するのでしょうか。それは、『すべての人』をテーマとして掲げることでしょう。『分断』が進む現代社 会に抗う言葉は、『すべての人』だと思います。―――悪い者にも、正しい者にも、つまり、『すべての人に』恵みが注がれている。だれひとり取り残されな い。だれひとり神様の恵みから漏れる人はいない。これが本当の福音であるならば、教会にはこれを伝える使命があるのです。」(奥田知志『いつか笑える日が 来る』より)
 そして、「信仰による義の道」を歩む人は、「共に生きる」という方向性と生き方において生きようとするのだと思います。なぜなら、「信仰」とは「関係」 だからです。この「関係」と言うとき、その「関係」は、神御自身が、何より先に、だれより先に結び、開いてくださったのです。信仰生活とは、「一人真理の 道を、孤独にひたすら進む」というようなものではありません。そうではなく、神御自身が私たちと共に歩んでくださろうとするのです。「わたしがあなたと共 に歩もう。わたしがあなたがたと共に生きよう。この道を、わたしと共に、あなたは生き、歩みなさい。」この神と共に生かされ、生きる人は、自分自身もま た、「共に生きる」という方向性と生き方において生きるほかはありません。「コミュニティ(共同体)から排除され、共生を失った人に、ただ『自立』を促し ても、自分一人の力では自立できません。自立は共に生きる共同体の中で、友人のような愛、『友愛』を通して初めて実現します。友愛は英語で 『brotherhood』と言い、嫌ならば別れるような単なる『friend』ではなく、裏切られても、兄弟姉妹のようにいつまでも見放さず、追い求め る絆です。困難に陥っている人が、独りでは負いきれない支障を、私たちも共に担い生きる『愛』です。その絆によって、介護を必要とする人は、自分の尊厳を 取り戻し、共同体の中でより良い生活を実現して未来へ向かって生きていく意志が生まれ、自立することを学び取ることができるのだと思うのです。―――なぜ ならキリスト(神さま)は、私たちを友と呼んでくださり、身代わりとなって十字架にかかるという友愛(brotherhood)を命がけで示してくださっ ているのですから。もしあなたのまわりにもかつての私や春雄さんのように、絶望の中に生きる人がいたら、あなたが『友』となってください。」(佐々木炎 『人は命だけでは生きられない』)
 「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」。「すべて」「だれでも」、本当です。あなたもこの道を、今日今から歩み始めることができます。それは、まっすぐに通る道、神による道、神が開かれる道なのです。この道を共に歩みましょう。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 あなたは一つのまことの道を、道に迷い、誤った行き詰まりの道に歩んでいた私たちに向かって開き、示し、与えてくださいました。このイエス・キリストに よる道を、私たちもまた信仰において受け入れ、選び、進んで行くことができますよう助け、導き、最後の目標にまで至らせてください。この道にふさわしい生 き方と証しを、私たち一人一人と教会にもお与えください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る