聖霊は、うめき、とりなし、益とする           
                       
ローマ人への手紙第8章14〜30節


 今日はペンテコステ。クリスマス、イースターと並ぶ教会の三大祝日の一つです。それで、まずお祝いのあいさつをいたしましょう。ペンテコステ、おめでとうございます。
 ところで、「ペンテコステ」とは何でしょうか。漢字で書くと「聖霊降臨祭」と言います。「聖霊」つまり神の霊が、「降臨」つまり来られた日ということで す。「神の霊」とは、すなわち神様ご自身にほかなりません。神様ご自身が私たちの生活に、私たちの人生に、私たちの世界に来てくださるのです。イエス様は 二千年前に一度私たちの世界に来られましたが、復活後天へと帰って行かれました。それで神様は「聖霊」という新しい形で、よりいっそう深く私たちのただ中 へと来てくださいました。これが「聖霊降臨」、「ペンテコステ」なのです。「神は私たちのただ中に、私たちと共に」、これがペンテコステの幸いと喜びなの です。
 神様ご自身が、私たちの生活に、私たちの人生に、私たちの世界に来てくださる。ならば、そのとき神様はいったい何をしてくださるのでしょう。私たちな ら、神様にどうしてくださることを願いますか。「神が来られるなら、何かご利益を」ということではないでしょうか。「神の霊」が与えられるのだから、急に 頭がよくなったり、特殊な技能・能力が備わったり、その日から仕事も恋愛も人間関係もうまく行くようになったり。あるいは、病が癒され、苦しみが消え去 り、悩み事がなくなる。それはまた、宗教的な形でクリスチャンの中にさえもあります。「聖霊が受けるなら、いつでもハッピー、ハッピー、悩みも何もなくな り、歌と踊りで人生が満たされる。」しかしここで、私たちの予想と期待はまるっきり外れます。なんと、聖霊が私たちのところで何よりなさるのは、「うめ く」ことだというのです。「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって」とあります。
 聖霊は、私たちのところに来て「うめいて」くれる。考えようによっては、ずいぶんと「不景気」な話です。いったいなぜ、そんなことをしようとするのか。 それはこの私たちにとって極めて大切な、実は欠くことのできないことだからです。「うめき」を言い換えて、「悩み」「苦しみ」としてみましょう。すると、 それは私たちみんなの事柄だとわかります。「悩み」「苦しみ」のない人などいるでしょうか。「うめき」、それはまた現状に対する不満や痛みさらには「嘆 き」、その改善・解決への「求め」であり、さらには「叫び」です。そういうことを感じたことがない人がはたしているでしょうか。聖霊は、そのような私たち の「悩み」「苦しみ」「嘆き」「求め」「叫び」、すべてを共にして、私たちの最も深く暗い、「どん底」にまで来て、「うめき」を共にしてくださるのです。
 「そのようなうめきは、この世界の最も誠実な祈りです。といいますのはそのうめきによって、私たちは、言いようのない困窮や、人間が人間に対して犯す無 数の犯罪に直面して、私たちが何を祈るべきかを本当に知らないということをも神に告白しているからです。この世の悲惨全体は、どんな長い祈りによるより も、たった一言のうめきによるほうが、はるかに明白に、神に向かって訴えられるのです。」(ユンゲル『霊の現臨』より)聖霊は、私たちの中に来て、私たち が「うめく」より先に、ご自身の「うめき」をもう始めていてくださる。そうして、この「うめく」ことを私たちにも示し、教え、そして「うめく」ことへと導 いてくださるのです。

 そうすると、わかってくることがあります。何よりもそれは、私たち自身の弱さであり、うめきです。パウロはこう表現しています。「弱いわたしたち」、 「わたしたちはどう祈ったらよいかわからない」。これは、究極の弱さです。「クリスチャンは、神を知り信仰を知り祈りを知る、たいそうな者たち」ではない のです。実は「祈ることを知らない」、ということは「神も、神を信じることも知らない」、そんな者なのだというのです。イエス様は十字架でこう祈られまし た。「父よ、かれらをおゆるしください。かれらは自分が何をしているか、わからずにいるのです。」「自分が何をしているか、わからない」、それが私たちの 本当の姿です。聖霊が来る時、私たちはその本当の自分を知り、真実にうめくことを始めます。
 聖霊が私たちの中でうめくとき、次に示されて来るのは、「被造物のうめき」つまりこの世界とそこに住むすべてのものたちのうめきです。「実に、被造物全 体が、今に至るまで、共にうめき、共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。」「この世は罪と死と苦しみに満ちている」、そんなこと は、私たちは知っていると思うかもしれませんが、本当には知らない。自分も同じように痛み、共感し、共に苦しむまでには知らない。どこかで目をそらし、逃 げ出し、関わらないですむようにしか知ろうとはしない。しかし、聖霊が来られる時、私たちはそれを知る。なぜなら、聖霊はイエス・キリストの霊だからで す。イエス様は、倒れ行く人々の苦しみに「はらわたを裂く」ほどの憐れみを感じられました。聖霊は、そのイエス様の心に、私たちをも触れさせるのです。
 そうして、ますます思い知らされるのは、自らの無力です。「本当に、私たちはどう祈るべきかを知らない。」この繰り返しです。でも、その救いのない繰り 返しのただ中に、この聖霊は来てくださる。「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けてくださる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいか、わから ないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなしてくださるからである。」これは神の救いの始まり、いやもう これがすでに救いそのものではないでしょうか。

 そのように聖霊は、私たちと共に「うめき」つつ、「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる」ので す。「とりなす」というのは、まず「結びつける」こと、「関係を作り、開く」ということです。一人で孤独に悩んでいる、その人のために道を作り、他者との 関わりを開き、助けてあげることです。私たちの「うめき」を、本当にそして確かに神様のところにまで届け、それがちゃんと着くようにしてくださる。昔ヤコ ブという人が、家族との関係、特にお兄さんとの関係を破り、壊すようなことをしてしまい、生まれ育った家を離れ、遠い旅に出なければならないとということ がありました。彼が孤独と失意のうちに野宿していた夜、ヤコブは夢を見ました。自分のいる所と、神様がおられる天との間にはしごがかかっているのです。こ のことは、彼を大きく力づけたことでしょう。それは、自分と神様との間はちゃんとつながっている、そこに道があり、わたしの心、わたしの思い、わたしの願 い、わたしの叫びそしてうめきは、確かに神様のところにまで届く、届いていると知らされたからです。
 だから、「とりなす」とは、具体的にものを届けることでもあります。間に立って、いろいろなものを、言葉を、そして心を届けることです。私たちの思いと 願い、叫びとうめきは、聖霊によって神様のもとへと届きます。そしてその反対に、神様の思い、神様のご計画、神様の私たちへの愛そして真実が、この御霊に よって私たちのもとへと届けられ、知らされ、もたらされるのです。「神はあらかじめ知っておられた者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、 あらかじめ定めて下さった。」それは「あらかじめ」ということです。「あらかじめ」、「最初から」わたしはあなたを知っていた、「最初から」あなたを愛 し、あなたに真実を尽くしてきた。このことが救い主イエス・キリストというこの方によって実現し、そしてそれは必ず全うされ完成される。「あなたの道は、 はじめから終わりまでこのわたしが知っている」と神は語り、伝え、届けてくださるのです。

 そしてついに、この御霊の助けは、最終的に「万事を益として」くださるのです。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共 に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている。」「万事が益となる」とはどういうことでしょうか。「ただ何となく、万事が 好転して、自分の仕事も健康も、家族のこともうまくいくようになった」(竹森満佐一)ということでしょうか。聖書を読んでいきますと、どうもそうではない ようです。私たちの願いや計画がそのまま実現していくというのではなく、「神のご計画・御心」というものがあり、その「ご計画」を知らされ、その「御心」 の中で、自分自身とすべての事柄を発見し、見て、知るようになるということではないでしょうか。
 以前にもご紹介しましたマルティン・ルーサー・キング牧師、アメリカでアフリカ系住民の差別撤廃・解放運動に献身された方ですが、彼は自分に起こった一 つの経験を語っておられます。自分が出した本のサイン会でのことです。「次の瞬間、何かが胸に打ちつけられた感じがした。あっという間にこの―――女性に 刺されていたのだった。すぐにハーレム病院に運ばれた。―――刃物は胸に刺さっていた。レントゲン写真には刃先が大動脈すれすれのところにあるのが写って いた。もし大動脈が破裂してしまっていたら血の海で溺れてしまい、一巻の終わりというところだった。翌朝の『ニューヨーク/タイムズ』には、もし私がく しゃみをしていたら死んでいただろうと書いてあった。」(キング牧師説教集『わたしには夢がある』より)「もし、くしゃみをしていたら、1963年の八 月、私がずっと抱いていた夢をアメリカ国民に語ることもできなかっただろう。―――だから私は自分がくしゃみをしなくて本当によかったと思う。」まさに 「万事が」、この一事が「益となった」のです。この経験からキング牧師は、本当に「万事が益となる」と信じ、語りました。「わが友よ、告白しなければなら ない。困惑の曲がりくねった地点があるだろう。挫折のゴツゴツした場所や、希望の喜びが絶望の疲労に変わる瞬間があるだろう。―――われわれは再び、吸血 鬼のような暴徒の卑怯な行為によってその命が消し去られてしまう何人かの勇気ある公民権運動家たちの棺の前で、涙に濡れた目を押さえなければならないかも しれない。―――われらの日々が低く立ち込める絶望の雲で暗然となる時、またわれらの夜が一千の深夜よりも暗くなる時、どうか覚えておこう。この宇宙には 巨大な悪の山をも引き倒そうと働いている、創造的な力が存在するのだと。それは道なきところに道を作り、暗黒の昨日を輝かしい明日に変えることのできる力 なのだ。」(同上)

 日本でも、同じような働きに生きた方がおられました。関田寛雄とおっしゃる先生です。私も神学校でこの方から説教学を教えていただきました。関田先生 は、長らく神奈川県川崎市で伝道を続けて来られ、昨年の12月に天に召されました。川崎は在日コリアンの方が多い地域です。そこで、そのような方々との出 会いの中で、関田先生は福音の深まりと広がりを経験してこられたと語られます。この関田先生が召される2か月ほど前に語られた言葉があります。「ウクライ ナにおけるロシアの罪を思います。それのみならず、いたるところで、『アメリカ第一主義』とか、『中国第一主義』とか、『第一主義』による国々が現れてま いりましてね、―――そういう罪のはびこるこの世界に対して、決して私たちは希望を失ってはならない。罪のはびこるこの世界ではありますけれども、しか し、イエス・キリストによって神がこの世と和解された。だから、どんなに希望が見えないような状況でありましても、われわれは、神がこの世と和解されたと いう約束をしっかり保って、そして結果が見えなくても、わからなくても、和解の営みを続けて行く。そこに希望があると思うんですね。『希望』というと、見 込みがあるから希望するというのではなくて、全く見込みはないけれども、その『共に生きる』という営みを続けて行く。その結果が私の生涯には現われて来な いかもしれません。川崎で様々な和解の営み―――人権問題について、民族間の和解について動いてまいりましたけれども、結局は空回りする場面があるわけで すよ。ヘイトスピーチ反対のビラを配っても、ほとんどの方は取ってくれない。逆に川崎駅の前の方でヘイトスピーチの大きな演説をやっているグループがいる わけですね。それでも変わらず、ヘイトスピーチ反対のビラを撒くわけです。ほとんどが空回り状態。でもね、私は思うんです。自分の生涯が終わるまでに結果 が見えなくても、いいじゃないか。結果を出すのは、神様です。神様は最終的に、終末の日に、神様は結果を出してくださる。そういう神様の約束があるから、 私の生涯で結果が見えなくても、いいんです。神様にお預けするわけです。大丈夫―――今もなお神様は働いていらっしゃる。その働きの一端を、何十年かの人 生で担っただけなんです。大事なことは、神様が働いていらっしゃる。その働きに参加しているわけですよ。結果が見えなくても、神様は出してくださる。 ―――中途半端でもいいから、『汝の隣人を愛しなさい』という、『共に生きる』という営みを続けて行きたいと思います。」(関田寛雄、2022年10月 16日、横浜蒔田教会での講演より)
 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださる」。聖霊は今、まさにこのことを私 たちにも語り伝えてくれているのです。「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。 ―――しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。―――どんな被造物も、わたしたち の主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」

(祈り)
天にまします我らの父よ、イエス・キリストによって私たちすべてのものを愛された神よ。
 あの日、あなたのもとから聖霊が、私たちのただ中に来られました。聖霊は、常に私たちと共におられ、私たちのためにうめき、とりなし、すべてを益として くださいます。どうかこの聖霊を信じ、聖霊に委ねつつ、信仰と希望と愛とに生きて行けますよう、私たち一人一人と教会をお導きください。
すべてのあらゆる人の救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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