キリストはもう共にいる           
                       
ローマ人への手紙第7章14〜25節


 「パウロさん、どうかしたの?」と、思わず問いたくなるような調子の転換です。「ローマ人への手紙」は、7章に入ると、急に調子ががらりと変わ ります。これまでの数章では、「神の愛」「恵み」「義とされる」「喜び」「希望」といった、圧倒的に肯定的・積極的な言葉が連続して出て来ていたのです。 しかしこの7章に入ると、パウロは急に調子を変えて、律法によって知られる罪とその厳しい現実について語り出すのです。
 この所で、パウロはまず律法の働きについて語り始めます。「律法」とは何か。それもまた、神によって与えられたものである。その「律法」は、何をするの でしょうか、どんな働きをするのでしょうか。「律法」は、罪を教えるのです。「罪」とは何か、同時にその反対に「善、正しいことは何か」。そして、その 「罪」を犯した者を裁き、断罪するのです。「あなたは罪を犯した。あなたは罪人だ。」パウロは言います。「律法」は私に罪を教えた、「むさぼるな」と。で は、それを聞き、受けた私はどうだったか。「しかるに罪は戒めによって、機会を捉え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起こさせた。」「確かに私 は、『律法』によって、『むさぼり』という罪を知り、『むさぼることは罪だ』と知った。では、むさぼらなくなったかと言うと、全然そんなことはない。『む さぼり』という罪を知って、私はますますむさぼるようになってしまった。」これは、ある意味、人間が持っている性質・傾向と関係があるのではないでしょう か。古来、いろいな神話や昔話に、「禁止命令を破ってしまう」というものがあります。日本では「鶴の恩返し」が有名でしょうか。「ある男が鶴を助けた。そ の鶴が一人の人間の女性に成って、男のところに来て、一緒に住むようになった。女は毎晩不思議な美しい布を織ってくれる。ただいつも『織っている間、決し てその部屋を覗き見ないでください』と言う。男は、そう言われるとよけいに見たくなり、ついに禁止命令を破り覗いてしまう。すると、そこにいたのは鶴だっ た。女だった鶴は、去って行ってしまった。」「するな」と言われると、よけいにしたくなってしまうのです。「してはいけない」とわかってはいるけれど、 「わかっちゃいるけど、やめられない」のです。人間だれしも差別や戦争が悪いということはわかっているはずです。しかし、どんなに知識や情報が増え技術が 進歩しても、なくならないのです、止められないのです。
 ここから、パウロ自身の罪の経験が赤裸々に告白され、語られて行きます。自分の罪のゆえに、いかに自分が苦しみ、悩み、ついに絶望に至ったか。「わたし は肉につける者であって、罪の下に売られているのである。」「罪の下に売られている」、それは「罪の奴隷だ」という意味です。「罪」はたまに犯すかもしれ ないけれど、「自分で罪をちゃんとコントロールしている」とかではありません。私は「罪」の下に「売られてしまっている」状況だ、完全に罪の支配下に入っ てしまい、四六時中罪によって支配され、監視され、突き動かされているのだ。「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲す る事は行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。」そして、ついにパウロはこう告白するにまで至るのです。「わたしの肢体には別の律法があっ て、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人 間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」
 この箇所については、古代からその解釈について論争があります。ここは、@「パウロがイエス・キリストを信じる前、つまりクリスチャンになる前の経験を 書いている」のだろうか、あるいは、A「クリスチャンとなった後の経験を書いている」のだろうか。私の考えを申し上げましょう。私の考えでは、「どちらも 正しい」のです。

 一つには、パウロはキリストに出会う前の、自分の「罪」の経験と苦しみを振り返っているのです。具体的には、自分がキリスト教会の迫害者、同時にイエ ス・キリスト御自身を迫害し苦しめる者であったという、彼自身のぬぐうことのできない忌まわしい過去の行いと生き方があったと思います。しかし、その自分 の罪の経験を、パウロはただ一人孤独の内に振り返っているのではありません。以前に、この同じ「ローマ人への手紙」のお話で、「神の愛があるからこそ、罪 もあるのだ」ということを申しました。あのイエスがなさった「放蕩息子」の話を思い出していただきたいのです。父親が「もう死んだ」ことにして父の財産を もらい、他国へ出て行った弟息子が、そこで悪に足を踏み入れ、自分自身を破滅に追い込んでいるその間、父の愛はもうなくなってしまったのでしょうか。「あ んな奴はもう息子でも何でもない」と、父は息子を見放し、見捨ててしまっていたのでしょうか。また、そもそも息子が悪の世界に踏み入り、罪の生活を送って いたその時、父はどこにもいなかったのでしょうか。そんなことはありません。父は、その間も絶えず息子のことを心に懸け息子を思い、ひたすらに彼を待ち続 けました。父の心は、いつも息子と共にあったのです。パウロが罪に悩み、苦しみ、絶望の淵をさまよっていたその時も、そのパウロと共に、神はもうすでに共 におられたのです。だからこそ、パウロは今、その愛の神の前で、その自分の罪の過去を振り返るのです。普通であれば、決して振り返りたくはないその罪の過 去を振り返ることができるのです。「神はすでに共におられた」。さらに言うならば、イエス・キリスト、キリストもまたすでに、罪に生きていたパウロと共に おられたのです。「まことの光」キリストが私たちの世に来られ、現われたとき、「世の闇」である罪もまた明らかに現れたのです。このことをパウロは、「神 の義の啓示は、また同時に人間の罪の啓示であった」と言い表します。キリストは、もうすでにこの罪の世に来られ、パウロがその罪に苦しんでいたその時に、 パウロと共に苦しみ、パウロのその罪と苦しみを担い、あの十字架にまで進んで行かれました。このキリストの愛は、もうすでにパウロと共にあったのです。こ のイエスは、もうすでにパウロと共におられたのです。このキリストの愛ゆえにこそ、今パウロは自らの罪、その罪の過去を振り返ることができるのです。

 そして同時に、この告白はまた、今のパウロ、つまりイエス・キリストを信じキリスト者となった今のパウロの、偽らざる告白であり、まぎれもない現実であ るのです。やはり以前に、「クリスチャンになっても、私たちの『内容』は一つも変わらないのだ」と申しました。そして、その時も「放蕩息子」のたとえを引 きました。「『放蕩息子』が父のもとに帰ってきたその時、彼は別に良い人間になったわけでもなければ、奇跡的にまともな人間になったわけでもありませんで した。むしろ、彼は身も心も生き方も『ぼろぼろ』の状態になって、父の胸にまでたどり着いたのでした。彼が長年培ってきてしまった、悪い生活習慣やライフ スタイルはそのままであったことでしょう。それを丸ごと抱えたまま、彼は父のもとにやって来たのです。彼は、彼のままであったのです。私たちがイエス・キ リストを信じて、父なる神のもとに帰ってくるときも、まったく同じです。放蕩息子が放蕩息子のままであったように、その時私たちも、私たちのままなので す。」そうです、イエス・キリストを信じた後も、パウロは、そして私たちも、罪の現実を抱えており、抱え続けているのです。
 その意味で言うなら、これは「放蕩息子、その後」の経験を語っている言葉であると言えましょう。彼は問題を抱えたまま、罪の現実を抱えたまま、でも父の 愛の中に、父との愛の関係の中へと受け入れられ、受け止められたのです。そこから、彼の新しい生活、新しい人生が始まります。でもそれは、新たな苦しみの 始まりです。なぜなら、彼は今こそ自分の厳しい現実、罪の現実に向き合わなければならないからです。そして、この父の愛の中でこそ、自らの罪とその現実に 向き合い、それを受け入れ、そしてそれを乗り越えて生きようとして行くことができるのです。この道の上でパウロは、そして私たちもこう告白するに至るので す。「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。」「わたし の肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたし は、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」

 そして今こそ、イエス・キリストはもう既に共におられます。このパウロが、自分の罪と向き合い、それと苦闘し、それを乗り越えて行こうとするこのすべて の道において、キリストはもう既にパウロと共に、また私たちと共にいてくださるのです。パウロは、その罪との闘い、その苦しみのただ中にあっても、絶えず 折々にこのことを思い起こし、信仰によってこのことを改めて受け止めて、思わずこう言わずにはおられないのです。「わたしは、なんというみじめな人間なの だろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。」
 そしてそれはただ、「イエスが共におられる」というだけにとどまりません。イエス・キリストは、この罪に苦しむ私たちのために、もう既にはっきりとした 救いの業を行い、成し遂げてくださいました。それが、この7章の前半に語られていることです。「わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリスト のからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わた したちが神のために実を結ぶに至るためなのである。」(7・4)「律法」は、私たちに「罪」を教えてくれます。それは、何が「罪」であり何が「善」である のか。しかし、それは「教える」だけです。それには、私たちを創り変え、新しく生かす力はありません。結果として、それは私たちを裁き、断罪するだけで す。だから「律法」によって導かれるなら、私たちには罪と死があるだけです。「律法」を、「この世の正しさ」と言い換えることもできるでしょう。以前お話 した下関駅放火事件を起こしたFさんを、どんな罰も脅しも変えることはできなかっのです。
 しかし神は、イエス・キリストによって、そんな「律法」との関係、「律法」の導きから私たちを引き離してくださいました。「このように、あなたがたも、 キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。」「律法」は、引き続きこの世にあり続けるでしょう。でもそれはもう、決して私たちを導き助け るものでありません。神は私たちを、「新しい関係」の中へと導き入れ、至らせてくださったのです。「それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中から よみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。」今や私たちは、「死人の中からよみがえらされたか た」、イエス・キリストのものです。イエスが、常に私たちと共にあり、共に生き、共に歩まれるのです。神のもとへと立ち帰らされたからこそ、その愛の中に 生かされているからこそ、私たちは自分の罪に苦しみます。しかしその私たちと、イエス・キリストはもう既に共におられるのです。「そうか、苦しいのか、苦 しいだろう。しかし、わたしがあなたと共にいる。だから、この道をわたしと共に歩み続けよう。わたしと共に、この神の前に生き続けよう。」さらにイエス・ キリストは、私たちに代わって、私たちと共に、私たちの神にある将来を見据え、見続けていてくださいます。「こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに 至るためなのである。」

 最後に、これは私たちの個人的な、内面の話にだけ留まるものではないと思います。罪は一人一人の人間の問題であると同時に、その一人一人の人間たちに よって作り出されるこの社会、この世全体の問題でもあるからです。日本の女性運動の先駆けと言うべき山川菊栄という方がおられます。菊栄さんは、若い頃に 結核を患われました。当時の結核は「不治の病」で、この病のゆえに離婚をされても文句を言えないような状況でした。事実彼女の母も「離婚もやむなし」とい う思いで、それを菊栄さんのパートナー均さんに伝えたそうです。しかし、均さんは「どこまでも自分の手で世話をするから」と答えたというのです。そして菊 栄さんにはこう話しました。「われわれの戦いは長いのだ。あせることはない。今のわれわれの仕事は、なによりまずあなたの健康をとりもどすことだ。僕はそ のためにはどんなことでもするから、あなたもそのつもりで身体をなおすことだけ考えていてくれ」。(山川菊栄『おんな二代の記』より)イエス・キリストも また、いや、イエス・キリストこそ、こう語って絶えず私たちを力づけ、私たちを導き、私たちと共に生きてくださるのです。「われわれの戦いは長いのだ。わ たしは、あなたがたのためにどんなことでもするから、あなたもそのつもりで、神の愛の中を生きて行ってほしい。自分の罪、自分たちの罪、この世の罪と絶え ず直面し、そのために苦しむだろうが、このわたしがもう共にいるから、神の前で共に生きて行こう。」

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 私たちは、イエス・キリストによって、「みじめな罪人」であるままに、あなたの愛の御手に抱き留められ、受け留められ、受け入れられました。だからこそ 私たちは、自らの罪とその現実とに向かい合い、それとたたかい、それを乗り越えて行こうとします。それは、ある意味で厳しくつらく苦しい道です。しかし、 その道にこそ、イエス・キリストはもう既に私たちと共におられます。イエスは、私たちの声を聞き、思いを受け止め、慰めと力づけ、そして助けと導きを常に 与えてくださいます。どうか、このイエスと共に歩み、罪とたたかい、神の前に共に生きる私たち一人一人また教会としてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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