キリストが共に死んで、共に生きる           
                       
ローマ人への手紙第6章1〜14節


 「ローマ人への手紙」「ローマ書」をずっと共に読み、聞いています。その中で、気づかれたことがあるのではないでしょうか。題が、いつも一定の 型になっていることです。「神は福音する」「神は愛する」「神は救う」。そして今日は、「キリストが共に死んで、共に生きる」。「何々する」という動詞が 用いられています。そこには、「福音を動詞的に、動的に理解したい」という思い、テーマがあるのです。「神の義」というような、抽象的な概念を理解しよう とするのではないのです。「神の義」とは「神の救いの働き」なのだ、「義とされる」とは「神が関わり、共に生きてくださる」という関係のことなのだという ように、福音のメッセージを「動詞的」に理解し、そこにダイナミックな神の働きと道を見て行こうとしているのです。
 もう一つは、主語が「神は」「キリストが」というように、主語が「私」とか「私たち」とかではなくて、「神」や「イエス・キリスト」であるということで す。このことが、今日のお話のテーマです。さて、先週に引き続いて、皆さんに問いたいと思います。クリスチャンになると、何がどう変わるのでしょうか。先 週は、「関係が変わる」と申し上げました。クリスチャンになっても、私たちの「内容」は変わらない、でも「関係が変わる」、神との関係が一変する、そこか らすべてが変わって行く。今日は、それをもう一つ別の言い方で表したいと思います。イエス・キリストを信じてクリスチャンになるとき、「主語が変わる」。 「私たちが」、特に「私が」「私が」というあり方、生き方から、「神が」「キリストが」というあり方、生き方へと変わる、変えられる、それがイエス・キリ ストの福音であり、キリスト教信仰なのです。「私が」から「神が」「キリストが」へ、主語の転換、主体の転換が起こる、これが福音なのです。
 こんな言葉があります。「洗礼を受ける前の自分は、自分が自分の中心にいたのではないでしょうか。その自分が権力やお金の力に最大の価値を認めていると すれば、権力やお金の奴隷のように生きるようにならざるを得ません。」(北村慈郎、ブログ「なんちゃって牧師の日記」より)「洗礼を受ける前」つまりクリ スチャンになる前には、「自分が自分の中心にいたのではないか」、つまり「自分が」「私が」と、「自分」「私」が主語・主体であったのではないかと問いか けられるのです。その「私」とは、「私」が単独でいるわけではなくて、実はこの世、この社会の様々な価値や、国家や企業といった権威によって大きく影響さ れ、時には流され、時には誘惑され揺さぶられるような「私」なのでした。
 またある尼僧の方の言葉にこんなのがありました。「私が頑張る 私が悩んでる この私がいるから 私が念ずる 親鸞聖人はどれだけ修行をしてもこの、 『私が』から離れることができませんでした。しかしその自我が強いために救われないことを学ばれるのです。」要するに「自分」「私」というものが一番問題 であり、それが私たちの悩みの根源なのだということでしょう。私はキリスト者ですが、これには共感をいたしました。振り返りますと私も、この「私」という ものによってずっと悩まされ、悩んでいたことを思い出します。「どうして私は、こんな私なのだろう。」それは、この方がおっしゃるように、人の言葉や行動 によって上がり下がりを繰り返し、どこに向かって行くのかわからない私です。また、聖書に照らして言うならば、それは神様に創られ愛されて神にまっすぐ向 かうべきはずが、その「的」を外して見当違いな方向へと逸れ、離れて行ってしまう私。そして、いつも「私」のことしか考え、求めていない、「喜ぶ者と共に 喜び、泣く者と共に泣く」どころではない、それとは全く反対に行動してしまう私でありました。

 このような「私」をいったいどうしたらよいのでしょうか。仏教ではどう考えるのでしょうか。先ほどのお話をはたして正確に捉えているか心もとないのです が、私なりに表現しますと、それは「その自分、自分の心というものをしっかり見つめる、見つめることでそれを理解し、受け入れる、そうすることで自分があ る意味コントロールできるようにされて行く」ということのようでした。この点に、キリスト教信仰との違いがあるように思います。聖書は、またパウロは問う のです。「この『私』というもの、それははたして『見つめ、理解し、受け入れる』というようなことでなんとかなるものなのだろうか。」その答えは「否」で す。「否、それは決してそのようなことでは、何ともならず、どうにもならない。自分で自分を何とかすることは、どうにもできない。」彼は自らを振り返りな がら、こう述べています。「ああ、わたしは何とみじめな人間なのだろう。」
 ではどうするのか、どうなるのか。ここに福音があるのです、「良い知らせ」があるのです。神の御子、救い主イエス・キリストが、その「私」、「古い 私」、「神から離れ、罪に生きていた私」を、ご自分と一緒に十字架に引っ張って行ってくださる。そうして、ご自身と一緒にその「古い私」を十字架につけ、 死なせてくださる。「私たちの罪のため」と言うけれど「罪」それだけでなく、あなたそれ自身、丸ごとの「あなた」が全身全霊、あのキリストと結び合わさ れ、一つとされたのだ。「キリストがあなたのために死んでくださった」と言うとき、それは主イエスがご自身のうちに、あなたを丸ごと引き込んでくださり、 「一心同体」としてくださったということなのだ。「一心同体」とは、どういうことでしょうか。それは、歌の文句がよく教えてくれます。「死ぬも生きるも一 緒」!キリストは十字架に死なれました。しかもあなたを、「古いあなた」、神に背き、罪に堕ち、死と滅びに向かう「あなた」を引き連れて道連れにして死ん でくださったのです。キリストが死んだとき、「罪のあなた」も死んだのです。

 このキリストの御業、出来事、救いを語り告げ、指し示すものがバプテスマ、私たちが信仰を受け、救いに至らされたことのしるしなのです。「バプテスマ」 とは、クリスチャンになるための儀式です。それは、物理的・外面的には、クリスチャンになろうとする人が、教会にある水槽の中に入っていき、全身水に沈め られ、その後に引き上げられるという形を取ります。「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあ ずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。」
 私は自分がバプテスマを受けた時のことを忘れることができません。多くの皆さんは「感動した」というようなことをおっしゃいますが、私はひたすら「水が 冷たかった」ということを覚えているのです。3月半ばの時期です。昔は「寒いので、お湯を入れる」などということはほとんどなく、本当に冷たかったので す。それだけでなく、自分がその冷たい水の中に引き込まれ、沈んで行くような感じを持ちました。それは、まさしく「死」の出来事、「古い私の死」だったの だと思います。一つの出来事をきっかけに、私は生きる喜びも活力もなくしてしまったようになりました。そして、「自分」「私」というものを抱え続けて生き ることはもうできない、したくない、イエス様に何もかもおまかせしようと思ったのです。イエス様は丸ごと引き受けてくださいました。そして、主と共にその 時「古い私」もまた死んだのです。しかし、それは同時に新しい命の始まりでした。「感動」というものはほとんどありませんでしたが、その日から私の人生は 変わりました、変えられました。見るもの、考えること、目指すもの、全部変わったように感じられました。思っていたのと、願っていたのと、丸っきり違う道 へとどんどん導かれて行くようでした。それには大きな葛藤もありましたが、でもそれは神が計画し、備え、導かれた道だったのです。

 イエス・キリストを信じ、主イエスと共に生きるとき、「古き人」はもう既に死んでいるのです。「わたしたちはこの事を知っている。わたしたちの内の古き 人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ 者は、罪から解放されているからである。」このことは、一つの大きな「慰め」であり「励まし」そして「力づけ」です。古来多くの人を悩まして来た「自分」 というもの、それがイエス・キリストを信じるときには「もう既に死んでいる」と聞くことがゆるされるのです。私は昔聞いて今でも忘れられない説教がありま す。「古いあなたはもう死んでいるのです。十字架につけられているのです。十字架というのは、両手もだめ、両足もだめ、せいぜい口だけなのです。あれこれ 言ってあなたを悩ますかも知れないけれど、本当は何もできないのです。」パウロが「キリストを信じた者はもはや罪の中に留まることはできない」と言うと き、それはこのことなのです。「罪の中に留まろう」にも、その「罪のあなた」は死んでもういないのです。
 しかしまた、それは同時に「問いかけ」であり「警告」です。「あなたは『古い自分』に発言させすぎているのではないか、思ったように物を言うことを許し ているのではないか。」自分に対して、また周りの人たちに対して、そして教会で、また「この世」この社会において、この「古い自分」が語り出し、幅をきか せるとき、人は傷つき、私たちの徳は建たず、キリストの栄光はひと時曇らされたようになってしまうのです。

 しかし何と言っても、イエス・キリストを信じて生きること、それはキリストご自身がこの私と共に生きてくださることであり、私たちの新しい命の始まりと 歩みなのです。イエス・キリストを信じるとき、「主語が変わる」、キリストがこの私と共に生き始めてくださる。「もしわたしたちが、キリストと共に死んだ なら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているか らである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。」パウロは、このこと を別の所で「もはや自分が生きるのではない」と言っています。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キ リストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2・19〜20)「もう『自分が自分が』と言いながら、自分の力で生きようとするのではな い。そうではなくキリストが、復活のキリストが私たちの内にあって、ご自身の輝く命を、私たち共に生きてくださるのだ。」
 だから、パウロはこう強く勧め、命じるのです。「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者 であることを、認むべきである。」「考えなさい」、「そう思いなさい」! 問題は、何を真実・真理として生きるか、いや、だれを真実とするか、ということ なのです。私の感覚だろうか、この世の価値観・常識だろうか。いや、そうではなく、この神の御言葉・語りかけを「まぎれもない真実」として、こう語ってく ださる神ご自身を「真実な方」として生きること、これこそが「信仰」なのです。それが神が与えてくださる信仰なのです。
 それはまた、「人に向かい、人と共に生きる」信仰でもあります。パウロが「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と語る信仰です。私たちの中で私 たちと共に生きるイエス・キリストは、常に「共に生きる」という生き方と道を歩まれます。とすれば、この私もまた、私たちもまた、このキリストと共に「共 に生きる」という生き方と方向性をもって生きるよりほかはありません。この信仰を与えられて、このキリストと共に、私たちは広く世の中に出て行きます。こ の文脈の中で、私は「社会」への視点と道筋を示され、与えられました。「洗礼を受けてキリスト者となった者は、自分の中に自分が中心に居座っているのでは なく、イエスを自分の中心に迎えて、イエスに従って生きるように導かれた者なのです。勿論洗礼を受けてキリスト者になった私たちも、生きているところは今 の日本の社会ですから、この社会の圧力を受けざるを得ません。しかし―――私たちは、この社会の圧力に負けない命が、イエスの神から与えられることを信じ ています。ですから、この社会の圧力に抵抗して、イエスの仲間として、すべての人が分け隔てなく、助け合い、支え合って生きていくことができる神の国(神 の支配)を信じ、その到来を待ち望みながら生きているのです。」(北村慈郎、同上)
 「イエス・キリストが共に死に、そしてキリストが共に生きている」、ずっとこのキリストに導かれて、このキリストと共に生き、このキリストを指し示して生きて行く、そのようなお一人一人また教会としてますます歩まれますよう、切にお祈りいたします。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 「キリストが共に死に、そしてキリストが共に生きている」、この信仰とこの恵みの現実を私たち教会とその一人一人にお与えくださり、心から御名をあが め、感謝いたします。どうか、こうして与えられ委ねられた命を、共に喜び分かち合い、またあなたが愛し目指しておられる多くの様々な方と分かち合い、仕え 合い、喜び合って行く「キリストの体」として、四日市教会とそのお一人お一人をこれからも送り出し、導き、お用いください。
 すべてのあらゆる人の救い主イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

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