神は関わり、共に行く           
                       
ローマ人への手紙第5章1〜11節


 「どんな宗教、どんな信仰にも、キリスト教にも『ご利益』がある」と言ったら、語弊があるでしょうか。「キリスト教は、『ご利益宗教』ではない」という 考え方・言い方もあります。でも、それは「商売繁盛・入試合格・恋愛成就」といった「この世の利益」ではないかもしれませんが、やはりどこかで神様から別 の「良きもの」をいただいていることを信じているのではないでしょうか。その「良きもの」を「救い」と言い換えることもできるでしょう。宗教や信仰は、必 ず何らかの「救い」を約束し、信じるものであるというわけです。病の苦しみからの救い、人間関係の破れからの救い、自分の罪意識からの救いなどなど。で は、私たちが信じるキリストの教会の信仰では、はたしてどんな良きことが約束され、私たちはどんな救いを信じているのでしょうか。

 パウロは言います。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得てい る。」もっと短くつづめて言うと「信仰によって義とされる」ということ、さらに一言で言えば「義とされる」ことこそ、キリスト教の救いであり、私たちの信 仰に対して約束されている「良きこと」なのです。いきなり難しい言葉が出て来ました。「義とされる」なんて、よくわからないですね。聖書において「義」と は、もともと「関係」に関する言葉なのです。正しい関係、神との正しい関係、また隣人との、様々な場・社会における正しい関係、それが「義」なのです。で すから、それを私は今日、「関係の救い」「関係が救われる」「神との関係が完全に回復され、新しく結ばれる」ことだと表現してみたいと思います。イエス・ キリストが私たちに下さっている「良いもの」「良いこと」、それは「関係」です。「神様との良い、正しい関係」、それをイエス・キリストは私たちのために 開き、与えてくださったのです。「関係」、これこそが大切であり決定的なのです。「イエス・キリストによって、神に義とされる」というときの「義」とは、 「内容」ではなく、「関係」に関する言葉なのです。
 よく誤解をする方がいます。クリスチャンになるとは、「いい人」になることだ、「だから、もう少し努力して、まともな人間になってから、クリスチャンに なります」という人がいます。「もう少し聖書や信仰のことがわかって、自信ができたら、バプテスマを受けます」という人もいます。そういう人、「関係」で はなくて、「まともな人間、良い人間になる」とか、「聖書や信仰の知識」とか「自信」というような、「内容」をもらうのだと思うのです。ところが、キリス ト信仰では、少なくともその初めは人間の「内容」は何も変わらない、別に良い、優れた、強い人になるのではないし、なる必要もないのです。「放蕩息子」が 父のもとに帰ってきたその時、彼は別に良い人間になったわけでもなければ、奇跡的にまともな人間になったわけでもありませんでした。むしろ、彼は身も心も 生き方も「ぼろぼろ」の状態になって、父の胸にまでたどり着いたのでした。彼が長年培ってきてしまった、悪い生活習慣やライフスタイルはそのままであった ことでしょう。それを丸ごと抱えたまま、彼は父のもとにやって来たのです。彼は、彼のままであったのです。私たちがイエス・キリストを信じて、父なる神の もとに帰ってくるときも、まったく同じです。放蕩息子が放蕩息子のままであったように、その時私たちも、私たちのままなのです。

 私たちの「内容」は何も変わらない、そのままです。そうではなく、「関係」が変わる。ということは、これまで私たちは、神様との関係が損なわれ、断ち切 られていたということです。あの「放蕩息子」のように、私たちの命とすべての幸いの源・根源である神から離れ、背き、神を忘れ、神を知らずに生きてきた、 これが聖書が言う「罪」なのです。「罪」もまた「関係の言葉」なのです。ところが、そのような関係に破れている「わたし」は「わたし」のままで、弱い、不 信心な、罪人のままで、神様が、神様の方から「わたし」と良い、正しい関係を結んでくださいます。神が罪人である私たちと関わりを持ってくださるのです。 このことこそが私たちに新しい命を与え、人生を変えるのです。これが、主イエス・キリストがご自身のすべてを懸けて私たちに与えてくださったことなので す。
 このことを、パウロはこのように表現しているのです。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストに より、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望を もって喜んでいる。」今わたしたちは神との「平和の関係」の中に入れられているのです。何のこだわりも、責めも、わだかまりもない関係の中に置かれている のです。また私たちは「恵みの関係」の中に、神様によって何の条件も、能力も、資格も問われずに愛されるという関係の中に導き入れられているのです。そし て私たちは「栄光にあずかる」、神様が私たちを見捨てずに導き、必ず目標・完成・ゴールに至らせてくださるという「希望の関係」の中を導かれているので す。この「関係」、この神様との「太く、堅く、確かなパイプ」を、パウロは喜び誇るのだと語るのです。
 先日からご紹介しているFさんについて、少しだけまた触れたいと思います。山口県下関駅に放火してしまった人です。「先日、Fさんがテレビのインタ ビューを受けておられました。『もう火はつけませんか』とストレートな質問に、彼は『もうつけません』と明確に答えておられました。『なぜですか』と突っ 込まれると、『Aさん(注 Fさんを支援している牧師)たちに迷惑をかけたくないから』と答えられました。これはとても大事な一言です。彼が火をつけた理 由は、『刑務所に戻りたい』でした。では、火をつけない理由は何か。『刑務所に戻りたくない』ではない。共に生きている人のために、Fさんは『火をつけな い』というのです。彼の中には、確実に『他者』が住み始めています。出会った人たちがFさんの中に生きているのです。」(奥田知志『いつか笑える日が来 る』より、氏名部分のみ改変)そうです、他の人との関係、「関係」がFさんを変えたのです。

 さて、その「関係」を問い、ただし、確かめるものがあります。また「関係」とは、問われてこそ、確かめられ、確かなものとして示されると言えます。それ は「患難」と呼ばれるものです。またそれは「試練」とも「苦しみ」とも呼ばれます。ここでも誤解する方がいます。「クリスチャンになったら、何の苦しみも 悩みもなくなる」。そんなことはありません。この世の常として、私たちには苦しみがやって来ますし、ひどく悩みもします。また、信じるからこその「試練」 「患難」ということもあります。私たちの信仰というのは、そういう煩わしい一切のものから逃れて、この世の悪や災いからも完全に離れて、ひたすら静かに平 穏に暮らすというようなものではありません。むしろ、そういうこの世の「嵐」と「荒波」のただ中を、激しく揺さぶられ動かされながらもしっかりと支えられ て、力強く乗り越えて進んで行くことができるものなのです。この道筋を、パウロはこんなふうに表わします。「それだけでなく、患難をも喜んでいる。なぜな ら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っている」。「患難をも耐える」「我慢する」というのではないのです。む しろ、それを「喜び」「誇る」とまで言う。またこれは、「艱難汝を玉にす」「苦しみの中でこそ、人は強くなれる」というような精神主義、能力主義でもない のです。
 これもまた「関係」の話なのです。その「患難」・試練・苦しみを前にして、この「わたし」は弱く、無力なままです。もし「わたし」独りだけであるなら、 こうなるほかはないでしょう。「患難は不平を生み出し、不平は不和を生み出し、不和は自暴自棄を生み出し、自暴自棄は絶望と破滅に至る」。しかしそんな私 たちを愛される神がおられます。「神は関わり、共に行く」のです。そんな私たち、そんなただ中の私たちを愛し、愛し抜かれる神がいます。そんな私たちを、 決して変わらない愛と真実とをもって、その力ある御手をもって、神はこのように導いてくださるのです。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、練 達は希望を生み出す」。これは、そういう「関係」のストーリーなのです。だから、確信をもってこう言えるのです、「そして、希望は失望に終ることはな い」。

 どうしてでしょうか。どうしてそこまで言えるのでしょうか。その答えは「愛」です。「なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたした ちの心に注がれているからである。」この「関係」を通して、この「太いパイプ」を通して、神の愛が私たちの心に脈々と流れ込んで来る!「神の愛」、それは 比べるもののない愛、途方もない愛、度肝を抜く愛です。
 私たち人間の愛は、たいていこうです。「正しい人のために死ぬ者はほとんどいないであろう」。私たちは通常、「人のために死ぬ」などということはできま せん。「正しい人のため」であっても、なかなかそんなことはできない。それどころか、ちょっとした犠牲を払うことさえ煩わしいと思える、まことに自己中心 的な者なのです。そんな私たちでも、時に人のために犠牲を払ってもいいと思えることがある。「善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。」少 し広げて、私たちに親しい人、親切にしてくれる人、何かしら魅力があり慕わしい人、見どころがあると思える人のためには、何かをしてあげたいと思う、進ん で犠牲を払うこともあるかもしれない。それだって、「死ぬ」というほどの大きなこととなると、「あるいはいるであろう」という程度なのです。
 ところが、神の愛はこうだというのです。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んでくださったのであ る。」「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」「わた したちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けた」のだと。「弱さ」とは、あらゆる人間的「弱さ」であり、欠点であり、限界性です。意志 や気力の弱さであり、なかなか前向きになれず暗い心を振り払えないことであり、自信が持てず自分のことを決して良く考えられないことです。あるいは逆に、 自信過剰であり、傲慢であり、他者を押しのけても何とも思わない、そして自分とその将来について慢心していることです。また「不信心」とは、宗教的・信仰 的なあらゆる弱さと不真実と悪を表わします。祈れない心であり、神に従うと言いながらそれを貫けないことであり、神を信じることが隣人を愛して共に生きる ことに結びつかず、時に矛盾してしまう自己中心性であり、「都合の良さ」であり、弱さです。そして極め付け、私たちは神の前に「罪人」であり「神の敵」な のです。神に徹底的に逆らい、根本的に離れ背いている者なのです。そんな者たちのために、犠牲を払うどころではない、神の御子イエス・キリストは、そんな 私たちのために、ご自分の命を投げ出し、私たちを救うために死んでくださった。それは、私たちのあらゆる弱さ、不真実、自己中心、愚かさ、そして罪とその あらゆる深みと暗さとを、ことごとくご自分の身に引き受け、担うことでした。それが、あの十字架の道だったのです。それが、あのイエスの死の意味であった のです。このようにして神はその愛を表わされた、これが神の愛、これこそ神の愛だ! 一体全体、こんな愛ってありますか。まさに、比類のない、度肝を抜く 愛、途方もない愛です。

 この愛が、この神の愛こそが、私たちの心に注がれている、脈々と注がれている。この「関係」の中に入れられ、この「関係」の中に置かれ、この「関係」の 中を導かれている。だから、私たちは喜ぶのです。この「関係」の中でこそ、このように語って生きることさえゆるされるのです。「それだけでなく、患難をも 喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。そして、希望は失望に終ることは ない。」
 そして、この「関係」の中には、この「神との義なる関係」の中には、ただ「わたし」だけが孤独にいるのではなく、「私たち」、イエスが「われら」と呼ぶ あの人たちがいます。この「関係」の中を、神に向かって共に生きるべき、信仰の友・同志たち、そして隣人たち、そしてまだ見ぬ多くの人々もいるのです。そ の「私たち」の間にあって私たちは、この「関係」を映し出して生きる、この「神との関係」が、私たちのお互いの関係の中に映し出され、少しでもそれに似た 関わりが示されるようにと願いながら、互いに努力しながら、共に生きるのです。教会は、この神の愛と義が映し出され、語り合われ、分かち合われ、私たちの 行いと言葉と生き方とをもって、この世に向かって、この社会とそこで生きる人々に向かって表される場なのです。「神は関わり、共に行く」。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 主イエスは、神から離れ罪に生きていた私たちのために生き、そして死なれました。その生涯と血潮とによって私たちは、あなたと和解され、あなたとの正し い・良き・幸いな関係の中へと、共に入れられ、共に生かされました。あなたは私たちとどこまでも関わり、そして患難の中をも共に行かれます。このあなたの 愛と恵み、その真実を心より感謝いたします。どうかこの私たち一人一人またその教会が、このあなたの途方もない愛とその関係との証人またしもべとして生 き、歩み、働くことができますように。
すべてのあらゆる人の救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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