神は救う、神の一生懸命
ローマ人への手紙第3章21〜31節
同じ聖書でも、このような手紙は、福音書などに比べると、抽象的でイメージがつかみにくいと言われます。確かに、福音書はいわば文学的な仕方で
書かれていますから、イエス様がだれに対してどのように行動されたかということがすぐわかりますし、それによってその時のイエス様の気持ちはどうか、また
イエス様に出会っていただいた人の気持ちはどうだったかなどと想像をめぐらすこともしやすいと思います。では、この手紙のような文章を読むときにどうすれ
ばよいか。それは、もっと想像力を働かせることだと思います。字面だけを読んでいますと、たとえば「神の業」とか言う場合、ただの理屈を語っているようで
すが、でもその背後には実は神様のお姿があり、神様が取られた行動があり、神様が歩まれた道があると思うのです。
そしてここには、「しかし今や、神の義が」と語られています。「神の義」、うーん、難しい。何とかわかりやすく表現し、理解する道はないでしょうか。そ
んな時は、いろいろな訳の聖書を読み比べるといいことがあります。「新共同訳聖書」の前に、「共同訳」というほぼ新約だけが訳された聖書がありました。そ
こでは、「神の義」がこう訳されているのです。「神の救いの働き」。人間と世を助け、導こうとする神様の救いの働き。それが「律法と預言者とによって証し
されている」とパウロは語ります。ここに表された神様のお姿、それはどんなものでしょうか。私は、それを「神様の一生懸命」と呼びたいと思います。神様が
実に一生懸命になって「神の救いの働き」「神の義」を実行して来られた。イスラエル、ひいてはすべての人々、私たちをも愛し、救い、導こうとされる様が描
かれていると思うのです。
まず、その「神の義」「神の救いの働き」は、「律法と預言者とによってあかしされて」きたと記されています。「律法と預言者」、それは一言で言って「旧
約聖書」を意味しているのです。「旧約」は大きく三つの部分に分れます。そのうちの主要な二つが「律法」そして「預言者」なのです。だから「律法と預言
者」ということで「旧約」全体を指すのです。今から語ろうとする「神の義」「神の救いの働き」は、突発的な思いつきのようなものではない、それは「律法と
預言者によって」、遠く旧約聖書の昔から一貫してずっと神によってなされ、表され、導かれてきたものだ、とパウロは言うのです。そこにはまず「天地創造」
が語られていました。神様はこの世界をお創りになった、その中に住むすべてのものをお創りになった、私たち一人一人をお創りになったのです。そこから、
「神の一生懸命な救いの働き」が始まりました。そのうち、神はすべての人間の中からイスラエルと一つの民を選ばれました。それは、他の民族やグループを捨
てたということではなく、このイスラエルを通してこそ、すべてのものに対するご自身の愛と真実を示し、与えるためでした。このイスラエルの歴史が「律法と
預言者」、旧約聖書には書かれています。そこで、神様はどんなに「一生懸命」であられたことでしょうか。時にはやさしく、時には厳しくイスラエルに語り、
接して、イスラエルがたびたび犯す罪や過ちに対してもどこまでも忍耐深く、憐れみ深く、なんとかしてイスラエルを正しく、幸いなものとして導こうとされた
のです。この「律法と預言者」の書、旧約聖書を読み、イスラエルの歩みを見るとき、神様はどんなに懸命に私たち一人一人、またこの世界を愛し、救い、導こ
うとされているかがわかるのです。
けれどもまた、こうも語られています。「律法とは別に」。ここには、神様の一つの「挫折」があると思うのです。「律法」、これは旧約聖書の最も大切な部
分です。「何が正しく、何が正しくないか」、「神は何を望み、何を望まれないか」という、いわば「神の心」が語られているのです。でも、その「神の心」は
とうとう届かなかった。イスラエルは「律法」に記された「神の心」を受け入れ、それに従うことはできなかった。その姿と生き方もまた私たちを表しているの
です。「ああしなさい、こうしなさい」と言われれば言われるほど、人間は過ちを犯し、罪の道に進んで行ったのです。そして、「すべての人は罪を犯したた
め、神の栄光を受けられなくなって」いるのです。神様が一人一人にくださった「輝き」を失い、生きる力をなくしてしまっているのです。だから、「律法とは
別に」、神様は今までとは違う道を探し、選び、歩まなければならなかったのです。
「しかし今や」と語られます。「しかし今や、神の義が現された」。「神の一生懸命」は、それにもかかわらずくじけることなく貫かれ、しかも全く新しい形
で、全く新しい道を取リ、全く新しく現され、現れたのです。それは、イエス・キリストというお方でした。この方が来られたこと、それはまさに「神の救いの
働き」「神の愛と一生懸命」「神の義」そのもの、その現われ、その実現そのものであったのです。
主イエスが来られてなさったことは、神の愛と真実の実現そのものでした。イエス様を歌った賛美歌にこのようなものがあります。「食するひまもうち忘れて
しいだけられし人を訪ね 友なき者の友となりて 心くだきしこの人を見よ」。このようなイエス様の生涯、道こそ、あの「神の一生懸命」、神の愛と真実を
表し、見せ、与えるものです。「そこにはなんらの差別もない」、本当にない、このことを示すためにこそ、主は当時にあって最も「虐げられた人を訪ね」、
「友なき者の友」となられたのだと思います。このイエス様によって、「神の義」、神様の「よし」とする働きは起こり、成し遂げられ、与えられました。曲
がっているものを真っ直ぐにする、傷ついているものをいやす、倒れているものを起こす、罪を犯してしまった者を赦して新しい生き方と道を開き与える、神を
知らず神から離れる罪によって全く損なわれてしまっている私たちの人生と世界をもう一度新しくし、正しくし、幸いなものとする、この神様の「救いの働き」
「神の義」とその道とが開かれ、始まったのです。
先週に引き続いて、一人の方のことをご紹介したいと思います。「2006年1月7日JR下関駅は炎に包まれた。犯人として逮捕されたのは8日前に福岡刑
務所を一人満期出所した74歳男性。彼はこれまで50年近く刑務所で過ごしてきた。―――放火は、重罪である。当然ゆるされるものではない。ただ彼を断罪
することだけが、この社会のなすべきことだろうか。犯行動機とされる『刑務所に帰りたかった』は、今日の社会の現実を端的に指摘している。―――『障害』
を持ち、家族もなく、働くこともできず、帰る場所もない者が、『刑務所に帰りたい』と願う。―――この社会はあの日の犯罪以外のどのような選択肢を彼に提
示できたであろうか。」そのように考えられた一人の牧師が、この人に会いに出かけて行かれ、彼の話を聞き、その身元引受人となりました。この牧師は、彼に
その罪を徹底的に認めさせました。「どんな理由があっても、放火はだめです。」「罪は罪です。裁かれて当然です。」しかし同時に彼にこう語りかけたので
す。「Fさんが今後どこの刑務所に送られることになったとしても、必ず出所の時には私が迎えに行きます。」「Fさんの出所後のことは、私が責任をもって支
援します。」これに答えてFさんはこのような手紙を送って来たのでした。「ぼくは今深く反省しています。今度刑務所を出たらA(牧師)さんの所へ帰って一
生懸めい働きます。もう二度と同じ罪は犯しません。―――ぼくは元気で刑をつとめてきますから、Aさんも元気で身体に気をつけてください。ーーーAさんが
むかえにこられるのを楽しみにしています。今後、ぼくのことをよろしくお願いします。」(以上、奥田知志「第三の困窮と犯罪―――ホームレス支援の現場か
ら下関放火事件を考える」より、一部名前に関する部分改変)このような働きの中に、「神の一生懸命な救いの働き」、罪を犯した者を裁きつつ、同時に正しく
立ち帰らせ、新しい生き方と道を与えるその力、「神の義」が証しされていると思います。
こうしてイエス・キリストによって現された「神の義」、「神の一生懸命」、神の「よし」とする救いの働き・業・道が、今やすべての人に向かって、私たち
一人一人に向かって例外なく開かれ、与えられているのです。それは、パウロによれば、驚くべき仕方で与えられました。「彼らは値なしに、神の恵みにより、
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」
まず、「値なしに」です。これは「ただで、何の理由もなく」ということです。神様にとっては、「愛する理由」どころか、私たちを「罰し見捨てる理由」は
数限りなくあるのです。それにもかかわらず、神様はなんと「値なしに」、何の条件も資格も問わずに、理由もなく、私たちを愛し、赦し、救おうとなさるのだ
というのです。
これぞまさしく「神の恵みにより」です。「恵み」とは、「好意そのもの」「愛そのもの」ということです。それは、神様からの「プレゼント」です。プレゼ
ントには交換条件は付きませんし、付けてはなりません。「これをあげるかわりに、これこれをしてちょうだい」とか、「これこれをしたら、これをあげます」
ということではなく、神様はまさに全くの好意によって、全くの愛に基いて、私たちにこの善きものをくださろうとするのです。
しかしよく考えると、実はこの世には、本当に「ただ」というものはありません。別に「ひも」を付けるとか条件を付けるとかでなくて、純粋に人にあげると
いうものでさえ、それは実は「ただ」ではないのです。だれか別の人が、その値を負担し払っているのです。教会には「非売品」の「ただ」であげられる聖書が
たくさん置いてあります。ギデオン協会という団体が配っている聖書です。これはまさに「ただで」あげるための聖書です。でも本当は「ただ」ではありませ
ん。そこには、ギデオン協会やその周りの人々の尊い献金と祈りがあります。その聖書がここに届くには、その人たちの多大な労苦があったのです。
このような神様の絶大な「恵み」、それが私たちのところにまで届くには、実は神様の絶大な労苦と、そして犠牲があったのです。まさしく「神の一生懸命」
があったのです。「キリスト・イエスによるあがないによって」、私たちが「値なしに」「ただで」「何の理由もなく」愛されるために、いや罪に定められるべ
きすべての「理由」にもかかわらず、神に愛され導かれることができるために、イエス様がその「値」をご自身引き受け、担い、払ってくださったのです。それ
は、実に高価な「値」でした。それは、イエスご自身の命だったのです。それがあのイエス様の十字架に至る道であり、生涯でした。神様は文字通り「一生懸
命」に、ご自身の命を懸けて私たちを愛し、赦し、救ってくださったのです。この驚くべき「プレゼント」が今や私たちの前に与えられ、示されているのです。
さて、どうしましょうか。プレゼントを「はい」と出されたら、どうしますか。パウロは教えてくれます。「それはイエス・キリストを信じる信仰による神の
義」だと。それはただ「信仰によって」受け取るのだ。「信仰」とは何ですか。私はそれは「空っぽの手」だと思います。「ただ恵み」なら、「空っぽの手」で
受け取るのです。何かを引き換えに差し出そうとしても、私たちにはできませんし、そもそもそれは間違っています。「私には何もありません。それどころか、
罪と過ちに満ちた者です。でも、神様、あなたの一生懸命を、あなたの恵みを、あなたの愛をそのままにいただきます。」ここから本当に、私たちの正しくさ
れ、新しく生きる道が、神様によって開かれていくのです。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
「神の義」、あなた様の救いの働き、救いの力、あなたの愛、あなたの真実、あなたの「一生懸命」、それが主イエスによって開かれ、成し遂げられ、与えら
れました。どうか、この「福音」良き知らせを、「信仰によって」、私たちの「空っぽの手」によって、受け留め、いただき、しっかりと受け取ることができま
すよう励まし、助け、お導きください。この福音のための教会の証と奉仕の働きを、あなたが創り与え、お用いください。
すべてのあらゆる人の救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。