神は愛する、愛すればこそ           
                       
ローマ人への手紙第3章9〜20節


 聖書の中で最も有名な言葉は何でしょうか。この言葉ではないでしょうか。「神は愛なり」。神様は愛である、愛に満ちたかたである、愛そのもので ある。そのような考えやイメージをもって、今日のパウロの言葉に向かうと、大きなギャップを感じることでしょう。罪を厳しく、徹底的に裁く言葉。「わたし たちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」。「義人はいない、一人もいない。悟りのある人は いない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行うものはいない、ひとりもいない。」そこには、私たちが イメージするような「神の愛」はほとんど感じ取ることができないのではないでしょうか。むしろ、私たちの甘えや弁解を一切断ち切ってしまうような、鋭く、 厳しく、近寄りがたいような神様を感じると思います。では、本当のところはどうなのでしょうか。これらの「罪」に関する言葉、罪を裁き、責める言葉、それ は神の愛とは何の関係もない、あるいは矛盾するような事柄なのでしようか。それとも、何かの関係があるのでしょうか、あるとすればどんな関係があるので しょうか。私はこう考えます。実に密接な関係があると。しかも、切っても切れない、裏腹であるような、密接な関係があると。さらに言えば、「神は愛する、 愛すればこそ」、「神様の愛があるからこそ」という実に積極的な関係があると。ただ、それはなにか「愛しているから、厳しい言葉も言える」というような表 面的なものではありません。もっと本質的な深い関わりがあるのです。

 と言うのは、ここで私たちすべての者の罪を語るもろもろの言葉を、パウロは旧約聖書から取ってきているからです。パウロは「ユダヤ人もギリシヤ人も、 まったく違いなく罪人だ」と言いましたが、その一方でこうも言っているのです。ユダヤ人にも「すぐれたところがある」、それは「神の言が彼らにゆだねられ たことである」と。それは、とりも直さず、神様がかれらを特別に愛し、その愛を表すものとして御言葉を与えられたということです。イスラエルは、いわば、 この世界に神の愛が注がれる「入り口」となったのです。彼らを通して、神がどれほどこの世界とそこに住む私たちを愛しておられるかが明らかとなったので す。
 旧約で「罪」ということが出て来るのは、この神様とその愛があればこそなのです。旧約の預言者アモスは、神様の言葉を預かり取り次いで、こう語っていま す。「わたしがエジプトの地から導き上った全家に向かって言ったこの言葉を聞け。地のもろもろのやからのうちで、私はただ、あなたがただけを知った。それ ゆえ、わたしはあなたがたのもろもろの罪のため、あなたがたを罰する。」(アモス3・1〜2)イスラエルという何一つとりえのない弱い民が、神によって特 別に選ばれ、愛されたのです。「わたしはただ、あなたがただけを知った」というのは、そういう意味です。神はイスラエルに、ご自身の愛を与え、真実を与 え、それを約束する御言葉を与えて、とことんイスラエルに愛を尽くされた。だからこそ、ここに「罪」とその裁きとが出て来るのです! それなのに、ああそ れなのに、イスラエルは神の愛に応えなかった。そればかりかそれを投げ捨て、踏みにじり、捨て去った。彼らは神に愛に背いて偽りの神々を拝み、神の真実に 背いて隣人を苦しめ、見捨てた。神がイスラエルを愛し、救い、正しい「律法」を与えられたからこそ、その「律法」は罪を示し、告げるのです。「ここに罪が ある!正しい人はいない。一人もいない。」だから、「罪」というのは、「神の愛」と裏腹なのです。「神の愛」があるからこそ、神に愛されていればこそ、 「罪」もまた起こり現われ、問われ、裁かれるのです。
 そしてそれは、イスラエルの人たちだけのことではありません。「イスラエル」というのは、全世界のすべての人々を代表して、代表するためにこそ選ばれて いるのです。だからイスラエルについて言えることは、ある意味において、すべての人々についてもまた言うことができるのです。イスラエルが神様によって選 ばれ愛されることは、実は全世界のすべての人々、その一人一人が例外なく神によって創られ愛されていることを表し、指し示しているのです。私たちは、その 一人一人すべて例外なく、私も、またあなたも神によって創られ、愛されているのです。だからこそ、神は私たちの罪を放っては置かれないのです。罪は、私た ちの生き方と命を傷つけ、損ない、滅ぼしてしまうものです。そして罪は、私たちの隣人との関係、また神御自身との関係をねじ曲げ、損ない、破壊してしまう ものです。愛すればこそ、神はその私たちの罪を問い、訴え、裁かれるのです。「義人はいない、一人もいない。」

 それにしても、このパウロの言葉は過激です。「ここまで言うか」と思います。そもそも彼はこれほどの考えをいったいどこから得てきたのでしょうか。それ は抽象的な一般論ではないのです。むしろ、パウロはこの認識を、ただ一つの事柄、ただ一つの出来事、いやただ一人のお方から受けているのだと思います。そ れは、イエス・キリストとその生涯・出来事です。「神の愛」、それが究極的・決定的に現れたのは、あのイエス・キリストによってでした。神様の「思い」、 全ての人に対する神の愛が形を取り、人となって来られたのが、イエスというお方でした。「神は、ひとり子を賜ったほどに世を愛された。」(ヨハネ3・ 16)これこそ「福音」です。しかし、なんとそれが、私たち人間の罪が決定的・究極的に明らかになった瞬間であったのです!
 このお方を、私たち全ての者はどう受け止め、どう応え、どう扱ったのでしょうか。「義人はいない、一人もいない。悟りのある人はいない、神を求める人は いない。」だれも「この方が神の愛そのものである」と悟り、求めることはできなかったのです。「すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになってい る。善を行う者はいない、ひとりもいない。」本当に、弟子たちさえ「迷い出て」、逃げ去り「無益なものとなった」のです。イエスを助けようと「善を行う 者」は「ただの一人もいなかった」のです。それどころか、「開いた墓」のような「のど」と「舌」で、イエスを偽りによって裁き、断罪し、十字架につけ、殺 したのです。この言葉どおりになったのです。「彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼ら の目の前には、神に対する恐れがない。」「もし私があの場にいたなら、そうはさせなかった」と、おっしゃいますか。でも、それは一部の「確信犯」だけの罪 ではないのです。恐れて自己保身のために口をつぐんでいた者、その場を何もなかったかのように通り過ぎて行った者、全てがこのイエスの前に「罪人」なので す。
 そしてこれらの罪に関する言葉を、パウロは自分自身の人生の挫折と過ち、まさに自分の罪と罪責とから痛切に汲み取ってきているのではないでしょうか。そ の神の愛そのものであるイエス・キリストの福音を否定し、十字架に死んだイエスを呪い裁き、また復活のイエスが御自身と同一視さえされた「キリストのから だ」なる教会を迫害し、荒らし回ったその過ちと罪。教会の信仰者たちを苦しめ、捕え、引きずり出し、殺してさえいった、そのぬぐいがたい罪責。その自分自 身の業を、激しい痛みと深い悔いとをもって振り返りながら、パウロはこう語らずにはいられないのではありませんか。「義人はいない、ひとりもいない。」

 「義人はいない、ひとりもいない」、「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」、神の愛がそこに抜き差しならず関わっているがゆえに、この言 葉は私たちをまっすぐにイエス・キリストの福音へと連れて行くのです。パウロは言います、神の律法が与えられたのは「すべての口がふさがれ、全世界が神の 裁きに服するためである」。「すべての口がふさがれ」、それは「例外も、弁解の余地もなく」ということです。少しでも「例外や弁解の余地がある」と思え ば、私たちは決して「ただイエス様だけが私の救い」と信じることはしないでしょう。「そうは言うけれど、人間まだまだ捨てたものではないのじゃないか。私 にだって、少しは見所もあるのではないか。私は弱い者、限界ある者、罪を犯す者だけど、でも100パーセント悪いわけではない」。それでしたら、「別にイ エス・キリストを信じなくても、神様を頼りとしなくても、自分でなんとかやっていけるのではないか」ということになるでしょう。
 しかし、パウロは語るのです。「すべての口は、あなたの口もすでにふさがれている」、「義人はいない、ひとりもいない」、「あなたもまたまぎれもなく神 の前に罪人なのだ」。この裁きを100パーセント受け入れ、それに服したとき、私たちに残るのはこの告白だけです。「私には善きものは何もない、全く、一 かけらもない。私に残され、許されているのは、神がお遣わしになった救い主イエス・キリストを信じること、そしてこの、私たちを愛し、赦し、善しとしてく ださる神にどこまでも信頼し、任せ、従うこと。」

 そして、「義人はいない、ひとりもいない」、神の愛がそこに抜き差しならず関わっているがゆえに、この言葉はむしろ私たちを助けることさえするのです。「ええっ」と言われるかもしれませんが、そう思います。
 「義人はいない、ひとりもいない」、この「罪」の認識の言葉は、第一に「全ての壁を越える」のです。私たちの社会と世界には、実に様々な「壁」がありま す。人と人を隔て、引き裂いていく「壁」です。思うに、これらの「壁」は、他の人を「罪」に定めることによって成り立っています。「あいつは、あいつらは 悪い。私は、私たちは正しい。だから、あいつらとは付き合うな。」その最悪の形は、戦争です。ところがそこに、「義人はいない、一人もいない」という言葉 が響き渡る時、この「壁」は崩れ落ちます。イエス様の時代にこういうことがありました。「あの人たちは罪人で、私たちは義人だ。」そういうことである特定 の人々が差別され、排除されていました。ところが、教会は宣べ伝えました。「義人はいない。一人もいない。」それは、「壁」を打ち壊し、差別を乗り越えよ うとする言葉だったのです。「ユダヤ人もギリシヤ人も皆、罪の下にある。」これは驚くべき言葉です。ユダヤ人とギリシャ人の間には、到底乗り越えられない と思われた「壁」がありました。しかし今、「ユダヤ人もギリシヤ人も等しく罪の下にある」と語られます。だからこそ今、「ユダヤ人もギリシヤ人もなく」共 に生きる道が開かれるのです。
 「義人はいない、ひとりもいない」、それは第二に、「謙遜と共感によって私たちを共に生かす」のです。2006年1月7日午後、下関駅が燃え上がりまし た。放火でした。容疑者として逮捕されたFさんは、刑務所を出所したばかりで、先の見通しも彼を迎え受け入れてくれる人もない中での、思い余っての犯行で した。この人のことを聞いて、私たち日本バプテスト連盟の一人の牧師が、彼を訪ね、何度も文通し、そして刑確定後は「出所したら、必ず迎えに行く」と約束 されたそうです。そして本当に彼を待ち続け、刑期を終えて出て来た彼を出迎え、そして彼と共に生き、彼が新しく生きる道を共に求めて行かれたそうです。教 会の歴史には、必ずそのように「獄にいる人を訪ねる」人々がいました。世の中から「罪人」と目され、避けられ、嫌われている人、その人を訪ね、かれらを愛 し、共に生きようとする、そこには何があるのでしょう。私は、その最も根底にこの「罪」の認識があるのだと思います。「義人はいない、ひとりもいない、私 も、いやこの私こそ罪人」、そう思っている人は、謙遜です。別に謙遜になろうと努力する必要はありません。否応なく謙遜なのです。「罪人にも等級があっ て、あの人は第一級の罪人だが、私は五級くらいなのでまだましだ」とか、そんなことを聖書は決して語っていません。「義人はいない、ひとりもいない。」 「あなたは罪人、そして私も、いや私こそ罪人」なのです。また、「自分は罪人」と思っていますから、罪や過ちを犯した人の痛み、苦しみがよくわかります。 そこに、共感や思いやり、そしてゆるしが生まれます。そうして、いろいろな違いを乗り越えて、共に生きて行く道を探る努力をし始めることでしょう。
 「義人はいない、ひとりもいない」、それはさらに第三に、私たち皆を「共に神の前に立たせ、神の愛によって生かす」のです。パウロは語っています。「そ れは(こう語ってきたのは)、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。」「神の裁きに服する」とは、「共に神の前に立つ」という意 味です。今までお話してきた「共に生きる」ということも、「共に神の前に」というこの一つのことなくしては、やはり限界を持ち、挫折してしまうでしょう。 でも、互いに違いや憎しみすらある者同士が、この神の前に共に立ち、この神の愛によって生かされるなら、本当に私たちは共に生き始めることができるので す。それは、片方どちらか一方がこの信仰に生きるだけでもう始まります。「あの人は私を憎んでいる。でも、私はもう知っている。私たちは神様の前に共に愛 され、生かされている。」「福音」とその救いが始まり、進展し、そして完成に至る道が開かれたのです。「神は愛する、愛すればこそ。」これがイエス・キリ ストの福音なのです。

(祈り)
私たちを創り、愛し、語りかけ、支え、導いてくださる神様。あなたの愛と真実の御言葉の前に、私たちは「罪人」であるよりほかはありません。その私たち を、あなたはイエス・キリストによって愛し、よしとし、呼びかけ、お招きになりました。どうか、ただ信仰をもってあなたの裁きを受け入れ、あなたの愛を信 じ、あなたにすべてを任せて従う者としてください。あなたによって赦され、生かされた者たちとして、あなたの和解と平和の証人また僕として共に生き、仕え て行く私たち一人一人また教会としてください。
すべてのあらゆる人のまことの救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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